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僕が修行に行ってきた話【Episode 4:15分の食事が教える「命」と「今」】

食事をすることは案外むずかしい。これは修行中に思わされたことの一つだ。

食事をしながらスマホを触る。テレビを観る。本を読む。食後のことを考える。食事をしながら何かをしている。いつでも「ながらご飯」。僕らは食事をしながら食事をしていない。僕らは効率的な時間の使い方を追求して、何でも同時並行で進めようとする。
けれども、その「効率」のために抜け落ちた何かがあるのではないか。

修行先では皆が揃って食事を摂った。15分間で済ませる。その間、一切の私語は許されない。静寂のなか食器の音だけが控えめに響く。
意外かも知れないが、献立は和洋中それぞれあって肉や魚も出てくる。ただし、朝はいわゆる一汁一菜が基本で、ご飯と味噌汁に漬物と決まっている。この一日三度の15分間は修行中のささやかな楽しみであり、そして十分に修行だった。

以下では15分の食事で得た学びについて記したい。

「いただきます」の行方

僕らは食事の前に食前訓という文言を唱える。次のような文言である。

食物はみな人の命の為に 天地の神の造り給うものぞ
何を飲むにも食べるにも ありがたくいただく心を忘れなよ

もしかすると食物がすべて人間のために造られただなんて人間中心的で傲慢だと思われる方もいるかも知れないが、そのような心持ちだと理解してもらいたい。
それよりも、大切なことは言葉が空虚なものになっていないか。

「いただきます」でもいいのだけど、言っている僕たちは果たして「いただく心」になれているのだろうか。そして、「いただきます」は誰(何)に向けられた言葉なのだろう?もしウヤムヤなままに発せられているとしたら、誰にも受け取られることのないまま宙を漂っているだけかも知れない。

以下では「いただきます」の行方について考えてみたい。

①調理してくれた方
まず、調理してくれた方に向けた感謝の言葉であると解釈できる。ごはんを食べるということは、必ず手間をかけて(ときには愛情を込めて)料理を作ってくれた方がいます。「ごちそうさま」が「馳走」、つまり料理の提供のために「馳せ走って」くれた方への労いの言葉であることに鑑みれば、対となる「いただきます」も調理者へ向けられていると考えられる。

②生産してくれた方
食材を生産してくれた方にも同様に向けられて然るべきだろう。加工食品であれば加工業者の方が生産に携わっているし、さらに遡れば、野菜や肉であれば農家や畜産業者の方が丹精込めて生産をしたはず。やはりそれぞれ「馳せ走って」くれた方々なのである。

③食物そのもの
食物それ自体は「馳せ走って」くれた訳ではない。けれども、感謝の言葉がおくられるべき存在であろう。僕たちの食卓に並ぶ料理も元は生命を宿していたものたちであり、その生命と引き換えに僕たちは栄養を得ているからである。

あえて強い表現を用いるならば、生命を「奪い」僕たちは生きながらえている。しかも、たった一日生きるためにかなり多くの生命を。一食のうちにどれだけの生命があるか数えれば、僕たちが生きる時間の重みが分かる。

④生命の可能性
もう少し想像力をはたらかせてみる。すると、食卓の「生きていたもの」の生きるはずだった未来が見えてくる。それは数日だったかも知れないし、数年だったかも知れない。けれども、個体を超えた生命の連なりを考えれば、遥かに長い生命の可能性と引き換えに私たちは生きていることになる。

⑤さらに遡ると…???
さらに遡ろう。「いやいや、もう食物そのものに突き当たったのだからムリじゃん」そう思われるかもしれないが、そうでもない。
食物を生産するにあたり、生産要素というものが存在している。平たく言えば、材料のことである。肉であればエサ、野菜であれば肥料などがそれである。それぞれの生産者まで遡る。これを繰り返しているうちにある壁にぶつかる。

水、土、空気、太陽。

誰が作るでもなく、そこにあるものたち。それらの恩恵を受けながら食物が生まれてくることに気づかされる。多くの場合、調理者や生産者にはなんらかの形で対価が支払われているはずである。けれども、この自然はただ僕たちに恩恵を与え、育んでいる。感謝せずにはいられない。

⑥俯瞰してみる
食事をする自分を客観的に見てみると別の感謝の対象が見えてくる。
例えば、そもそも食べれるものがあることに有り難さを感じてくるのである。修行中には平和学習といって、戦時中のことを語り部の方から聞いたり、広島の原爆資料館などに赴いたりした。そのような時間を過ごすと否が応でも食事にありつける有り難さを感じる。僕たちが生きる飽食社会を当たり前のものとして捉えてしまっている自分に気づかされるのである。
同様に平和な環境で食事ができることにも感謝が生まれる。改めて考えてみると空襲の危険を感じながら食事をすることもない自分を取り巻く環境も当たり前のものではない。

「いただきます」を取り戻す

ここまで単なる音塊になっていた「いただきます」の本来の行き場所について考えてきた。上記はあくまで氷山の一角であろうが、それでも本来感謝すべき対象があまりに多いことが分かってもらえたかと思う。心から「いただきます」を言うことによって、この言葉を私たちの元に取り戻したい。

生命を奪いながら生きていることは前述の通りであるが、そのことに鑑みれば食事のマナーについても異なる意味が浮かび上がるように思える。僕は食事中のマナーが煩わしい、形式的なものだと思っていた。しかし、ある日の食事の最中に、生命の移転という視点で考えれば食事を冠婚葬祭のような一つの「儀式」とみなすことができると思うに至った。
食物になった生命を弔い、きちんと僕に引き継がれていくことを願う「儀式」と捉えた途端、マナーや所作が大切なものとして感じられるようになれたのである。

"Don't Think, Feel" な世界

以上で述べてきたことは言わば「食事の意義を問い直す」ということだった。問うているのだから、当然思考を巡らせている。いつも通りそうやって色々思案しながら食事をしているとき、メタな自分がひょっこり現れてこう言った。

それも「ながらご飯」だよね。

食事をしながら「食事」について考えている。それは「食事」一般と向き合って入るものの、目の前の食事とは向き合えていない。「葬式とは?」について哲学したところで故人を弔ったとは言えないのと同様に、生命を弔う儀式としての食事であれば抽象的な思考を止めて、目の前の食事と対峙するべきなのである。ここから僕の修行は次のフェーズに移行した。

研ぎ澄まされる感覚

食事中に「食事」のことを考えるのも止めるように取り組んだ。ただ、味わうことに徹する。すると、心なしか感覚が研ぎ澄まされていく感じがした。毎朝の味噌汁や、お米の味や香りのわずかな違いにも気付けるようになった。使われている味噌や出汁が変わった、お米の品種が変わった。慌ただしいサラリーマン時代の食事では、そんな変化には気づけなかった。

残された課題

しかし、課題は残る。気づけば何か考えている自分がいる。頭を使うことは大切である。けれども、かけがえのない体験の機会を思考がジャマするという現代病が蔓延しているようにも思えるのである。きっと「思考する自分」を自身がコントロールできるかどうかがポイントなのだろう。修行中、食事は「考える自分を滅して完全にイマに身を委ねる」トレーニングでもあった。

おわりに

修行中、食事の15分が教えてくれることは沢山あった。しかし、それは決して特殊な環境だからこその学びではなく普段の食事の中でも再現できることであろう。15分だけ、テレビを消し、スマホを置き、目の前の食事を味わうことだけに集中する。これならどこでも出来る。週に一度でいいので「脱ながらご飯」を試してみて欲しい。


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