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抹消されたはずの負の記録を、何度でも閲覧し、しかし、何度でも抹消される。。。

絶対ゆるせない相手、って、生きてれば、ひとりやふたり、いるよね。

聖書を読んでると、敵の殲滅を祈願する「呪い系」の聖句と、赦しを勧告する「赦し系」の聖句が、出て来る。

旧約聖書の詩編には、呪い系の聖句がいくつか載っていて、なかには、引用するのもはばかられるものがある。。。

たとえば、代表的な詩編 109編は、こんな感じだ。

呪いは彼自身に返るように。
祝福することを望まなかったのだから
祝福は彼を遠ざかるように。
呪いを衣として身にまとうがよい。
呪いが水のように彼のはらわたに
油のように彼の骨に染み通るように。
呪いが彼のまとう衣となり
常に締める帯となるように。

もうね、呪いでもって相手をラッピングして、ソーキングして、バインディングして、っていう、スゲー呪い。

正直言うと、自分もこの詩編を使って呪ってやろう、って思ったことが、なかったわけではない。

一度ならず、二度。。。二度ならず三度。。。えーっと。。。数えきれないぐらい。。。

正直すぎてスミマセン。。。

徹底的に相手を呪うツールとして便利に使えそうな詩編 109編だけど、でも、そこにはトンデモナイ取扱注意の危険要素が仕込まれているんだ。

どんな危険かというと。。。

落ち着いて読めば、気づくと思うんだけど。。。

ここ。この箇所。

呪いは彼自身に返るように。
祝福することを望まなかったのだから
祝福は彼を遠ざかるように。

ひとを呪うと、その呪いが、そっくりそのまま返って来る、っていう、反復構造のアルゴリズムによる呪いが、ここで設定されちゃってるんだよね。

だから、詩編 109編を呪いのツールとして使うと、自分に呪いが返ってきちゃうという、ツールとしては最凶最悪。。。

なので、実質。。。使えない。。。

今日の聖書の言葉。

互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
コロサイの信徒への手紙 3:13 新共同訳

最強の呪いのツールのなかに、使うことを思いとどまらせる危険要素が仕込まれてる、っていうアイロニーは、もしかしたら読者に対する「神」の配慮なのかもしれないねー。。。呪いたいだろうけど、呪っちゃだめだよ、っていう。。。

イエスは全人類の身代わりとして十字架にかかり、復活した。だから、どんな相手も赦さなきゃいけない。だって、自分は赦されたんだから。。。っていうことは、アタマでは、わかるんだけど。。。

でも、アタマにハラが追い付かないことがある。

人生はアタマとハラの追いかけっこなのかもしれない。ハラが先を走って、アタマが追いかけたり、アタマが先を走って、あとからハラが追い付いたり。。。

人生最後の瞬間を迎える時に、アタマとハラが同時にゴールインできればいいんだろうけど。。。

神と自分と相手がいて、それだけじゃなく、自分のアタマとハラもそこにいて、全員納得できるカタチで「赦し」が生起することが、ほんとうにあるのか、どうか。

それは、永遠の住居である「あたらしいエルサレム」に行ってみないと、わからないんだろうなあ、と思う。

あたらしいエルサレムには、「命の書」という本が置かれていて、それには、天地創造のはじめから、世界の終わりに至るまで、すべてのひとの言葉・思い・行い・怠りが克明に記録されているという *。

自分は、あたらしいエルサレムに行ったとき、その本を閲覧させてもらえるに違いない、と思っている。

どのページをまず開くのか。。。

「神」の視点で記録された自分という究極のエゴサーチに興味があるから、やっぱり、自分のページを最初に開くんだろうなあ。。。

次に開くのは「敵」のページだ。呪っても、呪っても、呪い足りない相手の悪行が、どういうふうに記録されているのか。。。

でも、そこを読むと、おそらく、こんなことになっているんじゃないか、と恐れている。

あの年のあの日のあの時刻、相手は自分にこういう悪を行って、結果、自分はこういう傷を受けた、というふうに記録されてなきゃいけないはずなのに、なぜか自分のところがぜーんぶ「イエス」に置き換えられちゃってる。

しかも、その末尾に、主の支配の第33年4月3日(金)午後3時00分00秒にイエスの血によって負の記録は抹消された、って、ある。

えーっ、待ってよ、抹消って、どういうことよっ? って思う間もなく、みるみる文字が消えて、ページが真っ白になってしまう。。。

それと同時に、宇宙も、世界も、歴史も、自分のアタマもハラも、永遠の過去にまでさかのぼって書き換えられてしまう。。。

本の閲覧場所から出る時、でも、思うんだ。「いや、そんなんじゃなかったはずだ」って。で、また閲覧しに戻る。

すると、不思議なことに、ページには文字が戻っている。

だから、最初から読み直す。すると、やっぱり傷ついた自分の記述がぜーんぶイエスに置き換わっている。

そして、末尾の「主の支配の第33年。。。」のところまで来ると、また、サーッとページが真っ白になってしまうんだ。

註)
*  Cf. 黙示録 20:12

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