年齢をかさねて出来ないことが増えるのもありがたい。

年齢をかさねると、どうしても自分のちからでは出来ないことが増えてきます。他人の手を借りないと出来ないことが増えてきます。

参拝されるご年配の方のなかには、それを情けなく、ときに辛く感じるという方がいらっしゃいます。ぼくは20歳そこそこでバイク事故に遭い、下の世話から何まで、人の手を借りなければならない生活を送ったことがあるので、その気持ちは多少なりとも理解できるつもりです。ですが一方で、人の手を借りなければならないことに喜びも感じられるように思うのです。

すこし話題が変わりますが、生まれてこの方誰の世話にもなっていない、という方はいるでしょうか? いませんよね。誰しも両親や家族の世話になり、友人や同僚の世話になり、遠い国の誰かの世話になりながら生きてきたはずです。

そうやって考えてみると、案外、自分のちからで出来てきたと思えることもそうじゃなかったと思えてきませんか?

自分の才能だと言ったってその才能の源は親先祖のDNAだし、自分の努力のおかげだと言ったってその努力できる環境は自分のちからで整えたとは言えません。ましてや、運が味方したことなんてあれば、完全に自分のちからとは言えないわけです(これを神職らしく「神さまのはたらき」とでも呼ぶことにしましょう)。

見えないところで沢山お世話になりながら出来てきたことを自分の手柄にしながら、出来なくなってきたら情けない、というのは、それこそとても情けないことだと思います。

でも、仕方ない部分もあります。私たちは「目で考える生き物」だからです。じっさい、私たちの脳の後頭葉という部分のほとんどは「ものを見ること」に使われているそうですし、目玉は脳が進化してできた器官なのだそうです。それくらい脳と眼、考えることと見ることは密接な関係にあるようです。ですから、目に見えないお世話に考えがおよびにくいのはもっともだとも言えます。

そうだとするならば、色んな人の手を借りなければならない状況を、目に見えないお世話に思いを馳せるきっかけにするのはどうでしょうか。誰かのお世話になるたびに「見えないところでも、こうやって誰かのお世話になってきたんだ」と思えるならば、その度にありがたく思えてきます。

それでも負い目を感じたら?お世話になったお返しにその人の幸せを祈り手をあわせることです。

寝たきりになって、あるいは、認知症が進行しても、しばしば手をあわせ、何に対してもお礼を欠かさないような方たちについて聞くことがあります。その方々は自分でできることは非常にかぎられています。まわりの方のお世話がなければ生きていくことは難しいでしょう。でも、その方々のまわりでお世話をする方々は決まってこう言うのです。

「〇〇さんの姿に救われている。」

すごくないですか?お世話しているはずの人たちが、助かっているんです。自分では生活できない人が、まわりの人を救っているんです。お世話されっぱなしがイヤなら、埋め合わせられるくらい祈りましょう。祈ることは残されているんです。ぼくたちがそれに気づくかどうかでしょう。これも目に見えない、だけど大切なことだと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?