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ケイト・ブランシェットをただただ崇める映画 『TAR/ター』

公開初日に午前中有休まで取って観に行ってきた。
何といってもケイト・ブランシェット様の新作映画なのだから。

これまでの作品でも、シリアスなものから軽妙なものまでどんな映画でも
ケイト・ブランシェットだなぁという存在感があったが、今作はもうずば抜けて最高傑作なのではないだろうか。

先のアカデミー主演女優賞を『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』のミシェル・ヨーが受賞した時には、
まぁ作品賞から何から総取りで「エブエブの年だったんだろう」と納得はしていたが、その時はまだ今作を未見だったからだ。
今作を観た後だと、やっぱり主演女優賞はケイト・ブランシェットしかないだろうと思っている。

それくらい、今作でのケイト・ブランシェットの気合の入れようは凄まじく、鬼気迫る演技としてか言いようがない。
と言ってもエキセントリックなだけのぶっ飛んだ演技だけでなく、
時にクールで、マニッシュなファッションも素敵で、立ち姿も美しく格好良く、それはもういつものケイト・ブランシェットのまま。

ベルリン・フィルとのリハーサルでタクトを振るシーンが何度か出てくるのだが、これもめちゃくちゃ堂に入っていて、本物の指揮者としか思えない。
そしてピアノも弾き、歌って。
なんならヤケクソ気味にアコーディオンを弾いて即興ソングをがなったり。

本当にリディア・ターが実在しているんでないか、これはドキュメンタリーなのか、とも思わせる。

***

ベルリンフィル初の女性マエストロにして、エミー賞、グラミー賞、オスカー、トニー賞の4大音楽賞を受賞した数少ないEGOTとして、世界最高峰の音楽家の名声を手に入れているリディア・ター。

しかし、その名声も長くは続かず、ふとしたことから歯車が狂い出し、ドツボにハマっていく彼女の目線で見える世界を、約3時間かけて観客の僕らも一緒に体験していくことになる。

それは多分に彼女自身も気付いていない成功者ゆえの唯我独尊な振る舞い、そして過剰な自意識とパフォーマンス、そのための自己演出、そうしたものが引き起こした「それはあなたが悪い」という行いの数々のせいなのだが。

しかし、僕自身がおそらく昭和の価値観に染まってしまっていて、もっと理不尽で横暴でずる賢い奴らを数多く見てきて耐性があるからなのか、
リディア・ターという人間については、正直それほど酷いやつだとも思わなかった。

または、この話がクラシック音楽という僕とは遠いアカデミックな芸術の世界の話だから、当然そこで名を成した人だからこそ、普通の人間とは相容れないようなぶっ飛んだ人間はいるだろうという思い込みや、
リディア・ターが男性社会で成功しているLGBTの女性だからという一種の色眼鏡もあるのかもしれないと思っている。

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事前に公式で公開されているシーンの1つに、リディアがジュリアード音楽院で講義をするシーンがある。
マックスという黒人でパンセクシュアルの男子学生が、バッハは白人男性作曲家だから自分の主義とは合わなくて好きになれないと主張する。
それに対して、執拗に彼に対してこれでもかと理詰めで追い詰めていくのだが、それでもリディアの言っている内容そのものは正論だな、と思って見ていた。

確かにリディアのその詰め方や言い方も指導というよりは、結構厳し目でリディアの負けず嫌いで粘着的な資質も見て取れるシーンなのだけど、
何故、そこまで彼女がムキになっていたかというと、マックスの主張が
「性別や人種、性的嗜好を理由に甲乙・好悪の基準としているから」
なのだろう。

リディアも男性社会のクラシック音楽界(演奏者には女性は多く男女平等のような気がしていたが、それはつい最近のことで、あくまでも男性社会でコンサートマスターは男性しかなれないというような世界だったらしい)で、かつレズビアンを公言しているマイノリティとして、(最後の方で実家へ帰るシーンがあるが)生まれ育ちも他の一般的なクラシック音楽界での成功者と比べると裕福とは言えない出自で、
おそらく相当苦労して、そうした持って生まれた属性によって差別されることと闘ってきたんだろうと推測する。
だからこそ、自身もマイノリティであるはずのマックスが、それを諾々と受け入れてなんならそれを自己アイデンティティとして凝り固まってしまうようなその姿勢に腹立ちを覚えたからなのではないだろうか。
そういう意味では、リディアは決してパワハラ横暴野郎とは一線を画しているようにしか思えなかった。

***

とはいえ、冒頭からいきなり過去の有名音楽家(と推測)を明らかに真似たアングルでのポージングや衣装をオーダーしたりするシーンがある。
正直、こいつはイタイなぁ、と思う。
そんなに才能あるのに、まだそうやって取り繕ってるの?自然体でええやん。
そして、公開インタビューの舞台でも、自分の主張をこれでもかと喋り倒すあまりの多弁さ。
どうどう、ちょっと落ち着けや、と言いたくなる。

レズビアンであることを公言して自分をひけらかしているようでいて、さらにその奥には劣等感が渦巻いていて、そうやって自身を取り繕い周囲と闘い続けることでしか、生きて来れなかったのだろうかとも思った。

ただし、そうした少しは好意的に見えたのも中間くらいまでで、やがて綻びが大きくなってくると流石に擁護しづらくなってくる。

例えば、小さい子供相手に、
「今度うちの子をいじめたら承知しないぞ、誰かに言いつけても誰も信じないから分かったな」
と恫喝めいた、いやあきらかに脅している異常さ。
さらに、自分のお気に入りの若い女性チェリストを入団試験で合格するように持っていき、さらにはコンサートでソロイストとして抜擢するような贔屓を隠さなくなってくると、
「あーあ、これはアカン。やっちゃってるよ」
と思わざるを得ない。

そして、そうした油断と綻びが取り返しのつかない事態を招いていき、後半の大舞台での失態につながっていく。
いやもう、そのシーンはコントであってくれと思うような、客席ドン引きシーン。
あんなことをしでかしてしまうと、流石に落ちるわなぁ、と。

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ラストのシークエンスはどうなんだろう。
蛇足ではないかと思わなくもない。
底まで落ちたシーンの再スタートが、何故東南アジア?
ゲーム音楽のオーケストラ演奏指揮者?
まぁ、クラシック界から見たらまだ未発展の土地で、さらに新しいオーケストラ音楽のあり方という意味もあるんだろう、と、他のレビューにも散見される程には否定的には見なかったが、
それでも、そこいる?他のアプローチなかった?
とは個人的な感想だった。

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あと、ドイツ語で字幕がなかったのは何故だろう?
監督の意図だったという記事を読んだことがあるが、リディアがドイツ語を話せないのであればわかる。
観客にも「言語が理解出来ない」という同じような感覚を持たせる演出として理解出来る。
だけど、彼女はドイツ語もペラペラだったようなので、それだと説明にならない。
そこが理解できなかったかな。

***

と、半日寝かせてからツラツラと思い出しながら感想を書いてみたが、この映画はもう一度観たいと思った。
初見では、この話はどこに着地するのか分からずに見ていたので、正直ちょっと「クリスタって出てきたっけ?どの娘?」とか色々と見逃していることもあったし。
あと、3時間近いということで水分控えめで覚悟してのぞんだが、あっという間で全くもって長さを感じなかった。
ひとえに、これは脚本をうまく表現してぐいぐいと映像で引っ張っていく演出と、そしてやはり何と言ってもケイト・ブランシェットの演技に圧倒されたからだろう。
そう、この映画は「ケイト・ブランシェットをただただ崇める映画」だ。

<了>



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