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ホームに向かって旅をするのか、ホームのほうが近づいて来るのか、っていう話です。

ホーム、ホーム、スイートホーム。。。

その心地よい響きが、心地よいものであるためには、ホームは安全な場所である必要があるよね。

いま世界で、ホームが敵によって脅かされ、安全な場所ではなくなってしまったひとたちが多くいることを思うと、心が痛む。

今日の聖書の言葉。

ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
命のある限り、主の家に宿り
主を仰ぎ望んで喜びを得
その宮で朝を迎えることを。
詩編 27:4 新共同訳

ホームにも、いろんなかたちがある。アパート、マンション、一軒家、ログハウス、タイニーハウス、トレーラーハウス、長屋、四合院、客家円楼。。。

個人のホームもあれば、みんなの精神的なよりどころとしてのホームもあるよね。

イスラエル・ユダヤ人にとってのホームは、エルサレムにある神殿だった。

だけど、それは歴史のなかで二度も破壊され、いまその場所に神殿は無い。

神殿が繰り返し破壊された結果として、ホームへの憧憬はスピリチュアルな次元に昇華され、それは天から下って来る「新しいエルサレム」へと変貌した。新約聖書の末尾の黙示録にそのビジョンが描かれている。これだ。

わたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
ヨハネの黙示録 21:2 新共同訳

新しいエルサレムは天上・つまり・歴史を超越した場所にあるから、もはや諸国家の衝突や動乱によって翻弄される心配はない、ってことになる。これならほんとうに安全だね!

でも、もしそうなら、歴史の意味って、なんなの? って思ってしまうけど、ホームが天上に置かれた結果、歴史には新しい意味が付与されることになった。

それは、天上のホームを目指して旅する巡礼者の道としての世界、という歴史観だ。これを、エクレシア・ヴィアートル(旅する教会)とも言う。

新しいエルサレムを目指す旅人たちは、この世界でどんなことが起こっても、立ち上がって、何度でも立ち上がって、顔を前に向けて、身軽になって、後ろは振り返らないで、前へ前へ進み続ける。そうやって世界を通り抜けて、歴史を通り抜けて、天上のホームへ一歩一歩近づくんだ。

そういう旅人の姿を、新約聖書はこう描写している。

この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。 このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。 もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。 ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです
ヘブライ人への手紙 11:13-16 新共同訳

黙示録を見ると不思議なことに、われわれが歩いて天上のホームにたどりつくのではなく、むしろ、新しいエルサレムのほうが天を離れて地上に降下し、われわれのもとに来る、っていうふうに描写されている。

ホームが動いてこっちに来るなら、自分はべつに歩かなくたって、じっとして待ってればいいんじゃん? って、ついつい怠け者の考えが浮かんでしまうんだけど。。。

でも、世界のありさまに落胆し、失望し、絶望し、地面にへたり込んでというか地面に沈み込むような気持になって、一歩も動けなくなる状況って、あると思う。それこそ、地上のホームを敵によって破壊されたら、そんなふうに感じるだろう。。。

新しいエルサレムは、そういう時のための「慰め」なのかもしれないねー。旅人が動けなくなったとしても、ホームのほうが天を離れて旅人のところまで動いて来てくれる、って言うんだから。

だから、どしどし歩いて前進できる日には、どこまでも前進しよう。でも、一歩も踏み出せないような鉛色の空の日には、ここにうずくまって、でも、少しだけ顔を上げて、待ち望もう。ホームが、新しいエルサレムが、こっちに近づいて来るのを、静かに、じっーと。。。

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