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アイロニーの裏をかくアイロニー、あるいは、逆転の逆転、という話です。

われわれは様々なリスクを恐れながら生きているけれど、最大のリスクは何と言っても「死」だと思う。

死からその他のいろんな大中小のリスクが分岐して来ているわけで。

新年早々隣国から超音速ミサイルが飛んで来たのも、もしミサイルの弾頭にお正月のトッポギが詰まっているだけならリスクでもなんでもないよね。

使われ方によってそれが大きな死をもたらすからリスクなのだ。

罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
ローマの信徒への手紙 6:23 新共同訳

「死」に対して人類は長年に渡って抵抗して来た。

医療の発達も社会の発達も文明そのものすらも、それらを前進させて来た駆動力は、死に対する抵抗だ、と考えることができるだろう。

しかし、そこには常にアイロニーがつきまとう。

社会全体の最大幸福を追求する革命思想の行き着いた先が数千万人もの大粛清であったり、悲惨な世界戦争が起きないよう抑止するための装置が地球を何十回も破壊できてしまえる核兵器であったり。。。

死の影はそう簡単に人類を手放してはくれないのだ。

いったい、なぜ、そうなっているのか? 

生物学的に考えれば、それは人間の遺伝子のテロメアという構造が細胞分裂を繰り返すたびに短くなるから死に至るのだ、という答えになる。

だが、生物の中には短くなったテロメアを修復させるテロメラーゼという酵素を持つ種もいる。彼らは理論上、死ぬことが無い。

つまり、生物=死が必須、というわけでもないのだ。なぜ人間にテロメラーゼが与えられていないのかは、わからない。

神学的に考えた場合には、死は人間という存在のありかたに深く根差している、という説明をする。その説明原理が「罪」だ。

罪とは刑務所に入るような罪を犯すこと、という日本語の語感とは裏腹に、聖書の原義に照らした「罪」は、的を外した弓矢、あるいは、脱臼した関節、というイメージだ。

それは、神が本来意図した人間の在り方から脱線したわれわれの状態を示している。

スピリチュアルな意味で脱臼していない人間はいるのだろうか? 

聖書の説明の仕方によれば、ひとりもいない、ということになる。

それはつまり、罪の影から誰も簡単に逃れることはできないし、また、死の影から逃れることも簡単ではないことを意味している。

いや、でも、もしかしたら、テロメラーゼのおかげで死なないロブスターのように、あるいは、エンライトメントを開いたブッダのように、この世界のどこかに不死の人間が正体を隠しながら生きているかもしれないけれど。それは知らない。

人間にとって当面は解決不能に思える「罪と死」の問題について、聖書は罪と死そのものを使った超裏技の方法で解決を図ろうとする。

罪と死の問題を罪と死によって解決する。それはまるで、毒をもって毒を制する、あるいは、死に抵抗する人類が常に死の影から逃れられないアイロニーを逆手に取ったアイロニーのようだ。

その逆転の逆転はどいう方法かと言うと、神学的には古典的刑罰代償説と言われるものになる。

それは、罪と死に無縁であるはずの神人イエスが、罪と死をそっくり引き受けることによって、全人類を罪と死から解放する、という方法だ。

その象徴が十字架だ。十字架とは罪に対する最も残酷な刑罰として罪人に死をもたらす処刑の道具だ。その意味で十字架とは「罪と死」そのものと言うことが出来るだろう。

ところが、逆転の逆転によって十字架は人類を罪と死から解放する手段となった。このためにクリスチャンは十字架を誇らしく胸に下げ、壁に飾り、そして、自分の墓石に刻む。

墓石に刻まれた十字架。それは、逆転の逆転の方法によっても本日現在やはり人間は死を免れることができていない事実を示すのだろうか?

そのように考える人もいるだろうが、多くのクリスチャンはそのようには考えない。むしろ、こう考える。

罪と死から解放された人類は、イエスに結ばれて、イエスが通った行程を自分も通過することによって、解放のじつに参与する。つまり、われわれはイエスが歩いた足跡を今日たどっている、ということなのだ。

イエスの足跡は死と墓を通過して復活に続いている。その足跡に自分は自分の足を重ね合わせて今日も前進して行く。自分もまた死と墓を通過して復活に到達することを期待しつつ。

しかし、いったいなぜ神はイエスの足跡をたどるプロセスをすっ飛ばして、われわれが胸に十字架のペンダントを下げさえすれば一瞬で不老不死に変身するようにしてくれないのか? 

それについては、いろんな考え方があるだろう。

これは自分の考えだが、イエスの足跡をたどる行程そのものが、われわれのスピリチュアルなあり方に変化・変質・トランスフォーメーションをもたらすのであろう、ということだ。

その効用は、イエスの足跡をたどればたどるほど、われわれはイエスに似たキャラクターに変えられる、ということになる。

残念ながら十字架のペンダントに即効性のチャームはない。むしろ、今日を生きる=リアルな十字架を自分の肩に担って前進する、ということにトランスフォーメーションの意義がある。

それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
マタイによる福音書 16:24 新共同訳

自分の十字架を背負って生きる、というのは、また別の種類のアイロニーかもしれない。

なぜなら、十字架を取って生きるとは、リスクを回避して生きることではなく、むしろ、あえてリスクを取る方を選んで生きることになるからだ。

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