見出し画像

寒いですね。

今季もまた、衣替えのタイミングを逃した。いつも、どのタイミングで長袖を着るべきか、コートを出すべきか、マフラーを巻くべきか、わからなくて、街行くひとの服装をチラチラと横目で伺っている。「沖縄に四季はないからね。”夏、夏、涼しい夏、涼しい秋”で一年を回しているから」と言い訳を述べると、「でものあちゃんこっちに来てもう6年目でしょ」と鼻で笑われる。でも、仮に東京生まれだったとしても、24年間、四季を感じながら生きたとしても、わたしは自分のタイミングで衣を替えられなかっただろうと思う。

周りのひとが厚手のコートを羽織って「寒いですね」とかじかんだ手を擦っている中、ブルゾン1枚で家を出たわたしは「ですね~」とてきとうな相槌を打っている。相手の言葉に合わせて「本当に、今日は寒いですね」と言うと、「そりゃあブルゾンじゃ寒いよ」と正しい答えが返ってきそうで怖くなる。

ブルゾン1枚でも厚手のコートでも、結果的に寒いのであれば、「寒いですね」という感想を共有したって良いはずだろう。



なにも変わっていない、と感じている。なにも変わっていないはずはないということは理解しているけれど、変わりゆく日々の中にぽつんと置かれたわたしは、わたし自身は、なにも変わっていないと感じている。ただ、それだけの話である。


なにかを書いているようでなにも書いていないというところも変わっていない。本音みたいなものを、脳みそを通さずに出てきた想いを、純度100%で言いたいという欲が抑えきれなくなったら大体結果は同じで、気づいたら大切なものをちゃんと失っている。そして、ちゃんと失ったことを受け入れるまでにおよそ半年の時間がかかる。半年くらい経ったらまた、手元に残った日常にするんと戻ってしまうあたりが、わたしが「薄情」だと言われる所以なのかもしれない。
すがったほうが良かったのかもしれない。そう思うこともある。人間らしく無様に、キラキラ輝いていた過去を眺めながら後ろ向きに歩いていた方が生きやすかったのかもしれないけれど。わたしはそんなに、明るい人生、煌びやかな人生を求めてもいない。それどころか、苦痛を感じない日常を送れるだろうと期待をすることも諦めた。


明日を迎えることが楽しみでしょうがなくて、なかなk眠りにつけない夜を味わえる日がくるのだろうか。わたしはこの先、まだ「無垢」が色濃く残っていた子どもの頃のように、何かに対してワクワクすることがあるのだろうか。どれだけ素敵で高級な宿に泊まる予定があったとしても、行きたかった土地へ訪れる旅程を立てたとしても、応援しているひと(いわゆる推し)のイベントが控えていたとしても、「楽しみ」よりも「面倒くさい」が勝る。



本当に、24年もよく生きているな、と思う。最近出会った信頼できるおとなに自分の話をすると、「よく死んでないね」と温度のある眼を向けられた。

”より善く生きる”ことをテーマに論文を執筆していた3年前の自分が初々しく思える日が来るとは思わなかった。あの頃も十分、心の彩度は落ちていて、それでも淡々と自分のできることを探す毎日を送っていたというのに。


電気毛布にくるまりながら久しぶりにnoteを書いてみましたが、結局寒いです。

それではまた。

いただいたサポートは全額、本を買うために使わせていただきます。