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『私の原稿書きが大詰めというところで』


私の原稿書きが大詰めというところで

妻が会社から帰宅した


にわか雨が降っていたから案じたが

準備のいいことに

折りたたみ傘を持っていたようだ


そういえば夕食の準備を失念していたが

妻は百貨店の紙袋を顔の高さに掲げてみせた

おいしそうな惣菜があったから

今夜はこれにしましょうと


デパ地下メシは助かる

手軽でおいしいうえに洗いものも少ない


そんな楽ができるのもひとえに妻のおかげ


冴えない小説家崩れとの家計を

ほとんど妻の収入だけで

やりくりしているのだ


だから妻には

まったくもって頭が上がらない




夕食を済ませると風呂を溜める

妻にはリラックスをしてもらう時間だ


私はいっぽう再度スイッチを切り替え

原稿へと向き合うことになる


妻の流す音楽の好みがとてもよく

執筆もたいへんに捗って没頭できるわけ


「ねえごめん、ちょっといいかな」


妻が私の手を止めるのはたいへん珍しい


「ごはんのときに言えばよかったんだけど」


時計に目をやればあれから30分は経っていた


「きょうって何の日か、わかる?」


ドキリとした


いっぽうで私を邪な気持ちが支配する


原稿もあとほんの数分で仕上がるところ

もうちょっとだけ待ってくれたら


「ねぇきょうって」


私は勢い手伝って妻の腕を掴むと

執筆中のパソコンの画面を覗きこませた


「これ…」


振り向いた私の顔をみて

うっすらと涙を浮かべる妻


ほんとうは妻が帰宅するまでに私は

この原稿の体裁を整え印刷して

それから回想用のアルバムに貼り付けて

いっしょに結婚記念日を祝いたかったんだよ




きょうはのんびりした一日を過ごすはずだった


昨日までの大作の徹夜続きから解放されて

ゆっくりとこの準備を進める予定で


ところが遠い国で起きた地政学課題について

専門をかじっている私のところへ

珍しくインタビューの仕事が舞い込んだものだから

予定は急遽変更

妻への手紙どころか晩餐の準備もまったくできず


そんなことをつらつらと妻へ詫びる


妻はいいのよいいのよと首を振り


「わたしこそ、あなたの気遣いに気が付かなくて」


涙をいっそう溢れさせて

私にそっと抱きついてくる


何よりの宝物

私はこの妻と結婚してほんとうに良かった

きっと妻のほうもそう思ってくれているはず


そんな喜びに満たされているとまた邪魔が入る


子供部屋のほうからだ


「ねぇパパママぁ、ごはんまだあ?」






















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