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『その鄙びた温泉街は』
その鄙びた温泉街は冬となれば雪深い地方の渓谷にあり
有史以来これといって栄えたという様子もなくて
そのためマスコミに取り上げられることがないから
景気やブームの波に左右される心配も少ない
そういった意味では本来のお忍びが実現できる
人によってはたいそう都合のいい場所でもあった
F氏はそのなかでも古株にあたる一軒の宿を抑えていた
古くても清潔感がありまた旨い料理と酒を出すとの評判
自分以外にはどれくらいの客がいるのかと
駅まで迎えに来てくれた若い従業員にF氏は訊ねる
閑散期といえば閑散期ですからF様を含めて他には
二組いらっしゃるだけで残りは空室ですよと答える従業員
車が宿に横付けされて荷物を運んでもらうF氏
表向きもこれといって贅沢なつくりでなく心落ち着いた
部屋へ通されたあとさっそく大浴場へ向かおうとする
せっかくならば陽の出ているうちに一番風呂を浴びたい
予想通り先客はおらずかけ流しの湯の音が聞こえるのみ
旅の汚れをくまなく洗い流し浴槽へ浸かる
うたた寝をしそうなほどの湯加減で酒が恋しくなる
また飯のあとに入りに来ようと浴場を後にした
玄関の前を横切ると他の二組もお見えのようで
意外や両方とも若いカップルで軽い狼狽を覚えるF氏
さて晩飯は部屋に運ばれてくるようでまだかまだかと
子供のような気分でそわそわしながら待つ
ノックとともによろしいでしょうかという女中の声
待ってましたといわんばかりに戸を開けるF氏
なんとも申し訳ないといった風の女中が言うには
宿のプロパンガスが切れていてすぐに給仕できない旨
たいそうがっかりしたF氏は酒だけでも運ばせようとしたが
それではただ酔いが回って風情が楽しめないと考えた
持参した文庫本も読む気にならずまた風呂というのも
仕方がないのでちょっと居眠りでもして待つことにした
しばらくしてまた先ほどの女中が部屋の戸を叩く
プロパンが今夜は調達できない見込みとのこと
じゃあ夕食はどうなるんですかと訊ねるF氏
近所の料理屋へご案内しますからお仕度をと返す女中
そのまま案内されて着いたのはこじんまりとした
いわゆる小料理屋で案外店構えは悪くない
すでに同宿のカップル二組がカウンターに並んでおり
その背後を通ってF氏はカウンター最奥に通される
自分はいいけど彼らはテーブル席に通してあげたらと
考えてもみたがテーブルには御予約の立て札
なんだか気まずい晩飯になったなあと考えつつも
こうなりゃ旨いものを頼むしかないと注文を吟味するF氏
やがて乾杯の酒が給仕されるも記憶があるのはそこまで
気づけばカンバンですよと小料理屋の女将が肩をゆする
どうやら日付はとっくに変わっておりカウンターで
F氏はうつ伏せになって酔いつぶれていたようで
千鳥足で宿に帰ってみれば玄関は施錠されており
ドンドンと叩くもののあまり大きな音は迷惑と考え
F氏は裏のお勝手口らしきドアを幾度かノックすると
女中が恭しく迎え入れてくれて一安心した
身体が冷え切ってしまったF氏は風呂を浴びようとするも
もうこんな遅い時間はお風呂を閉めてしまいましたという
いやそっちのプロパンがどうのこうので外出したわけで
そう応戦するF氏に根負けしたのか女中は
かけ流しですからまぁ鍵を開けるだけですお風呂へどうぞ
そういってF氏を大浴場のほうへ導いてくれた
紆余曲折あったもののF氏は冷えた身体を温め
酔いも覚めてさっぱりとした心持ちで部屋へ戻った
ぐっすり眠ろうとした矢先にF氏を苦しめたのは
挟まれた両側の部屋から聞こえるとめどない情欲の呻き
なんとかしてくれとF氏は女中を呼ぼうとしたが
女中も困るだろうと慮って耐え凌いだ
喘ぎ声のサラウンドはF氏を悶々の渦へ誘った
けっきょく寝不足のまま朝の白みを迎える
またゆうべと同じように小料理屋でカウンターに一並び
朝食をとる姿はなんとも滑稽に映るであろう
チェックアウトまで時間があるから
またひとっぷろ浴びようと決めたF氏だった
帰ったら週刊誌に特ダネ売りつけてやる
二組分