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出逢い:わたしという辞書の拡張プロセス

雨の隙間が素晴らしいタイミングで訪れ、濡れずに自転車で道場に通うことが叶った、合気道稽古の夜。「ああ、なんて尊い生命の営みなのだろう」。なんとも掴み難い不思議さとおもしろさを感じながら、異次元のような、現実の塊のような時空間に身を委ねる。簡単に見えて同じようにいかないことの不思議さ。見えないものを「伝わるように」と工夫することによって捻り出される伝達の知恵。体験からしか触ることのできない「腑に落ちる」という感覚。

「私」というのは、身体でみると一見個体だが、エネルギーとして見るとなんと流動的でなんと拡張性のある捉え所のないものなのだろう。「私」という輪郭も、「私」という認識も、くっきりとした線で描かれるものの方が実はとても少なくて、実態は区別のつき難い流動性の中においてある。感情などというものはその典型例ではなかろうか。「私」の感情?その中に他の存在を認めることのできない感情などというものは、一体存在し得るのだろうか。

「出逢い」とは、そして「理解」とは、そもそもにおいて複層的なものなのだ。その仮説を忘れたままに展開される「知識」は、自らを固定化し、未知に蓋をしてしまう。「私」を「私」に閉じ込めてしまう。そのことに注意深くあることが肝心だ。そしてそんな感覚をわかちあおうとした時に「わかりやすい言葉」では不十分で、それとは異なる「想像の触手スウィッチをオンにする装置」が必要となる。なんことやら?という感じだけれど、そのひとつが「わからない」に立ち続けることであることは、ほぼ間違いないと感じている。「わからない」から「知ることのできる領域」に居場所ができる。「知った」ことを「わかった」に容易に片付けない。「現時点での、わかった」として誠実に受けとめる。そこに我々の知恵が蓄積されるスペースが広がってゆく。

そのようなことを考えている、あくる朝のひととき。

あなたと私がこのように出会っているのも不思議なことだ。私がここを書く場所に選んでいることも。雨音が響き、波の音が聞こえないこの朝のリビングで、足先を冷やしながらキーボードに向かい合っているこのことも。偶然でもあり、約束されたことのようにも思えて。

今朝の読書は、大佛次郎『猫のいる日々』、そして川田順造『もうひとつの日本への旅』を選んだ。人から勧められて手にした中村明編『感情表現辞典』は予想を遥かに超えてよかった。絶版のようだが、手元におきたい一冊だ。朝はこのような文章で迎えることが正解だ。今更ながら、言葉の持つ深み、滋養の力をしみじみと噛み締めている。言葉はまなざしを運ぶものだ。そして、言葉を迎える入れるのもまた、まなざしである。まなざしとまなざしの出逢いを担うのが、言葉という乗り物なのだ。それはなんと、尊い存在であろうか。

今月に入り、突如として私の仕事の領域に「インターナショナル」がもたらされ始めた。週末は東京工業大学大学院のリーダーシッププログラムでの授業。留学生らの多くいるクラスで、日英両語でのNVC。今月末は立教大学で、同じく英語でのNVCの授業。こちらも留学生の多くいる国際的なプログラム。秋にファシリテートする予定のワークショップは、参加者の国籍がさらに広域に拡大する。英語を使う仕事も「ネイティブでない英語話者が多い場所」であるならば、私はマジョリティの側に立ててしまう。マジョリティが凸凹であることの、なんと心地のよいことか。

気がつくと雨がやんでいる。走りにでるなら今だ。走る前と後の「私」という存在の変化。「小さな変化の連続の中にいる私たち」。このまなざしを忘れないでいよう。希望を育むことは、なにも大掛かりなことにばかりあるのではない。そのような小さな暮らしの営みを愛でる力が私たちにあることを、思い出すことにこそ、きっとあるのだから。