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円覚寺に漱石を想う(明治の文豪の苦悩とは・・・)

 横須賀線の鎌倉駅と大船駅の間にある北鎌倉駅の近くには名刹が多い。鎌倉五山筆頭の建長寺、同二位の円覚寺、同四位の浄智寺、そして縁切寺として有名な東慶寺など、訪れたことがある方も多いことだろう。

 円覚寺の創建は1282年(弘安5年)、今から740年前のことである。時は鎌倉幕府8代執権、北条時宗の頃、前年2度目の元寇があり、漸くこれを撃退したばかりだった。

 時宗は宋から来朝した高僧の無学祖元(むがくそげん)を開山として、蒙古襲来による戦没者を敵味方なく供養するためにこれを建立したのだった。

 1894年(明治27年)、年末から10日間ほど、夏目漱石は円覚寺の塔頭のひとつ帰源院(きげんいん)に投宿して、釈宗演(しゃくそうえん)の下に参禅したのだった。

帰源院(筆者撮影)

 彼はこの時27歳、前年に帝国大学を卒業して高等師範学校の英語教師になったばかりだった。極度の神経衰弱に罹っていたところを帝大の親友 菅虎雄が奨めたのである。

 翌年、高等師範を辞職して菅の斡旋で旧制松山中学に赴任する。1年後の1896年(明治29年)熊本の第五高等学校の英語教師になったのである。その後、英国に留学したが、留学中も極度の神経症に悩まされたという。

松山中学赴任の頃の漱石(ウイキペディアから)

 1903年(明治36年)帰国すると、籍を置いていた第五高等学校を辞職して、第一高等学校と東京帝大の講師となった。

 帰国後も神経症を患っていたが、その治療のひとつとして高浜虚子から創作を勧められる。1905年(明治38年)、『吾輩は猫である』『坊っちゃん』などを発表すると、たちまち好評を博したのであった。

 1907年(明治40年)、教職をすべて辞めて職業作家の道を歩んでゆくことになる。

 漱石が円覚寺に参禅した経験を著したのが、『三四郎』『それから』に続く『門』である。これを執筆中の1910年(明治43年)6月、胃潰瘍で入院する。

 8月に療養のため伊豆の修善寺・菊屋旅館に滞在中、大量吐血で危篤状態となった。これを修善寺の大患と呼ぶ。

 このあたりから漱石は、近代知識人の孤独やエゴイズムというテーマを追求した作品を多く手掛けるようになってゆくのである。

『門』の原稿(ウイキペディアから)


 『門』の主人公宗助は親友の安井を裏切って、その内縁の妻であった御米と結ばれた。その負い目から崖下の小さな家で慎ましく暮らしていた。そんな折、安井が帰ってくるという話を聞いてしまう。

 心を乱した彼は救いを求めて円覚寺の門をくぐったのであった。無論、10日やそこらで悟りが得られるはずもない。寺を出るときの山門の下での描写を少し長いが下記に引用しよう。

円覚寺の山門(HPから)

 「彼は後ろを顧みた。そうして到底又元の路へ引き返す勇気を有(も)たなかった。彼は前を眺めた。前には堅固な扉が何時までも展望を遮っていた。

 彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦(すく)んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。」

 この小説にはクライマックスというべき劇的場面はほとんど出てこない。円覚寺での悟りは得られなかったが、結局、一番恐れていた旧友の安井は現れず、宗助は職場での人員整理にも彼自身は含まれず、安堵するのである。

 この物語の最後の部分を引用する。縁側での宗助夫婦の会話で終わる。

 「本当に有難いわね。漸くのこと春になって」と云って、晴れ晴れしい眉を張った。

 宗助は縁に出て長く伸びた爪を剪(き)りながら、
「うん、然(しか)し又じきに冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏(はさみ)を動かしていた。

 主人公宗助の不安はその経緯から妻の御米とは決して共有できないものであり、こんな平行線の会話で終わっているのだ。今回は安井は戻って来なかったが、またいつの日か現れるかもしれない。

 彼にとっては問題は未解決のままなのだ。このような漠然とした不安は、現代を生きるビジネスマンにも決して無縁ではない。何某か誰でも不安の種を抱え込んでいるものであろう。

 この辺りの近代知識人の悩みを、始めて漱石は取り上げたのであった。その意味では『門』の位置づけは、多数の作品の中でも大きいと言えよう。

 今回、漱石の円覚寺参禅を紐解いていくと、彼の小説家としての活躍期間が非常に短かったことが分かる。

 『吾輩は猫である』を世に出したのが、1905年(明治38年)のこと。『門』がその5年後の1910年(明治43年)である。最後の大作となる『明暗』の執筆中に亡くなったのだが、これが1916年(大正5年)である。

 『吾輩は猫である』から約10年後のことだった。享年49歳と10ヶ月の若さであった。

文豪2人の活躍期間(筆者作成)

 これを大正から昭和の文豪 谷崎潤一郎と比較すると非常に興味深い。彼の小説家としての活動期間はなんと漱石の約5倍、50年に及んだのである。寿命も79歳と漱石よりも30年も長寿であった。

1951年頃の谷崎潤一郎(ウイキペディアから)

 自由奔放に生き抜き、結婚も3回を数えた。中でも佐藤春夫とは妻を譲ると言った後で、これを取り消してスキャンダルにまで発展している(後に和解した)。自分の本性に忠実に生きたのが谷崎なのだ。

 一方で神経症に悩みながら、近代人の孤独やエゴイズムに深く切り込んだのが漱石だった。

 慶応3年という明治維新の年に生を受けた漱石、どう生きるべきか、終生悩みつづけたのであろう。円覚寺の門前に佇むとき、漱石の悩みがちょっぴりだけ分かったような気もするのである。(了)