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教育に焦点を―子どもに進歩がないことと教師の姿
2024/2/1(木):教育に焦点を
今日も覗いて下さってありがとうございます。
実はこの文章を書くのは二回目…何でや!何で「下書き保存」も「公開に進む」もできひんの?!何度かしていたはずの「下書き保存」も保存されていませんでした…ショックやぁ…改めて書いた文章、一読いただけると幸せです。
では!私のウツウツは置いておいて、今日も教育について少し立ち止まって考えていきましょう。
はじめに
今日焦点を絞りたい内容は、教師の立ち居振る舞い、教師の姿についてです。
子どもの前に立つ教師の姿として、どのような心構えでいるのが良いのか、子どもにどんな目を向けてどんな存在として子どもの目に映るのか…そこへの意識を続けることが大切であるということについての大村はまの教えを学びたいと思います。
進歩がなくても残念がらない
何か失敗があると、子どもは瞬間、教師を見ます。そのとき悠々として常と変わらず、子どもをほっとさせたいのです。
出来不出来を大きくほめたりけなしたりしないことも、その一つです。ほめるならいいだろうと思われるかもしれませんが、そうでもないようです。ほめられると思っていたのに、ほめられなかった子もいるでしょう。ほめられっこないと悲しい気持ちになる子もいるでしょう。ことに大げさなほめ方は、派手な装いと同じで、落ち着きを失わせます。
「こんなこともわかっていなかったのか」とびっくりするようなことは始終ありますが、そのたびに、どうしよう困ったなあと思ったりすると、それを口に出さなくても、子どもには伝わっていくものです。そしてそれが、みんなの穏やかさを破ります。
正直、子どもと生活を共にして何かを伝えるということは、
「えぇ…そう伝わってたかぁ」
「あっちゃ~ここから分かってなかったかぁ」
という気持ちになることはあるもの。
でも、このちょっとしたガッカリ感をプロの教育者として表に出さない能力を持たないと、失敗した子どもの気持ちはもっともっと「ガッカリ」してしまうものです。
子どもは、教師が申し訳なくなるほどに教師のことをまっすぐに好きでいてくれますよね。
きっと親でも同じではないでしょうか?
大村のいうような子どもの目をきっちりと理解して、常に見られる教師であるということを意識し、凛として動じないこと、日常的に意識することが教師には必要であることを教えてくれているのである。
「困った」のもと
つい「困ったな」「がっかり」の顔を教師がしたくなる時、本当にガッカリしなければならないのは誰に対してか…ということをここで考えていきたい。
本来ガッカリと困るべきは、子どもをそのような姿にさせてしまった教師自身に対してである。「子どもが思っているよりも理解できていなかった」「子どもに意図と違う伝わり方をしていた」という困りの原因は、教師自身が子どもを正しく把握し、分かるように説明できていなかったということである。困りの原因は全て、子どもではなく教師自身のなかにある。子どもに困った顔を見られて傷つけてしまう前に、自身の教育に責任をもち、子どもの姿をすべて受け止めて対応を考えられる教師になっていくことが必要なのではないだろうか。
さいごに
教師は教材研究などの授業についてや、子どもの姿には熱心に目を向けるが、教師そのものの表情や子どもの目に映る姿には目を向ける機会は少ないのではないだろうか。きっと教師という仕事に慣れてきた者ほど意識の外に置いてしまっているのではないかと思う。
でも本来、この「子どもに見える教師の姿」というのは、一番最初に考えて教育現場の土台に確固たるものとして考え続けることが必要なことである。しかし、私はこの大村の文章に初めて出会った時、全く意識できていない自分に気付き、恥じた経験を覚えている。
これはきっと私だけに限らないだろう。教育実習生の時は意識していたはずの「子どもに映る教師としての自分」…もう一度襟を正し、意識をもって教壇に、子どもの前に立ちたいものである。
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