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太宰治フォスフォレッスセンスとカスベ料理についての空想

太宰治文学サロン

先日三鷹へ行く用があり目的地までの地図を見ていたら、徒歩圏内に太宰治文学サロンがあったので行ってきました。

読んだ太宰作品の中でいちばん好きなのは津軽。太宰作品だけではなくゆかりのある様々な資料を中で読めるので楽しい。

これだけで一冊なのでちょっと長いし地名とか全然わからないけれど、明るくてユーモアがあって、いい意味でこれまでの太宰の印象が覆りました。普通に声出して笑うしノリツッコミしたくなっちゃう。

そして、持っていたけどずっと手を付けていなかった桜桃を読みました。

そんな長い作品じゃないけど破壊力は抜群です。「ちょっと目を背けたいことがあると飲みに行っちゃうの、わかるよ、わかる・・・でも置いていかれた方もつら・・・」という気持ちと、令和の現代にも通じる普遍性と描かれた社会課題に感嘆する気持ちと、情緒が大変なことになりました。

久しぶりに太宰スイッチが入ったので、ずーーーーっと温めていたことをまとめてみたいと思います。

フォスフォレッスセンス

フォスフォレッスセンスという作品があるのですが、その中にこのような描写があります。

鳥が一羽飛んで来た。その鳥は、蝙蝠に似ていたが、片方の翼の長さだけでも三米ちかく、そうして、その翼をすこしも動かさず、グライダのように音も無く私たちの上、二米くらい上を、すれすれに飛んで行って、そのとき、鴉の鳴くような声でこう言った。

青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/310_20192.html

私は初めて読んだ時、この蝙蝠(コウモリ)に似ているでかい鳥はもしかして魚のエイなんじゃないかと思いました。大きさや翼を動かさないで移動するイメージがエイのそれだったから。また鴉(からす)はあくまで声色であって姿かたちの色について明言はされていないけれど、黒や深い色のイメージ。

そのままにしていたのですが、どこまでその仮説に説得力を持たせられるか掘り下げてみました。

夢と現実の世界を行ったり来たりしているような世界観の中で、どちらが夢でどちらか現実か明言はされていないけれど、蝙蝠が登場する世界は水の中なのではとも思います。

それはまぁ置いといて、片方の翼だけで3メートルくらいのエイはオニイトマキエイの大きさにドンピシャ(古い)で、姿かたちもめちゃめちゃ上記のそれだなぁって。

ただ一応陸奥湾での観測はあるもののそんなに多くなさそう。それにもう少し小さいイトマキエイの方が色や形が蝙蝠っぽい。エイを色々画像検索していてイトマキエイを見たとき「蝙蝠じゃん!」って叫んだ。

大きなエイの実物を太宰が見たことあるかはさておき、ジュラシックパークやジュマンジなどの映画が存在するように、現在実在しない大きな生き物を作品に登場させることなどちょっとその気になれば容易でしょう。

ということで、さすがに当時海遊館やネットやSNSというわけにはいかずとも、書籍や料理等何らかの方法でエイを目の当たりにしていれば可能なはず。

たくさんの文献や資料を読んでいるだろうことは想像に難くないし、サロン的な仲間内で「蝙蝠のような魚がいるらしいぜ」的な会話で知識を得たかもしれない。

もしくは。私は地元でエイのことをかすべと呼び、軟骨ごと煮漬けたものをよく食べていました(昔はあまり得意じゃなかった・・・鶏軟骨とかも苦手なのよね)。北海道で食べるなら青森でも食べているんじゃ。

調べてみると、煮付けや「とも和え」など、いくつかエイ(かすべ)を用いた郷土料理が青森にもあるようです。ちょっと何これおいしそう!絶対日本酒進むやつ!かすべのとも和え食べたいんだけど・・・。今年やりたいことリストに追加しておきます。

しかもこちらのサイト、はっきり「津軽」と言ってる。ワンチャン太宰は食材としてのエイをまるっと見たことあるんじゃないかい?食用だとホシエイかアカエイと言ったところか。

そのようなところからイマジネーションを膨らませて、フォスフォレッスセンスへ繋がった・・・と考えるのはどうでしょう?

トゲクリガニ

もうひとつね、お酒好きで知られている太宰が、春のお花見でトゲクリガニ(毛ガニに似てる)を食べるのが大好きというエピソードが残されています。トゲクリガニ、北海道だとクリガニ、毛ガニ風だけどとてもリーズナブルでおいしい!

実際自分もカニを食べて思うけど、カニ食べる時って無言になるよね。無になる。何事もそうだけど、無になる=目の前のことに集中することだと思っていて、そういう時は余計なこと考えないからとても楽じゃないですか?

余談ですが以前日本語が大変堪能なインドネシアの方に「無になる」って何?って訊かれた時に、「集中する」が一番近いニュアンスかなと思って、でもそれがなぜ無に繋がるんだろうと考えたら、「目の前の取り組むこと以外のことは存在しない(=無)」の略なのかなと思いました。

あくまで残された人が勝手に想像しているにすぎないのですが、太宰にもし苦悩があったとしたら、カニを食べている時は無でいられるゆえ好きだったのかなぁと思いました。

たとえばカニとか、鍋とか、焼肉とかって、味ももちろんおいしいけど概念じゃないですか。人が集まらないとできない規模感というかパーリナイ感。その行為や空気感が好きというか。私は元気にソロ活動しているので一人焼肉とか一人火鍋とか抵抗ないけど。元の概念。

カニとか鍋とか焼肉って忙しいんですよ。食べるだけじゃなくてベストな状態で頂くべく自分の手を動かさなきゃいけないから、お喋りやドリンクで集中力を奪われるわけにいかないんですよ。パーリナイなのに無言。

なので、私は自分のことをあれこれ勝手に推測されるのが大嫌いなのを棚に挙げて、太宰はカニのその概念が好きだったんじゃないかなと考えています。あ、推測されるのが嫌いなんじゃなくて、推測されて的外れなことが嫌いなだけで、合っていたら「私のことこんなに理解してくれてうれしい・・・」となります(めんどくさい女)。

今年の春は、太宰を偲ぶ夜桜トゲクリガニパーリナイのご予定はいかがですか(無言でカニ食べるだけ)。




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