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両親を見送り遺骨を一心寺さんへ納めたことなど

こんにちは、makoto です。

昨年の今日、3月12日は母の葬儀でした。
翌日両親の遺骨を一心寺さんに預けたので、その時のことを書いておきたいと思います。
長文になりますがよろしければ読んで下さい。

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2021年3月10日は在宅勤務日で午前中の仕事が終わりそろそろお昼にするかと思っていたら実家の所轄警察署から電話があった。
母が亡くなったことを知らせる電話だった。自宅で亡くなっていたのを市役所のケースワーカーさんが見つけて下さったそうだ。死後2ヶ月程度経っており、死亡日は1月中旬くらいだろうということだった。
身元確認は比較的近場に住んでいた叔母が行なっているが、遺体は警察署まで息子の僕に引取りに来て欲しいという電話だった。新幹線で移動するので19時頃になると伝えて電話を切った。

家にいた次男にしばらく大阪に行って色々と始末をしてくるからと伝えて、数日分の着替えと喪服を持って出掛けた。
途中、父の葬儀でお世話になった地元の葬儀屋に連絡を取って、母の遺体の引き取りと葬儀の手配をお願いした。

父は一昨年の2020年1月に亡くなった。四十九日の法要が3月14日だったので、母も後を追うように1年後の同じ時期に亡くなり、四十九日の頃に発見されたことになる。

母が朝起きるてくると既に父は亡くなっていたそうだ。死因は、色んな合併症があったようだが老衰ということになっていた。夜中のうちにさほど苦しまずに逝ったらしい。

父は若い頃から借金や浮気で自由奔放に生きてきた人なので、親戚にも相当迷惑をかけたらしい。親の不始末は息子には関係のないことだし、むしろ一人っ子なのでと親戚は不憫がってくれていたので、息子くらいは不義理のないようにと年賀状は切らさないでいた。
僕は就職したら実家を出て独立したかったので、東京に本社のある会社に就職し大阪を離れていた。
社会人2年目になった頃、父が起こした事件の示談金が必要だとなってカードローンで300万円立て替えた。母に東京に出てこないかと誘ったが、父と一緒にいると言ったため、それなら親子の縁を切ると宣言して両親ともに連絡を絶った。
その時のローンの返済には長くかかったが、大学入学金などのお返しだ、親子でもお金は別だと自分で納得したが、これからは金銭面では二度と関わって欲しくないと思っていた。

僕に息子が産まれ、父や母にとっては初孫でもあるし、そろそろほとぼりも冷めただろうと、当時舞鶴の工事現場社員寮の住み込み管理人をしていた両親に孫を見せに行った。その頃から少しづつ連絡を取り合うようになった。

大人になってから見た父は人間的にはとても気持ちのよい、男らしい性格の人だなと見直していた。
だけど60歳近くなっても山っ気というか、負けず嫌いというか、俺はこんなもんじゃないという想いが強い人で、何度も金でトラブルを起こしていたようだ。警察の世話にもなっていた。
ただ自分からは息子には一切金の無心はしてこなかったし、息子には絶対に頼るなと母にも言っていたそうだ。

むしろ金の無心の電話をしてくるのは母だった。
「今月お金ないねん」
という言葉が出ると電話を切って、それから半年近くは連絡を絶つ、そんな関係だった。

長男が高校生になった頃、一人で京都に旅行に行くというので、大阪のおじいちゃんのところに泊まっておいで、と両親への少しばかりの小遣い言付けて行かせたりもした。
家族でUSJに行った折にも、顔を出して夕食だけ一緒にしてから帰る、そんな付かず離れずの付き合いだった。
僕自身は出張で大阪へ行った時は、実家には泊まらずホテルを利用していた。晩年に父母が住んでいたのは、祖母の口利きで知り合いの不動産屋に紹介された古い長屋のような借家で、僕も暮らしたことのない他人の家という感じで居心地はよくなかったからだ。
たまに顔を見せても、お茶を飲んだらお暇するくらいだ。

今から思えば、母がずっと父と添い遂げたのも似た者夫婦だったからだと思う。
高校を卒業してすぐに家出をして九州から大阪に出てきた母が働いていたスナックの常連客が父だった。そういう話は父からも母からもよく聞かされていた。両親の若い頃の写真も見たことがある。当時としてはイケてるファッションをしていたんだろうと思うお洒落な人たちだった。

僕が小3になる時に、某保険会社の支店が入っている駅前ビルの最上階に引っ越した。タクシー会社を転々としていた父が、これからはちゃんと働くぞと大卒の若い者に混じって保険外交員の資格をとり、2年ちょっとで支店長までのし上がったからだ。商才もあり地頭は良かったんだと思う。
しかし、それも束の間、中卒だった父は会社では軽く見られていたのか、相当無理をして、結果的に支店の売り上げを誤魔化していたことや、外交員の女性と不倫していたことなどが発覚して会社をクビになった。
そのことが原因で離婚話になり、僕は一人で祖母の家に小4の間の1年間預けられた。

その頃が生涯で一番グレていて、グレたといっても、夕方銭湯に行くといって何時間も帰って来なかったり、祖母の財布からお金を盗ってプラモデルを買ったりだ。本屋で万引きをした時は近所の人に見られていて、翌日校長室に呼ばれて、ごめんなさいと言わない頑固な子だと1日中正座させられたり、所詮はその程度だ。
その後も、それ以上グレて悪くならなかったのは、幼少期にはずっと両親に一人息子としてきちんと愛情を持って育てられていたからということではないかと思い感謝している。また、自分自身も中学に入ってから始めたギターなど熱中できることがあったからだと思う。
ギターが欲しいと父に言った時も、何も言わず近所の質屋へ行ってくれて、吊るしであった中古のアコースティックギターを買ってくれた。この話はまたの機会に。

小5になった時、両親も和解をしたのか、これからは一緒に住めると迎えにきた。その時はとてもうれしかったのを覚えている。
4畳半6畳2部屋のよくあるアパートで、父の働いていたタクシー会社の社宅だった。
両親に今日からはここがお前の家だと連れられた最初の夜は、帰ってきたウルトラマンとして復活する1回目の放送で喜んでテレビで見たことを覚えている。
しかし、そんな幸せも最初だけで、当時母は夜の仕事をしていたので、学校から帰ると一人で夕食はいつも一人で食べていた。

中学になりほんの1ケ月で転校し、祖母の近くのボロ家に引っ越した。 
父がまた何かしでかしたようだ。その頃から、母も夜の仕事がキツくなってきたと近所の工場へパートに行くようになった。
母はおそらくその頃からパチンコを覚えていたのだろう。暇さえあればパチンコへ行くような人になった。父が仕事を転々としてトラブルも色々と抱えていたりしていたようだからストレス解消もあったのだろう。
母のパチンコへの情熱はすごく、自分が死んだらタバコとパチンコの玉を棺に入れてくれ、とよく言っていた。
僕の方はといえば、ギターとバンドに入れ込んでいたので、自分のことに一所懸命で親がどうした、とか全く関係なかった。正しい成長の仕方だ(笑)。

そんな母が、父の翌年同じ時期になくなった。
死後時間が経っていたので詳しい死因は分からないがおそらく何かの発作によるもので事件性はないとして処理された。

大阪に到着し、葬儀屋と一緒に警察署へ遺体を引き取りに行った。
遺体発見時の話を担当の刑事さんから伺い、捜査のために押収した遺品、銀行通帳や財布などだった、の受け取りにサインして葬儀場へ戻った。

母は単身大阪に出てきてからは、ほぼ親戚とも没交渉だったので身寄りはないも同然だった。母方の九州の両親はどちらも早くに亡くしており、親代わりだった母の兄には僕は年賀状のやりとりくらいをしていたが、それも数年前に、体調を崩したので今年で終わりにしましょう、と連絡をもらっていたこともあり、今回のことは連絡はしないでおいた。
母は川崎にも姉がいて僕と同学年のいとこの女の子がいたはずなのだが、ほんの幼少期に1度行ったことがあるだけで(写真が残っていた)、連絡先も分からない。

そういう状況なので、葬儀も本当に近所に住んでいる父方の叔父や叔母5-6名くらいの小さい葬儀にした。
葬儀は2日後になるというので、翌日は役所や銀行の手続き、実家の遺品整理で費やした。
両親が住んでいた借家の大家に連絡し事情を話すると、必要なものだけ持っていってくれれば後は全部こちらで処分するよ、と通常の遺品整理業者の相場から比較すると格安の条件を申し出てくれた。
なんでも大家のおじさんは身柄の確認をしてくれた叔母(父の妹)の小学校の同級生ということもあって、今回の件は親身になって下さった。
近所の付き合いは大事だなとつくづく思った。

2日後の葬儀は午後からで、午前中のうちに長男も大阪まで駆けつけてくれた。夕方には火葬も終わり、実家から引き揚げてきた父の骨壷と一緒にその夜は親子孫3代でホテルで宿泊した。
父の四十九日法要の後、夏頃コロナが落ち着いたら考えようと母には話していたが、そのまま母も亡くなってしまった。

翌日、事前に電話をしていて予約はいらないと確認していた天王寺の一心寺に両親の骨壷を持って長男と行った。
叔母に納骨はどうしようかと尋ねると、父方の家には代々の墓というものはなく、祖母をはじめ一心寺さんにお骨を預けていることが多いと教えてくれた。両親のお骨もそれがいいのではないかと。
道理で祖母の墓参りとかどうしているんだろうと以前から思っていた。両親ともに墓参りに行っているという話は聞いたことが無いが、父も母も親戚には不義理をしていたので、そういうものなのだろうと思っていただけに得心した。

一心寺という名前はなんとなく聞いていたが、今回の事で調べてみた。大阪では骨仏の寺としてよく知られていて、明治時代から続く宗派を問わず、納骨を受け付けてくれるお寺だ。

父方の祖母は、織田信長の家臣のさらに下級足軽の家に養子と養女で来て夫婦になったようなので、そもそもが決まった家の墓がなく、一心寺は都合がよかったのだろう。
一心寺に納めた骨は10年分を合わせて骨仏を造り祀られるので、ひっきりなしに訪れる参拝者がいつもお参りしてくれているのと変わらないから、遠方でなかなかお参りに行けない者にもよいのではないか。


一心寺に着くとお骨を受け付ける窓口で必要事項を記入し、火葬証明書を骨壷と合わせて提出すると経木・塔婆に戒名を書いてくれる。それを持って本堂へいくと、順番に名前を呼ばれ祈祷をしてもらい終了だ。

納骨の1年目には年忌法要の案内があるが、今年はコロナで中止だとの連絡があり残念ながら法要には行けなくなった。
次のタイミングとしては、両親のお骨が入るであろう次のお骨佛が2027年に開眼とのことだ。4年後の春には家族でお参りに行けたらと思っている。
流石にコロナも落ち着いているだろう。

一心寺は天王寺にあり、通天閣のある商店街も歩いてすぐだ。
大阪名物の串カツでも食べに行くかと長男と一心寺を後にした。

一心寺の裏手からは通天閣も見える。


以上、長くなりましたがこうして色んな思いを書き記すことが出来て、自分の中でも整理が出来ました。
僕と両親は色々あって、決して良い関係ばかりではなかったですが、最後に夫婦一緒に納骨することが出来て、せめてもの親孝行になったのではないかと自分に言い聞かせていました。
読んでいただいてありがとうございました。

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