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世界大戦が勃発して政府が消滅するかもしれないような時代にあって、どうしたら自分を保てるんだろう? 平和を希求できるんだろう? っていう話です。

人間は、ひとりでは生きていくことができないので、人と人が集まって、助け合って生きようとするわけだけど、その「集まり方」には、いろんな方法があるよね。

まあ、ニュースとか見ていると、政府の動向がいろいろ報じられて、ついつい個人と政府が直接に対面しているような感覚を持つことが多いんだけど。。。

でも、考えてみると、個人から政府までの間には、すごいいろんなかたち・いろんなレベルの「集まり方」が詰まっていると思う。

たとえば、職場とか、学校のクラスとか、ママ友・パパ友の会、マンションの管理組合、互助会、町内会、商店会、同好会、サークル、社交クラブ、教会などなど、数え上げたらきりがないよね。

今日の聖書の言葉。

わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。
ローマの信徒への手紙 1:16 新共同訳

そういう「集まりの方」のかたちって、人類歴史のはじまりからいまに至るまで、いろんな工夫をされて来たんだろうなあ、と想像する。

ユダヤ人にとってのそれはシナゴーグということになる。シナゴーグはスナゴゲー (集まる) というギリシャ語由来の名称だから、まさに「集まり方」だ。

ユダヤ人の場合、自分たちの日常を保障する「政府」という仕組みを外国の侵略で繰り返し破壊される、という苦難を数千年にわたって経験して来た。

母国を喪失した彼らは、世界中に離散して生活しなければならなかったんだけど、その彼らが生き残るための「集まり方」がシナゴーグだった。

離散先の土地にユダヤ人の成年男子が 10人いたらシナゴーグを1つ作る、という原則でやっていたらしい。

シナゴーグの中心には聖なる書物が置かれ、彼らはそれを取り囲んで集まり、朗読し、祈りを捧げ、励まし合い、生き延びた。

興味深いことに、その聖なる書物「聖書」には、彼らの先祖が放浪する姿が描かれていた。

アブラハムは、自分の行先がどこか知らないのに、神が示した約束の地を信じて故郷を離れ、旅に出た。彼は生きている間に土地を得ることはできなかったし、故郷に戻りもしなかったけれど、いつの日か自分の子孫が土地を得ることを望み見た。

モーセも、神が示した約束の地に向かってエジプトを離れ、イスラエルの民を率いて旅に出た。彼は荒野を 40年のあいだ放浪した末に、約束の地を目の前にしながらも、自分がそこに入ることは許されず、後任者にすべてを託して息を引き取った。

そういう苦労の末に手にした「約束の地」だったはずなのに、それは、アッシリアの捕囚で失われ、バビロンの捕囚で失われ、アンティオコス・エピファネスの圧政で失われ、ローマ帝国の支配で失われ、約束の地が宙に浮かび続けること爾来数千年。。。

そういう放浪のストーリーが載った「聖書」を囲んで集まることによって、そのストーリーの枠組みのなかで、ユダヤ人はアイデンティティー(自分は何者であるかという自己理解)を保とうとしたんじゃないかと思う。

だから、離散先の土地から追放されても、追放された先の政府が崩壊しても、さらに逃げた先でさらに追い出されることになっても、自分を見失わずにいられたんじゃないだろうか。

そういう「集まり方」がユダヤ人のシナゴーグだったわけだけど、しかしそれは、そのストーリーが持つ限界によって規定されていた。

それはつまり、集まれるのはユダヤ人だけで、異邦人お断り、ということだ。

ユダヤ人ではない異邦人だって、べつに永遠盤石の政府を持っていたわけではない。彼らの政府だって繰り返し崩壊したのだ。

なので、異邦人たちも「集まり方」を工夫することで生き残りを図った。異邦人のなかでもローマ人の場合のそれはコレギウムだと思う。

これって、同業・同好・同郷の仲間が3人以上いる場合に、守り本尊を決めてコレギウムを設立し、定期的に食事会をすると共に、会費を積み立てて、メンバーとその家族の病気や葬儀に際して支出する、という互助会のようなものだったらしい。

コレギウムもそれぞれのストーリーを持っていた。たとえば軍人のコレギウムは、勇敢に戦って死んだけれど復活した軍神ミトラを本尊とすることで、自分たちのアイデンティティーを保つと共に、自分が戦死した後の未亡人と遺児たちの生活をコレギウムが支給する年金に託した。

そういう「集まり方」が異邦人のコレギウムだったわけだけど、しかしそれもまた、そのストーリーが持つ限界によって規定されていた。

それはつまり、集まれるのは異邦人だけで、ユダヤ人お断り、ということだ。

このようなわけで、古代世界にはユダヤ人と異邦人が同胞として席を共にし、一緒に食事をし、心をひとつに祈り合い、励まし合い、助け合えるような仕組みも、仕掛けも、集まり方も、それを可能にするストーリーも、皆無だった、ということになる。

なので、イエスを信じる者には、ユダヤ人と異邦人の区別なく聖霊が注がれる、というニュースが伝わり始めたとき、古代世界は驚きをもってそれを受け止めたに違いないんだ *。

わたしは福音を恥としない
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも
信じる者すべてに救いをもたらす
神の力だからです

この、まったく新しいストーリー、つまり、神のひとり子であるイエスが、全人類の贖罪のために十字架にかかり、三日目に復活し、イエスを信じる者にはだれかれの区別なく聖霊が注がれる、というストーリーは、人々の新しいアイデンティティーを形作り始めた。

それは、同業・同好・同郷・同言語・同文化・同人種・同階級といったくくりをぜんぶ超越したアイデンティティー、つまり「人間」という新しいアイデンティティーを生み出したんだ。

註)
*  Cf. 使徒言行録 10:44-47

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