見出し画像

こういう時代になったので、もう、うめくしかないよね、っていう話です。

「絶対的不確実性の時代」に突入し、かつ「理性と言葉の時代の終焉」を現在進行形で見させられている今日この頃だけど、じゃあ、この先いったい何を頼りに生きたらいいんだろう、ってことを思うと、途方に暮れた気持になる。

あらゆることが見通せなくて、理性も言葉も信頼できない、ってなったら、残されたのはたぶん身体性だけなのかもしれないねー。。。

今日の聖書の言葉。

同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
ローマの信徒への手紙 8:26 新共同訳

あらゆる手掛かりを失ったとしても、とにもかくにも、自分の身体は「ここ」にあるよね。それは疑いようのない事実だ。

そして、世界がどういう状態になろうとも、この身体をもって今日を生きなければならない。非日常化された世界のなかの最後の牙城としての「日常性」は、たぶん自分の身体性なんだろう。。。

身体をもって生きるということは、いつも・たえず・つねに「快」と「苦」のふたつの感覚の間の無限のグラデーションのなかで揺れ動くことなんじゃないかと思う。

でも、揺れ幅が大きすぎると安定した生き方ができなくなってしまうので、古代の賢人や哲学者たちは、快と苦のどっちにも振れない「中庸ちゅうよう」の生き方を推奨した。これは、まあ、その通りだよなー、と思う。

問題は、健康状態によって、あるいは、世界情勢によって、自分の意志に反するかたちで身体性が「苦」のほうに偏向させられる場合がある、ってことだよね。

それは、中庸を望んでも中庸に手が届かない状態。ガンの疼痛とか、敵国による無差別爆撃とか、極端な事例を考え得るけれど。。。いや、それって、極端なのかな? いまの世界を見たら、それらが明日自分の身にふりかかったっておかしくないよなー、って感じてしまう。

身体性が意に反して「苦」のほうに偏向させられるのなら、自分としてはもう、身体性からの解放を願うしかない。でも、それは安楽死を選ぶとかいうことではない。むしろ、とても「終末論的」なことなんだ。

で、それが、今日の聖書の言葉の直前で言われている「身体のあがない」っていうことなんだろうと思う。

わたしたちも、神の子とされること
つまり、体の贖われることを
心の中でうめきながら待ち望んでいます
*

身体が贖われる、って、どういうことかというと。。。

イエスにおける「神」は、人類の身代わりとなって贖いの死を遂げてくれた。【贖う】とは、買い戻す、という意味で、ここでは神が無限の価値を持つ「神」の命を代価として十字架で支払うことで、全人類を買い戻して永遠に神のものとした、ということになる。

じゃあ、全人類が神によって買い戻されると、どういう状態になるのか? それは当然、人間の身体性が「神」のものとなる、ってことになるわけだけど、その買い戻された身体性の状態を見せてくれたのが、復活のイエスだ。

イエスは十字架にかかり、三日目に復活することによって、永遠に朽ちることのないよみがえりの身体を、目に見えるかたちでみせてくれた。

こっから先は自分の推測なんだけど。。。

われわれの身体性が「苦」のほうに極限まで偏向した結果が、身体性の終焉としての「死」なんだろうなあ、と思う。

で、イエスの復活の身体は、永遠に朽ちない、っていう属性を持っているわけだから、それはつまり、その身体性はもはや「苦」のほうに振れることが永遠にない、っていうか、絶対にない、っていうことなんだろう。

それがつまり、あらゆる「苦」から解放された身体性であり、そういう身体性を獲得することを「身体の贖い」って聖書は呼んでいるんじゃないかと思う。

クリスチャンである自分は、イエスが復活したように、自分の身体も復活させられる、っていうことを素朴に信じている。聖書がこう言っているからだ。

キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
ローマの信徒への手紙 8:11 新共同訳

いったい「神」は、いつ、自分の身体を復活させてくれるんだろう? それは、わからないけれど、でも、それが実現する日を待ち望みながら今日を生きる、っていうことが「終末論的」な生き方なんだろうなー、と思う。

この終末論的な生き方においては、自分の目は、復活のイエスに注がれている。永遠に朽ちることのない身体性、つまり、あらゆる「苦」から解放された身体性が、自分の人生の最後の地点にターゲットとして置かれているんだ。

自分は、そのターゲットに向かって、自分の身体性をもって一歩一歩進んで行く。だって、進むためには身体を使うしかないからね。

進んでいるあいだ、自分の身体性は「快」に振れる日もあれば、「苦」に振れる日もある。なんだか毎日ほぼ「苦」にばっかり振れているんじゃないかと感じるようなシーズンもある。

自分の身体性が「苦」のほうに振れる日には。。。できることは、シップを貼る、痛み止めを飲む、医者に行く、祈る、寝込む、ひたすら耐える、あきらめる、など、まあ、いろいろやるわけだけど。。。

しかし、ほんとのほんとにどうにもならない日にできるのは「うめく」ことぐらいしかないよね。

心の中でうめきながら、身体が贖われるのを待ち望む。でもそれは、全然希望のない孤独な行為なんかじゃあない。むしろ、その「うめき」のなかで、イエスにおける「神」が自分に臨在して、自分を受け取ってくれる、って聖書は言うんだ。

その証拠聖句が今日の聖書の言葉だ。

わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが
“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって
執り成してくださるからです

自分はこの言葉を信じたいと思う。だって、自分の「うめき」のなかで神がいっしょに居てくれる、って言うんだから。

いや、それどころじゃない。神が自分の「うめき」を一緒にうめいてくれる、って言うんだから。そして、その「うめき」そのものが神への祈りに変換される、って言うんだから。

そして、そういう祈りが集積されて行った結果として必然的に自分にもたらされるのは、あの終末論的な出来事、つまり「身体の贖い」であるわけなんだから。だからもう、安心してうめくしかないよね。。。

註)
*  Cf. ローマ 8:23

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?