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「わからない」ことのメタ認知

 「わからないところがあったら質問に来てください」

 学校や塾の先生がよく口にすることばだ。実際に私も何か月か前までは同じような台詞を何度も繰り返してきた。

 「質問に来るときはわからないことを明確にしてから来てください」

 これも同じく教員の常套句。多聞に漏れず私も何度も繰り返しことばにしてきた。

 「わからないところがあるんだったら職員室に聞きに来ればよかったじゃないか」

 テストの答案を返す際、きっと多くの教員が日本中で繰り返していることば。そしておそらく全員が、最大限の善意からこのことばを発しているのだろう。

 でも、実際に質問してくる生徒は少ない。テストでは満点を取る生徒がほとんどいないにも関わらず。それはなぜだろうか。

 それは一般に「わからない」ところが「わからない」からだ、と言われるけれど、僕の考えは違う。「わからない」ということ、「わからない」ことは「わかっ」ているのだ。つまり「わからない」とは正確には「わからない」ときにどうすればいいのかが「わからない」、という状態を指すのではないか。

 「じゃあそれを教えてやればいいじゃないか」という向きもあるだろうが、ことはそう単純ではない。それではただその具体的な一つの設問に対して最適化された道を示すだけであって、たとえば数字を一つ変えただけでも、設問のカタチを変えただけでも、すぐに対応できなくなってしまう。重要なのは彼らが「どんな思考プロセスを踏んだか」をメタ認知することである。

 僕は国語の教員で、古文を担当することが多い。古文といえば高校生にとって苦手科目の上位にランキングされる科目だ。その困難は「暗記」量の膨大さに一つの原因があるようで、古文単語や文法のテストの煩雑さに生徒はうんざりした顔で授業に出席している。授業では大学入試の過去問であったり、教科書の文章のオリジナル問題であったりを演習形式でガンガン進め、その解説を行うのが僕の授業スタイルである。であった。

 僕の働いている学校は割と先進的な取り組みをする学校で、「定期テスト」を廃止するために、いろいろと模索している。そんな中で僕は自分の受け持っている学年の定期テストをなくし、月毎に模試と単元テストを行うことでその代替とすることにした。単元テストはすべて初見の文章で、模試と同列かそれ以上のレベルの問題を出題している。

 そうして昨日、その採点した答案を返却した。平均点はとんでもなく低かった。そうなることはわかっていた。だから前日、メタ認知のための振り返りシートを作り、答案と共に返すことにした。

 勢とは答案の点数に一通り一喜一憂した後、いつものうんざりした顔に戻る。そして与えられた振り返りシートへ記入をはじめた。見回りながら生徒の振り返りを見てみると、予想通りのことが書かれていた。

 「単語をもっとしっかり覚える」

 ここしかないと思った。すかさず声をかけた。

 「どうしたら単語をもっとしっかり暗記できると思う?」正直なところ、ただのオウム返しである。だが、生徒は少し考えるそぶりを見せた。すかさず続ける。「今回はどんな暗記の仕方をしたの?」生徒が答える。実際、その答えは何でもよかった。言語化してメタ認知してもらうことが目的だからだ。「じゃあ次回はどういうやり方がいいと思う?」生徒が答える。「じゃあこの問題はそれだけで解ける?」「ほかにどんなことが必要?」「説明問題を君はどういう手順で解いているの?」「今回の問題はその手順のどこで方向性を間違えたの?」「なぜそういう方向性に行ったんだろう?」

 その生徒にとって、かなりうっとおしい質問だったと思う。でも、その彼女は根気強く答えてくれた。そうして時々気づきがあったような顔を見せてくれて、そうした気づきを振り返りシートに記入していった。他の生徒もその質問に耳を傾けてくれて、自分のシートをどんどん書き直してくれた。自己満足かもしれないが、そのシートの内容は僕が教員をしてきた中で一番濃いものだったと思う。

 そうして今日、いつもは姿を見せない理系の生徒が僕のところに姿を見せた。

「授業で教えてもらった読み方を、テストになるとできないんです。どうしたら読めるようになりますか?」
「じゃあそもそも、読むってどういうこと?」

あとは質問と応答の繰り返しである。彼女は僕の思いもよらないところにこだわりを持っていて。考えていなかったのではなくて、考えすぎていて。僕は大学入試に最適化したつもりの読解法を教えていたつもりでいたけれど、彼女にはそれが複雑な体系に見えていたようだ。彼女の話にじっくりと付き合っていたら、彼女の中で一つの答えが出たようだ。

「週に一日ちゃんと時間を取って、授業でやっている教材を自力で訳してみます。納得いかないところは教えてください」

 どうやら彼女は、自分のこだわりとじっくり向き合うようだ。そうか、と言って彼女の背中を見送った。初めて何かを指示することなく指導したような気がした。

 現代は教育業界にも情報があふれていて、ちょっと検索すれば最適化されたルートが見つかる、便利な時代である。でも、その中に自分が取り込まれてしまって自信を見失ってしまっている人間が多いようにも見受けられる。「わからない」時どうすればいいのか、どのように考えるべきか、それを情報の中から見つけることはできたとしても、思考のプロセスは各々異なったものであるはずだから、誰にでも当てはまるわけではない。だから大事なのは、自己に最適なやり方を模索すること。絶えず自分と自己対話を繰り返すこと。そのために必要なのが「わからない」ということをメタ認知することなのだ。

 彼女がこの先、成功するか失敗するかはわからない。でもその中でまた「わからなく」なったら、できるだけまた耳を傾け、自己対話を促したいと思う。

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