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僕が修行に行ってきた話 【Episode 1:情報の制約のなかでー頭の使い方編】

前回からスタートした「僕が修行に行ってきた話」ですが、今回から各論に入っていきたいと思います。前回のnoteご覧になられていない方はこちらからご覧ください↓↓

修行中の生活は…

さて、前回のnoteで触れましたが、修行期間中は情報を得る手段がかなり制限されていました。修行中のおもなルールは以下のとおりです。

・スマートフォンの持込み✖
・施設内のテレビ、パソコン日常利用✖
・外出は週一回の決められた時間以外✖

そして、以下が情報を取得する方法でした。

・宿泊寮が購読する新聞(讀賣、朝日)
・図書室の蔵書
・人からの伝聞(ただし、同じ修行生か職員くらい…)
・電子辞書(高校入学時に買ったもの)

これでも修行に入る1ヶ月前までは都内のスタートアップでテレワークを推進するような立場でしたので、常にスマホをスクロールしては複数のキュレーションアプリで情報を貪りながらTwitterに張り付いているような情報乞食でした(え、いつ仕事してたのかって?マジメに働いていましたよ…白目)。

…ですので修行生活がはじまって、情報のインプット量はドーンッと減った訳です。さて、オフライン生活は頭の使い方にどのような変化をもたらすのでしょうか?

オフライン生活がもたらす3つの変化

1年間の生活を振り返ってみると私に起こった変化は次のようなものでした。

①   モノを考える
②   情報を欲する
③   感覚が鋭くなる

それぞれ詳しい説明してみますね。

① モノを考える

インターネットに接続できなくなると、ネットに触れていた時間がぽっかりと空きました。自由に使える時間(=可処分時間)が増えたのです。ゲームや娯楽などが手元にあれば別ですが、修行中はそのような代替物もありません。手持ち無沙汰な時間が生まれました。さて、ぽっかり空いた時間はどのように使われるのでしょうか?

・意味を考える

もちろん、ボンヤリする時間もありましたが、おもしろいもので人間なにか考えるんですよね。起こった出来事についていちいち考えをめぐらせるようになります。

掃除を例に挙げてみましょう。私たちは修行中に1日のうち、かなりの時間を掃除にかけます。ハタキをかけて、ほうきを掃き、雑巾をかけ、草を抜き、落ち葉を集めます。当初は効率よくキレイにしていくことを考えるんですが、徐々に「何のために草を抜くのか?」「自然にとって掃除はどのような意味を持つのか?悪いことをしていないか?」などとグルグル考えます(こう書くと病んでるみたいですねw)。日常生活においては単純作業でしかない掃除にも自然と意味を求めるようになっていました。

・情報が知識に転化する

また「自分がなぜこのように思ったのか?この人はなぜこのように考えるのか?」などといったメタ認知が進みました。

いつでもテレビを見て、スマホを触れる状況下においては、インプットを繰り返しがちです。脳にとって新しいことが分かるということは気持ちいいことだからです。自分でじっくり考えるよりも、テレビやスマホから流れるニュースは手っ取り早く新しいことを知ることができます。効率よく気持ちよくなれるインプットを繰り返してしまうのです。

しかし、ニュースは鮮度でしか差別化ができません。誰でもアクセスできる情報だからです。また、ニュースは個別的な情報なので、その場限りの価値しかありません。ただの物知りがGoogleの登場によって価値を失ってしまったのはこの情報の個別性に理由があります。

テレビやスマホから流れてくる情報を浴びていればその場では気持ちいい。ですが、そのニュース(事実)から深く考えることによって得られる知識は価値が持続します。この知識のことを「洞察」と呼んでも良いかも知れません。

洞察はある事実を情報に留めず、その情報を「なぜ起こったのか?」「次にどうなるのか?」「どうすれば抑制できるのか?」など疑問のまなざしで見つめることで生まれてきます。

修行生活ではインプットが制限され、しかもニュースと呼べる情報は1日1度の朝刊のみでした。ですので読んでしまったら、その日はそれでおしまい。翌日の朝刊まで、そのニュースについて考える時間はたっぷりとある訳です。このように半強制的に情報を咀嚼する時間が生まれたことが、事実を色々な方向から見つめる訓練になったということができると思います。

・考え続ける

Googleがあれば「あれってなんだっけ?」と思った時、キーワードですぐに調べられますよね。これってホント便利だなって改めて思わされました。

電子辞書は持参していましたが常に携帯している訳ではありませんでしたし、単語そのものを部分的にも覚えていないといけない。案外、言葉自体は覚えていないんですよね。その単語を知らなくても検索できるって偉大だなって思わされました。

わき道ついでに。図書館では「19××年に雑誌『〜〜』で〇〇という方が△△について書いた記事を調べたい」という要望を受けたとき、その情報が間違っていても希望の情報を提供できると実際の学芸員の方から聞きました。要望者との対話と地道に書籍を調べることを通じてその情報にたどり着くんだそうです。なんだかポストGoogleな検索手法について考えさせられる話ですね…本筋に戻りましょう。

GoogleもYahoo!もない。周囲の人も知らない。そうなったら自分で考えるしかありません。答えが分からないけど考え続けます。一朝一夕ではそれらしい答えにたどり着けません。そのとき、問うことを止めずに保留しておくようになりました。翌日、1週間、1ヶ月、ときには半年経ってから答えらしいモノにたどり着くこともあります。これはオフラインだからこそ癖づいたことでしょう。

オンラインであればスグにもっともらしい情報を検索することができます。スッキリします。しかし、検索結果を見て分かったつもりになったり記憶として十分に定着しなかったり、他人の考えをさも自分が考えついたことのようにすることもしばしば…。逆に検索できないとモヤモヤを引き受けつづけることにはなりますが、自分で考え続けたことによって考えをしっかりと腑に落とすことができました。

なお、新聞で知ったのですが、このような概念は「ネガティブ・ケイパビリティ」と呼ばれ、現在注目を集めているようです。

一般に能力(ケイパビリティ)という言葉が指すのは才能や才覚、そして処理や解決などの力だ。一方、英の詩人キーツが19世紀に提唱したネガティブ・ケイパビリティは、その裏返し。[作家で精神科医の]帚木[蓬生]さんは「生半可な知識や意味付けを用いて、未解決な問題に拙速に帳尻を合わせない。中ぶらりんの状態に持ちこたえる力」と説明する。
ー2020年4月12日朝日新聞 朝刊より。※[]内は筆者注

オフラインでの修行生活は終わりましたが、引き続き、ものごとをスグ分かったつもりにせず、モヤモヤを引き受けていきたいと思います。

②情報を欲する

ヒトはある一定量の情報無しには生きていけないのかも知れません。テレビやスマホから得ていた情報を補てんするためなのか情報を欲するようになりました。

元々、新聞はナナメ読みする程度でしたが、修行生活中は一つ一つ記事を読むようになりました。芸能ニュースはほとんど入ってこなくなりましたが、唯一新聞の週刊誌の広告欄からは流れてきました(2センチ四方くらいのグラビア写真が数少ない癒しだったのはここだけのヒミツです笑)。正直、芸能ニュースは無くとも生活の質に変化はありませんでしたが…。いかに必要性の低い情報が身の周りに溢れているか気づかされました。

またも脱線しますが、修行生活中、情報は熱を帯びているように思わされました。新聞から日々ニュースは得られましたが、新聞からだけではそのニュースに人々がどれだけ歓喜したり、不安になったり、怒っているかを窺うことができませんでした。毎年年末に発表されるユーキャンの新語・流行語大賞、昨年は「ONE TEAM」が年間大賞を獲得しましたが、これには大変驚きました。ラグビーW杯の試合結果は新聞でも連日報道されていましたが、これほど国民の間で熱気を帯びているとは知りませんでした。新型コロナウイルス感染症の一件についても、修行中から大変なことが起こっているという認識はありましたが、志村けんさんの訃報を耳にしてはじめて危機感に変わりました。「どこでも報道している」という情報源の数や表情や声色が伝わるメディアの特性について考えさせられました。

話は戻って、修行生活中には新聞だけではなく、読書量が圧倒的に増えました。約1年間、貪るように本を読みました。ビジネスマン時代から読書の習慣があって月1〜2冊程度は読んでいましたが、修行中には読書量が4倍程度になりました。年間100冊ほどは読んだんじゃないかと思います。

読書量を増やせばそれで良いということではありませんが、読書量を増やしたいという方は以下のようなことを意識してみると良いかも知れません。

・常に本を携帯する:いつでも読める状態にする
・図書館で借りる:締切を意識して読む
・数冊を併読する:集中が切れたら読みやすい本に変える等、ジャンルをまたぐ
・流し読みを許容する:流し読んでるうちに分かってくることもある

③感覚が鋭くなる

修行生活中は色々な感覚が研ぎ澄まされたような気がします。「ヒトはある一定量の情報無しには生きていけないのかも知れない」と先述しましたが、情報が無い分、何でも無いことからも何かを見出そうとしているのでは無いかと勝手に思っています(笑)

例えば、四季の変化。修行している場所は自然に囲まれてるんですが、草木の移ろいや星座の動き等、これまで気付きにくかったことを五感で感じるようになりました。

また、視覚や味覚にも変化が生まれて来ました。人の変化や毎朝頂く味噌汁の味の変化にも気づくようになっていました。毎日の反復のなかで僅かな差異を感じ取る感覚が磨かれていったのだと思います。(このトピックは改めて「Episode 3:反復がもたらしたこと」で説明します。)

まとめ

修行生活の間、制約された分の情報を無意識のうちに補てんしようとしていました。情報を欲して本や新聞を貪るように読み、それ以外の時間においてもモノを考えたり感じ取ろうとするようになりました。

インターネットに触れられるようになった、今、確実に本を読む時間やぼんやり何かを考える時間は減ってしまいました。しかし、インターネット断ちをすることを意識するようになりました。

ビジネスマン時代にも実はそのような時間がありました。セミナー用のスライドや企画など、アイデアを形にしていく段階ではパソコンを閉じてオフィスのフリースペースやカフェでペンを走らせていました。

情報が溢れる社会においては往々にして情報に踊らされてしまいます。必要性の低い情報に時間を、脳みそを費消してしまいます。情報との主従関係が入れ替わらないよう、時間の使い方を毎日振り返ってみても良いかも知れません。

次回は、コミュニケーション編です。お楽しみに!

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