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僕が修行に行った話【Episode 8:僕 V.S.僕】

終止符を打つことのないまま一年ほど放置していたnote「僕が修行に行った話」を終えようと思う。時間が経過し過ぎて当初何を書いて締めくくろうと思っていたかは分からないが、後日談くらいに受け止めていただきたい。

見ること 見ること 自分を見ること

一年間の修行は、どこまでも自分との対話だったのだと思う。集団生活のなかで問題が起こり周囲に注目したくもなったが、あくまで自分の心の問題として立ち現れた。一見、協調性や社会性、忍耐力を磨くことを目的としているようにも思えるカリキュラムは、切磋琢磨する仲間を「教材」としながら自己理解を深めていくことを目指していたのではないかとも思う。

教材と言ったのは比較対象という意味でもそうであるし、まさに「切磋琢磨」する道具という意味でもある。玉を磨くためには、硬いヤスリやサンドペーパーと柔らかいクロスを使う。同じ硬さのものを用意しても仕方がない。色々な人材が一堂に会するからこそ磨き上げることができるのだろうと思う。

本教のある徳者は「見ること 見ること 自分を見ること」という言葉を遺したが、まさにそうなのだと折に触れて思う。寮の玄関には「足下を見よ」という書が掲げられていたが、これも周囲に目を向けがちな私たちの視点を自分の手元足元に移そうという助言だったのだろう。

自分の感情との戦い

誰かと衝突したり、気に食わないことがあったりしても、その相手とは戦わない。その相手をどうやってギャフンと言わせてやろうかとか、どうやって自分の思い通りにしてやろうとかは思わないのだ。この内側から出てくる苛立ちを辛抱するところからはじめ、自分と対峙する。

「この感情はなぜ湧き出してくるのだろう?」「私のどこから出てきているのだろう?」という問いを自身に突きつけていく。そうしていくことで、例えばEpisode 6で触れたような「自分は正しいはず」「理解しているはず」という傲慢さなどといった負の感情の根っこを明るみに出していくのである。

そのためには自分の弱さに自覚的でなければならない。攻撃されれば自分を守るために強く出たくなる我々であること、居心地のよさのためには進んで無知になる我々であることを深く認識しておかなければならない。

自分の知恵との戦い

限界について自覚的にならないといけないのは、知恵に関しても同様である。
例えば「AかBか」という問題に直面したときには、まずその問い自体に問いかける。AもBも、そしてCも。そんな答えはないだろうか。

あるいは、その問いが出てくる自分に遡る。子どもの「なぜ人を殺してはいけないの?」という質問に衝撃を受けた、みたいな話をどこかで読んだ気がする。その問いにそれらしい理屈をつけて答えることは出来るかもしれないが、それよりも大切なのは「なぜそんな問いが発せられなければならなかったのか」だろう。それと同様に、自分の問いについても問いを問うことが求められるように思う。

自分の歴史との戦い

なぜ自分はこのように考え、このように問うのだろうと考えるうちに必ず自分の半生を見つめることになる。生きているうちに染み付いた考え方やものの見方は必ずある。誰しもが必ず色眼鏡をかけて物事を観ていると捉え、自分はどんな色眼鏡を通して見ているのかを内省する。このことがEpisode 7 で触れた「無知のヴェール」の獲得に大いに役に立つだろう。

終わりなき旅

「本当の自分」や「自分探しの旅」には懐疑的だが、この修行の旅は終わらない。
うまく生きるためのレシピはないかも知れない。けれども「道」はある。広く遍く開かれている。そこを目がけて進もうじゃないか。自分の汚さも綻びも抱えて。

うちの宗派では教主も自身が「一修行生」であると自称する。修行は生きている間続くのだとも伝えられている。肉体に鞭打って修行をされた先人は数多くいて、彼らによって「道」は踏み広げられている。
今の修行には、肉体的な厳しさじゃない、やらなければ済んでしまう厳しさがある。起居一切を修行とできるかどうかを試されている。

一年間、これだけたっぷりと時間を使って自分を見つめる時間を持てることはなかなかない。今になってはつくづく贅沢な時間だったと思う。(完)

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