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教育に焦点を―学校と社会:ジョン・デューイに学ぶ

2023/7/27(木):教育に焦点を

 教育について考える木曜日。
 今日は教育の父「ジョン・デューイ」の名著から学び、考えていきたいと思います。
 


はじめに

 学校とはいかなる使命や意味を持って子どもに向かうものなのだろうか?
 デューイは学校教育において主軸においた考えを、「仕事(オキュペーション)」にあるとした。
 オキュペーションとは「社会生活において営まれるある種の形態における仕事を再現した取り組み。一人一人の責任を厳しく要求し、かつ生活における物質的現実とのかかわりにおいて、子どもを訓練していくような活動のことをいう。
 彼はこの「仕事」にこそ学校での学びの本質はあり、学校にいかに導入すべきか…ということを問い続けてきた。
 以下、学校の役割についてデューイから学んでいこう。


学校という社会


作業は、学校というものをレッスンを学ぶ隔離された場所としてではなく、それをとおして学校それ自体を活動的で、社会生活の真の一形態にするための道具として、考えなければならないというのである。
(中略)現在の学校の悲劇的な弱点は、社会的精神に関する諸条件が、とりわけ欠けてしまっているような生活環境のなかで、社会的秩序を維持する未来の成員を準備しようと努めることにある。

「学校と社会・子どもとカリキュラム」:ジョンデューイ 市村尚久(訳) p72~

 このデューイの文章は1900年に発表された論文であるが、現在の学校教育でも彼の指摘は的外れなものになれていないのではないだろうか?社会の一員になる為の訓練の場が学校であるはずなのに、現在の学校教育は「みんな一緒」「お客様の保護者」に目が向くあまり、ドンドン社会制度のそれから乖離した形になってきているのではないか。
 社会で生きていくための知識の受け取りであるはずが、「学校で良い成績を獲る為」「誰かに勝つために」いつのまにか社会がないがしろになり、社会的なかかわりが「邪魔だ」と虐げられる。今一度学校の意味を問い直し、変革させていくことが大切なのではないだろうか。

学校に社会を…という意味

たんに事実や真実を吸収するというだけのことなら、それはひとえに個人的な事柄であるので、利己主義に陥りがちになるのも、ごく自然なことである。たんなる学習の習得には、なんらの明白な社会的動機もないし、あまた、そこで成功したところで、とり立てて社会的な至徳があるわけでもない。実に、成功のためのほとんど唯一の手段は、競争的なものであり、しかも言葉の悪い意味においてなのである。すなわち、その子どもが他者に先んじて、最も多量の知識を貯え、蓄積することに成功したかをみるために、復誦あるいは試験の結果が比較されるにすぎない。これがまさしく学校における支配的な雰囲気にほかならず、したがって、学校での課業において、ある子どもが他の子どもに手を貸すことは、学校犯罪になってしまうほどである。(中略)他の子どもを援助しようとすることは、かえって手助けを受けた者の力を失わせてしまうような一種の慈善行為ではなく、むしろ助けられる者の力を自由に発揮させ、その者にやる気をいっそう起こさせるような援助にほかならないのである。

「学校と社会・子どもとカリキュラム」:ジョンデューイ 市村尚久(訳) p73~

 子どもが他の子どもの理解の援助をするということは、いわゆる協同・協働の概念であると言えるだろう。協同・協働の姿は、社会に出た時に必要不可欠なものである。
 単なる知識の詰め込みではなく作業のあるところに協働の概念が生まれ、社会性の獲得につながるのである。
 また誰かに助け舟を出すという経験は、子ども自身が学ぶ面白さを見出すことにより、学んだ内容が社会とつながり学びが生きたものになることも大きな意味をもつのではないだろうか。

 では、学校は実際どのようなどのような仕事が適しているのだろうか。
 以下、考えていきたい。

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