わたりのカモメ

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ザ・日本人 蒙古襲来‥‥そして建武の新政

1253年 日蓮、故郷の清澄山頂で題目を高唱して日蓮宗を開宗。 1260年 日蓮、立正安国論を執権・北条時頼に献上。立正安国論には『天変地異や疫病が続くのは法然の念仏の流行が原因。念仏を禁じ日蓮の法華経を広めなければ「必ず他国から侵略を受ける」』と記されている。 1268年1月 蒙古使・黒的、高麗使・潘阜、蒙古・高麗の国書を携え太宰府に到着し通行を要求。 1268年2月7日 幕府、蒙古の国書を奉上。 1268年2月19日 朝廷、返牒を不可と決す。 1268年2月27日 幕府、

    • ザ・日本人 鎌倉殿と13人そして承久の乱~

      上記の画像はAIで「鎌倉時代の武士の姿」と質問した結果の画像となります。 それでは、現代社会に向けて進みます。 1199年1月13日 源頼家(18歳)、朝廷の臨時除目で近衛中将に任じられ父・源頼朝の後を継ぐ。(後に第2代・征夷大将軍。) 1199年4月12日 源頼家の"親裁"が止められ北条時政以下13人の合議制となる。北条時政・北条義時・大江広元・三善康信・中原親能・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員・安達盛長・足立遠元・梶原景時・二階堂行政の13人。比企氏の勢力が強大と

      • ザ・日本人 保元の乱~

        上記の「武士の姿」はAIで作成したものです。 1141年12月 鳥羽上皇(39歳)、第75代・崇徳天皇(23歳)を説得し譲位させ第76代・近衛天皇(3歳)即位。鳥羽上皇の謀略で鳥羽上皇と崇徳上皇の確執は決定的となる。 1155年7月 第76代・近衛天皇(17歳)没。悲嘆に沈む鳥羽上皇の耳に近衛天皇の死は藤原頼長の呪詛に依るものと云う噂が聞こえてくる。鳥羽上皇、鳥羽上皇の第4皇子・雅仁親王(後の後白河天皇)の皇子である守仁(二条天皇)親王への中継ぎとして第77代・後白河天皇(2

        • ザ・日本人 応天門の変~

          866年9月22日 応天門の変:応天門放火の罪により伴善男父子を流罪。大内裏八省院の正門応天門が炎上した事件をめぐる宮廷の政変。応天門の炎上は放火とされ最初は伴善男の証言により源信の仕業とみられていたが藤原良房の工作により源信は罰せられず、逆に伴善男が真犯人と分り処罰された。伴善男は源信の失脚を謀ったが、この事件により一族は殆ど政界から追放され、古代からの名門大伴氏の声望は失われ、反対に藤原良房の名声が高まり北家の栄達、摂関政治への道が開かれる事となった。国宝「伴大納言絵巻」

        ザ・日本人 蒙古襲来‥‥そして建武の新政

          ザ・日本人 壬申の乱~ 

          壬申の乱から続けていきます。 672年5月 近江朝廷、尾張・美濃に命じて山陵造営の為の人夫徴集。大海人皇子、舎人から『人夫徴発、しかも彼らに武器を持たせている。山陵を造ると云うのは名目。近江から大和の飛鳥に至る道に斥候を置き警備している』旨の連絡を受ける。更に吉野に食糧を運ぶ道が封鎖される。 672年6月22日 大海人皇子、事前工作の為に舎人3人を美濃に派遣。徴兵と不破関の封鎖を命令。これが戦乱の始まり。 672年6月26日 大海人皇子側、美濃での軍動員3千人で不破道を制圧。

          ザ・日本人 壬申の乱~ 

          ザ・日本人 太古から天智天皇まで

          日本人が歩んできた歴史をたどる旅を記します。 20万年前 アフリカ大陸にホモ・サピエンス(知恵のある人)誕生。 6~5万年前 ホモ・サピエンスがアフリカ大陸を出発し一部は西に進路を取り(欧州人)一部が東へ進路を取る(アジア人)。 4~5万年前 ホモ・サピエンスがインドを通って現在の東南アジアに辿り着く。 3.8万年前 日本列島にホモ・サピエンス現れる。1,000人程の集団。 3万年前 シベリアにホモ・サピエンスが到着。この頃から日本列島に遺跡の数が増えて行く。 2万年前 氷河

          ザ・日本人 太古から天智天皇まで