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神か、悪魔か、どっちになるんだ?

聖書には神と共に悪魔も出て来る。これは、ほんとうに謎だよね。

世界を説明する上で、最初から最後まで「神」だけで貫徹して書き終える、ってことも、聖書には出来たかもしれないのに。。。

でも、実際には、神ほどの分量でないにしても、悪魔が聖書のあちこちに登場する。

もちろん、世界のなかになぜ悪があるのか、という神義論についての説明をするためには、「悪魔」というアイコンが必要だった、という考え方もできるんだけど。。。

しかし、むしろ、われわれが悪に陥らないように、という実践的な警告として書かれている、と言うこともできるかもしれないねー。

今日の聖書の言葉。

互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。
ガラテヤの信徒への手紙 6:2 新共同訳

新約聖書のガラテヤの信徒への手紙のなかで、自分にとってのゴールデンバース(黄金の言葉)が、ある。

それは、これ。

生きているのは、もはやわたしではありません
   キリストがわたしの内に生きておられるのです
 *¹

この聖句って、考えれば考えるほど、すごいよね。

だって、生きているのは自分ではない。キリストがあたらしい自分を、いま・もう・すでに・生きている、って言うんだから。

これって、人生が低調な時には、ほんと、内なる力となって自分を支えてくれる、ありがたい言葉だ。

ところが、好調な時には、この言葉は一歩間違うと、オレ=キリスト、オレってすごい、オレがイチバン、っていうオレサマイチバンワールドを作り出しかねない。

そして、これが。。。これこそが。。。悪魔へと頽落して行く道なんだよねー。クワバラ、クワバラ。。。

生きているのは自分ではない。キリストが自分を生きている。。。という信仰によって、独善に陥って、悪魔になってしまわないためには、バランスが必要だ。

で、そのバランスを取ってくれるのが、今日の聖書の言葉なんじゃないかと思う。

互いに重荷を担いなさい
そのようにしてこそ
キリストの律法を全うすることになるのです

逆に、バランスが崩壊した状態について、パウロは上記の言葉の直前で、こう言っている。

実際には何者でもないのに
自分をひとかどの者だと思う人がいるなら
その人は自分自身を欺いています
  各自で、自分の行いを吟味してみなさい
 *²

じゃあ、バランスを取るために必要な「互いに重荷を担う」ことって、具体的には、どいうことなんだろう?

いろんな注解書を読んでみたけど、こういう解釈をしているひとが多いような気がした。総合してみる。

● 生きているのは自分ではない、キリストが自分を生きている。まあ、それは、それで、いいとして。

● そういう信仰を持ってるにもかかわらず、誘惑に負けて、罪を犯してしまうことがあるでしょう?

● で、自分が誘惑に負けたことは、自分でわかっている。ていうか、自分にしかわからない。

● それをわかっていながら、じゃあ、誘惑に負けてしまった他人を、どうして裁くのよ? って話。基本、裁いちゃダメでしょう?

● まあ、裁かないにしても、注意する必要は、当然あるかもしれない。だから、他人に注意してもいいよ。

● でも、それにしたって、言い方っていうのがあるでしょう? 情け容赦なく怒りをぶつけて追い詰めるように攻撃するのは、クリスチャンとしてどうなのよ?

● だから、他人に注意するときには、戦友同士としての思いやりが必要なんだよ。だって、自分だって何度も弾にあたって負傷して来た身なんだから。

以上を、ひとことで簡単にまとめるフレーズがあるとしたら、これなんじゃないか、と思う。

キリスト「が」愛するように
キリスト「を」愛するように

他人に接するとき、キリスト「が」愛するように、愛せたら。しかも、その他人を、キリスト「を」愛するように、愛せたら。

これはもうね、ひたすら神。悪魔になっちゃう心配は皆無だと思う。

註)
*1.  Cf. ガラテヤ 2:20
*2.  Cf. ガラテヤ 6:3-4

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