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私とアイデンティティ感覚 -青年期の揺れの記憶と「私は生きてるさくらんぼ」

『私は生きてるさくらんぼ』という絵本がある。ちいさな女の子が,その日にみた景色,人々,色彩の中にとけこむように,「わたしは 木 わたしは 猫.」「わたしは あお わたしは 金.」と,自由にすきなものに同一化して,うたう。そして「わたしは いつも わたしでしょう. わたしは いつも あたらしくなるのよ.」としめくくる。 

この本に出会ったのは25才の頃だった。京都の素敵なセレクト本屋さんで何気なく手に取り,開いてページをめくっているうちに涙が止まらなくなり嗚咽をこらえた。そこらじゅうに陽が差し込んで光があたっていた。

私はその頃「私らしくありたい」という強い理想を持ち,一方で「私らしく生きられていない,周りにも自分を分かってもらえていない」という焦りに苛まれていた。

私の両親は,あまり学力や効率を重視するところがなく,宗教的であることやアーティスティックであることに価値を置くようなところがあった。歌うことと読書が好きだった自分にとってそのような家庭環境は都合がよく,自由な雰囲気の音楽科高校・大学に進学し,自分の作品理解を演奏で表現したり,映画を観たり本を読んだりしてはあれこれ考え,たまに話の合う家族や友人に自分の考えを話すといったことを通して「私は私である」という感覚を充足(肥大,でもあったと思う)させていたような気がする。結果を出さなくて良い,勝たなくて良い,頑張らなくて良い。住むところとご飯はある。私は剪定もされず好き放題に伸び,あるところは成長しないまま,あるところは枯れてしまった,鑑賞用でも食用でもない,奇妙な植物のようだった。

甘やかされていたことに気づかないまま大学を卒業し,深く考えずに就職した。そして私は,そこで出会った初めての「社会」がどのように自分を扱うかに驚き,傷ついていた。その職場では「私が私である」ゆえに生じる「ユニークな美意識」などの提示は全く求められていなかった。私は「何者でもない,意見や好みを言う必要のない,いち新入り,いち馬力」であることが求められていた。当時の私は日々屈辱のような感覚を味わい,憤慨していた。「感性」という謎めいた下駄を履かせてもらえない状況で「いち馬力」を発揮するのは,最初はなかなか大変だった。ナイーヴで「頭でっかち」で,面倒な新入りだったと思う。

けれども,私には意外と適応能力があった。おかげで少しずつではあるがだんだん「自分はたいしたことない」という新事実に自分を慣らしていくことができた。小さな具体的なことに悩みながら,頭と身体を動かしてトライとエラーをくりかえし,少しずつ社会の中でいち馬力を出す努力を始めたところだった。その一方で「わたしは,これでもわたしなのか?」「わたしは,わたしであることを求められていないのか?」などといった言葉にならない軋みのようなものを,どこかに押し込めていたのではないかと思う。

エリクソンの発達段階でいうと,私は「青年期のアイデンティティ 対 アイデンティティ拡散」のプロセスにいたのだろう。そのような時期に読んだ『私は生きてるさくらんぼ』の少女は,私にとって眩しかった。「わたしは いつでも わたし」だと確信し,すました大人たちの前でも堂々とうたいつづける少女に憧れた。

その後,この本を繰り返して読むうちに,この少女は「わたしであること」を,誰にも言う必要がなく,自分自身さえ知っていればそれでいいという姿勢を持っているということが分かってきた。少女は大人に理解を求めない。「でも おとなたちには わたし いわないのよ」「おとなたちは まちがってるの. わたしは 知ってるわ. だから そう わたしは うたうのよ.」

私は,この本を読んで泣くほどナイーブだった自分を,いまはもう,過去の自分だと思っている。同時に,今の私は以前より『私は生きてるさくらんぼ』の少女に近づいてきているように思う。

知らない人ばかりの所でその他大勢として扱われても,私はもう悲しくなることはない。いつから,なぜそうなったのか。なんだか妙な話だが,私は,仕事で求められている最低限の「いち馬力」を提出するために,みんながしていることを真似しはじめてから(それができるようになってから)「私はやはり,私らしいのだ」ということに気づき始めた。皆と同じことを繰り返してやるごとに,その確信を持つようになってきた気がする。

表面的な出来事によって「私は私である」という感覚が揺るがされることがなくなった。その日どんな状況に巡り会い,どんな色になったとしても,私は私であり,私のうたをうたうことができる。そのうたの内容を,いちいち周囲に分かってもらう必要もない。私自身は,今どこにいて何をしていても,私を私だと知っている。

最近の私はもっといいかげんになって,「私が私だとか,どうでもいい。たいしたことじゃないんだ。」と思っている気がする。じゃあなぜ,青年期には,「私が私である」という感覚があれほど揺るがされて,不安になったんだろう。このことはちょっと,またいつか哲学対話で考えたいところである。