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朝井リョウ原作 映画『正欲』

映画版の『正欲』の感想です。

朝井リョウさんの原作小説は読んでいないが、
それにしてもこんな難しいテーマの小説をよく書いたな、というのが最初に浮かんだ感想。

まずはこの映画は一二も二にもこれは原作の提示するテーマが大前提だということ。
それをどう映像化されたのかはこの後、原作を読んでみないとなんとも言えない。

だいたいが「正欲」という言葉はあるんだろうか。
これまで聞いたことがない。
「性欲」と同じ音を持つが、性愛ではなく、正しい欲。
誰にとって正しい欲なのか。

物語は3つのグループが並行して語られつつ、最後に1つに収束する。
それも不幸な形で。

人は違う性癖、いやもはや性でもない、人でもなく動物でもなく、無生物の「水」に対して興奮を覚えてしまう男女。

2人は地方都市出身で同じ高校に通う男女。
ある出来事からお互いが同じ性向を持っていると知る。

男は磯村勇斗演じる佐々木佳道、女は新垣結衣演じる桐生夏月。

そういえば、佐々木の最初のシーンは職場の食堂でグラスに水を注ぐところで固まっていたが、そういうことだっのかというのは後にならないと分からなかった。
そして、両親が交通事故で亡くなったことを知らせる電話。
この設定は物語上必要だったのかは不明。
地元に戻って夏月と出会うために必要だっただけではないか。
それにしては両親を死なせるというのは重過ぎないか、とは思った。

新垣結衣演じる夏月は地元で就職して百貨店またはスーパーの寝具売り場で日々をやり過ごしている。
たまに夕食を取りに通う回転寿司がささやかな贅沢なのか。
それも全く美味しそうではないのだけど。

新垣結衣の役はいつものテレビドラマの役柄イメージとは全く違う。
何かにコンプレックスを持っていて一筋縄ではいかないという部分は過去のドラマなどでもよくみるところではあるが、総じてそれは明るくすっとぼけた感じで消化されている役が多かったが、
今作の桐生夏月はまた全然違っていて、彼女はずっとダークなものを抱えていて生きづらさを感じている。
それをほとんどセリフではなく、目線や表情そして姿勢だけで演じている。
都会より人間関係が濃密な地方在住だと余計にそうだったろう。
彼女はそれを「地球に留学に来ているようだ」と表現する。

タイトルの「正欲」という単語と予告編などを見ている印象から、きっと彼女はいわゆるトランスジェンダーとかそちら方面であるが故に、社会に溶け込めていない、
そんな話なのだろうと想像していたが、もっと予想を超える方向のフェティシズムの話だった。

「水」に興奮を覚える佐々木と夏月。
お互いに社会で偽装して生きていいくために結婚という形をとって一緒に住むことになる。
それは2人にとって、他人と理解し合えてお互いを意識して暮らすというはじめての経験だった。
2人が一緒に暮らすことになったシーンは本当に良かったと思う。

もう1人は大学のサークルでダンスをしている諸橋大也。
彼も最初はLGBT系の悩みを持っているのかと思った。
実際、そんな風に描かれていたようだがし、実は彼も水フェチだったと最後になって分かるのだが、これは映像面でのミスリードを狙っていたのか。

そして、諸橋を好意を持つ神戸八重子。
彼女は男性恐怖症なのだが、唯一諸橋にだけは恐れを感じないという設定。
八重子のキャラクターは重奏的というよりは焦点がぼやけるので、映像化にあたっては省いてしまっても良かったのではないかと思わなくもなかった。
神戸八重子を演じた東野絢香さんの演技がとても良かっただけに、余計そう思った。
「正欲」という意味で、男性嫌いの女性であっても男性に惹かれてしまうという生来の本能もある事例としてこのキャラクターは必要だったのだろうか。

最後は稲垣吾郎演じる寺井。
彼は検察官であり、社会通念の代表として出てくるキャラクターである。
彼には10歳の息子がいて、小学校に馴染めず同年代のYoutuberに影響され、自分も動画で自分を表現したいと訴えるが、当然ガチガチの常識にとらわれている寺井には全くそのことが理解出来ない。
いや、そもそも自分の思う社会通年・常識を外れる行動や人間を理解しようとはしない。

理解出来ない性向を持つ人に偏見を持つなというのは簡単だけれど、
人は自分とは違うものを受け入れることが出来ないとレッテルを貼って区別することで安心したいと思ってしまう。
そんな寺井の存在は、おそらくこの映画を観ている多数派の僕らのことなのだろう。

実際、寺井の言動は
「そこまで言ってしまったら少し酷いんではないですか」
と若干大袈裟に描いてはいるが、おそらく一番共感できるキャラクターが彼なのも事実だ。

ラストは、夏月という理解者を得たことで、
「他にも同じような性向を持っているが故に他者と繋がれずに孤独な人たちがいるんではないか?そういう人たちとももっと繋がりたい」
という欲、これも社会生活を営む「ヒト」としては「正欲」なのかもしれない、が湧いてきた佐々木がインターネットで知り合った2人と会うことになる。

その1人が諸橋大也、そしてもう1人の男が小学校教諭の矢田部。
ところが矢田部は実は単なる小児性愛者で警察に捕まってしまう。
押収された矢田部の所持品から、3人が楽しそうに公園で「水」を浴びている映像が見つかり、佐々木も警察に捕まってしまう。

諸橋と佐々木も矢田部と同様の小児性愛の加害者として検挙しようとする担当検事が寺井で、ここで3つの物語が1つになる。
もちろん寺井は諸橋と寺井の証言を全く理解出来ない。
「自分たちは小児性愛の嗜好はない。ただ水が好きなんだ」
そんな戯言がある訳ないと頭から疑ってかかっている。

寺井とチームを組む検事補の越川はもう少しフラットに加害者たちを見ていたので、ひょっとすると彼らの証言も理解しようとしているのかもしれない。
寺井は、佐々木の証言を裏づけるために夏月も召喚する。
一度路上で自転車に乗る少年たちにぶつけられた夏月を助けたことで面識を持っていたので、尋問室に入ってきた夏月を見て寺井は少し驚くが、
それでもまだ佐々木は小児性愛者だという線で取り調べをしようとする。

寺井に路上で助けられた時には
「理解し合える人と暮らしている」
と初対面にも関わらず惚気ることを言った夏月だが、
寺井の態度から彼もやはり他の人たちと同じく自分たちのことは到底理解してくれないだろうと諦めの表情を崩さず、一切の証言も拒否する。
最後に自分に対して投げかけられた言葉に違和感を感じる寺井の表情で映画は突然終わる。

ここまで振り切ったフェティシズムを題材にして提示したテーマそのものをちゃんと理解出来るように描き切れたかというと、正直難しかったのではないか。

「一般的とは違う性向や価値観を持った人たちは社会には一定数いて、彼らは他人から理解されないため、日々生きづらさを感じていて、居場所もないのだ」

このテーマを腹に落とすためには「水」フェチでなくても良かったのではないか。
もう少し理解しやすいものでも良かったのでは、と言うと「じゃあ何が良かったんだ」となるが、
そもそもそういう疑問を持ってしまうこと自体が問題とされているのかもしれない。

やはり、難しすぎるテーマだったのではないか。

<了>

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