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『仔馬』


「んまぁねぇ最初は驚いたっていうか、あれよね、ちょっと引いたっていうのが本音かしら…」

ドロ姉ママは煙草を燻らす。

「普段はくしゃくしゃの新聞ばっかり読んでるくせに、その日はアイロンでもかけたのってくらいピーンとしたのをね、見せてきて」

”待ち受け状態”のカラオケの画面をぼうっと眺めつつ。

「だいぶあの日は酔ってたわね、そうとう嬉しかったんでしょ、ほかのお客にも俺が奢るだなんて言っちゃって」

ロックアイスが溶けきっていないから、二杯目を自分でつくりはじめた。

「恥ずかしいったらありゃしないわよね、なんの捻りもない中学生が考えたような名前だし、それにワタシとのことがきっかけだなんて…」

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高校を中退して20年以上、兄は自宅に引きこもっていた。母が逝き、父の身体の自由が利かなくなって、僕はいよいよ兄の面倒を見ながら、日々慎ましいサラリーマン生活を送っていた。

そんな兄が、母に続いてこの世を去った。

住み込みで働いていた牧場の寮の自室で、首を吊って。

警察から聞かされたところによると、自死で間違いがないということ。もともとが塞ぎこみがちな性格だったから、とくに僕も驚くことはなく、やっぱり駄目だったかというのが、第一報を受けたときの正直な印象で。

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「この店で言いふらしたら、そりゃこんな田舎だもん、広がるわよ、まぁ別にワタシは痛くもかゆくもなかったって言ったら、ベンちゃんには気の毒かも知れないけど」

高いのか安いのかわからない腕時計に目を落とすドロ姉ママ

「でもそれがきっかけってことはないでしょ?」

そろそろ店を開ける時間のようだ。

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兄は遺書を残さなかった。だから動機や当時の心境は一切わからない。ただひとつ言えるのは、兄は遺書の代わりに一頭の競走馬に思いを託したということ。

僕がいつものように残業から疲れて帰宅したある晩、普段なら自室でテレビでも見ている兄が、珍しく僕に駆け寄ってきた。

ようやくやりたいことが見つかったんだよって。四十路を迎えるおじさんが、子供みたいに目を輝かせて僕の肩を揺さぶった。

競走馬の厩務員になりたいんだそうだ。北海道に行って、住み込みで働いて、一人前になって、競走馬をデビューさせたいんだと。

何がきっかけだったのかはついぞ聞きそびれたけど、翌日には兄は荷物をまとめて北海道に飛び立っていた。

それから2年ほど経って。

あまり連絡はこまめではなかったけど、無事は知らされていた。そしていよいよ、兄が手掛けた仔馬が馬主の元へ売られていくことになったというわけ。

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「そりゃワタシ自身詳しく覚えてないけど、こんな商売のオンナなんだから、初めてなわけないでしょ」

ドロ姉ことママ。老けて見えるけど歳の頃で言えば、兄と同じくらいなのかな。

「それに引き替えベンちゃんはやっぱり純粋だったのねぇ」

お店の準備があるだろうに、二本目の煙草を咥えた。

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この地元から遠く離れた北海道の田舎町で、生まれて初めて、働く喜び、人に役に立つ喜びを知った兄。さらには異性との交流も、僕が知る限りは、初めてだったに違いない。

本来、競走馬は、馬主がデビューのときに命名するのが通例。ところが兄の境遇を知った余裕のある引き取り手が、親同然である兄に名づけを委ねたという。

それは身に余る喜びだったようで、結果として悪い酒になった。酔いに身を任せた兄はその晩、ママの唇を奪ったという。そんな大それた一面があったなんて。

それを受けてか、兄が考えた仔馬の名前は「ファーストキッス」。聞いていた僕もなんだか恥ずかしくなってくる。

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「お葬式、なんだか気まずくって…行けなかったのごめんなさい」

ドロ姉は去り際の僕にそんな言葉を添えてくれた。

「ワタシね、もう多分…これ以降はないわ」

野暮な質問だとわかっていながらも身をただし、どういうことですかと、僕は問うてみた。

「ん…だから、つまり、ベンちゃんとのね…」

しばらく間があって。

ベンちゃんが、ワタシの最後のキスの相手ってこと…あーはずかし」

半ば強引に、スナックの防音扉から押し出された僕は、ドロ姉以上に赤面していたかも知れない。

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牧場のあるまち唯一のスナック「ドロ姉」が、「LAST KISS」に名前をかえたのは、兄の葬儀の、翌日だった。

いっぽう新馬「ファーストキッス」は、過去に同名が居たということで、却下されたというから、これは墓前では語らない。




(あとがき)

近頃やっておりますひと言お題、きょうはこれまた熱狂的なゆとりスト(ゆとりファンのおひとり(勝手にゆってる))紅茶と蜂蜜さんのリクエスト「Last Kiss」から頂きました。ありがとうございました。

















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