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すぐ足元まで来ているイエス革命。

クリスチャンである自分は、イエス・キリストは「神」と思っているわけだけど、それはいわゆる日本語表現における神とはかなーり違ってて。。。「今日のドラマは神回」とか「〇〇さんのコメントの返し、マジ神」とか、そういう最上級の形容表現としてのカミではなく。。。神学的な概念としての神、つまり、万物の創造者・保持者・統治者としての神(ゴッド)であるのがイエス・キリストだ、と思っているわけなんだ *¹。で、その前提を押さえた上で今日の聖書の言葉を読んでみると、あらためてスゴイこと言ってるよなー、と思ってしまう。

今日の聖書の言葉。

人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。
マタイによる福音書 20:28 新共同訳

「人の子」というのはイスラエル・ユダヤ人が待望していた救い主「メシア」を表すための特別用語だ。初出は旧約聖書のダニエル書で、次のようになっている *²。

見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り
「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み
権威、威光、王権を受けた
諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え
彼の支配はとこしえに続き
その統治は滅びることがない

「日の老いたる者」とは父なる神のこと。「人の子」というのがメシア(油を注がれた者)のこと。そして、ヘブライ語のメシアをギリシャ語に訳したのがキリスト(意味は同じく「油を注がれた者」)だ。つまり「イエスはキリスト」と告白することは、ナザレ村出身の大工の息子のイエスこそダニエルの預言で証しされたメシアにほかならない、と信じることを意味する。

このダニエルの預言でメシアにくっつけられている諸属性は、どれも支配的な概念ばっかりなんだよねー。

権威、威光、王権、支配、統治

。。。というわけだからさ。どれもこれも上から力でおさえつけるイメージ。こんな感じになる。辞書は Oxford Languages だ。

権威:すぐれた者として、他人を威圧して自分に従わせる威力。また、万人が認めて従わなければならないような価値の力。

威光:人がおのずからうやまい服するような、おかしがたい威厳。

王権:統治者たる王としての権力。権力とは、他人を支配し、服従させる力。支配者が被支配者に加える強制力。

支配:ある者が自分の意志・命令で相手の行為やあり方を規定・束縛すること。

統治:主権者が国土・人民を支配すること。

どうみても上からギュウギュウ押しつけてくる感覚ばっかり。ところがイエスはそれをひっくりかえしちゃったんだ。

人の子が、仕えられるためではなく仕えるために
また、多くの人の身代金として
自分の命を献げるために来たのと同じように

「自分は、支配するためではなく、しもべとして仕えるために来た。命を要求するためではなく、命を差し出して身代わりになるために来た」とイエスは言うのだ。しかも、言っただけでなく実行した。ほんとうに「しもべ」の姿勢でひざまづき、弟子たちの汚れた足を洗い、「身代わり」の小羊として全人類の罪を担い、十字架にかかり、命をささげたんだ。

このイエスのアクションによって、聖書が持つ権威・威光・王権・支配・統治の概念が、すっかり変わってしまった。それは実質、天と地がひっくり返るような出来事だったのだ。以来、このさかさまの効果は、ゴルゴダの十字架からはじまって宇宙の隅々へジワジワ侵食し、拡大し、変貌させ、普遍化しつつある。中世ボヘミアの王ウェンセスラス *³ なんて、そのひとつだと思うし、現在進行中の普遍化のひとつがサーバントリーダーシップ *⁴ なのだろうなあと思う。もちろん、パワハラ、モラハラ、セクハラという言葉をテレビや新聞やネットで見ない日はないけれど、でも、そういう旧世界であたりまえとされていた慣習は、いま、永遠の滅びの淵に立たされている。あたらしい時代にそれらが場所を持たないことは誰の目にもあきらかだよね。イエスから始まった革命は2000年かかって地球のみんなの足元まで来てるみたいに感じるんだ。

註)
*1.  Cf. ヘブライ 1:2-3
*3.  Cf. ダニエル 7:13-14
*3.  聖歌 662番 このクリスマスの讃美歌で歌われる聖王ウェンセスラスは、薪と肉とブドウ酒をみずから背負って雪をかきわけ進み、貧しい小作人の家まで届けたとされる。
*4.  日本サーバントリーダーシップ協会「L.C.スピアーズによるサーバントリーダーの特性

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