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死ぬことが悪いことなら、人生はいつでもバッドエンド

死ぬことが悪いことなら、人生はいつでもバッドエンド

「死ぬことが悪いことなら、人生はいつでもバッドエンド」という走り書きを見つけた。僕の字だが、僕から出た言葉ではない。コロナ禍に入ってまもない頃、ある若い神職の言葉を急ぎ書き留めた覚えがある。

死ぬことは忌み嫌われてきた。僕は民俗学者でも社会学者でもないが、このことはある程度、普遍的に言えることではないだろうか。わが国も例外ではない。家族を亡くした人はしばらくの間、神社に足を踏み入ることはできない。穢れ(ケガレ)の話だ。

誰にとってのバッドなのか?

親しい人を亡くすことは寂しいし、哀しく、辛い。これは当然のことだ。
大切な人がいない世界に生きていかなければならないのだから。ただし、主語は亡くなった人ではない。

それでは亡くなった人はどうだろう。自分の人生の終焉、親しい人との離別。やはり寂しいし、哀しく、辛い。ただ、故人は大切な人がいない世界に生きていく必要はない。

その先は無だと言おうが、生まれ変わるのだと言おうが、霊として家族のそばに居るのだと言おうが、死というタイミングを隔ててしまえば(ここでの意味において)寂しい思いはしない。

死の場面

核家族化が進んだことにより、日常で身近な誰かの死に遭遇することがめっきり減ったのだと言う。確かに東京に住んでいた5年間、ほとんど誰かの死と遭遇することはなかった。人が死ぬのはいつもテレビの中だ。

テレビでは毎日沢山の人が死んでいる。ニュースの中でも沢山死んでいるが、ドラマの中ではもっと沢山死んでいる。まるで減った死との遭遇の数を埋めるかのように。

実世界だとサンプル数が少ないので、ドラマにおける死のシーンを思い浮かべてみる。殺される人、闘病の末に亡くなる人もあれば、家族に看取られて穏やかに逝く人もいる。

大河ドラマを例にとっても、壮絶に散る武士の非業の死はバッドエンドだろうが、次の世代に使命を託して息を引き取る実業家の死はバッドエンドとは言い難い。どうやらすべてがバッドだとは言えなさそうだ。

ハッピーエンドではないけれど

ハッピーエンドではないけれど、バッドエンドとも言えなさそうだ。

死は善だと言えば嘘になり、死は悪だと言えば虚しい。

「少なくとも死ぬことは必ずしも悪いことではない」くらいには言えるようになっておけば、自分が死ぬとき、周囲の悲しみを少し和らげることにはなるかも知れない。(むしろ、せいせいしたと言われないような生き方をするのが先かも知れない。)



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