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ザ・日本人 保元の乱~

上記の「武士の姿」はAIで作成したものです。
1141年12月 鳥羽上皇(39歳)、第75代・崇徳天皇(23歳)を説得し譲位させ第76代・近衛天皇(3歳)即位。鳥羽上皇の謀略で鳥羽上皇と崇徳上皇の確執は決定的となる。
1155年7月 第76代・近衛天皇(17歳)没。悲嘆に沈む鳥羽上皇の耳に近衛天皇の死は藤原頼長の呪詛に依るものと云う噂が聞こえてくる。鳥羽上皇、鳥羽上皇の第4皇子・雅仁親王(後の後白河天皇)の皇子である守仁(二条天皇)親王への中継ぎとして第77代・後白河天皇(29歳)を皇位に就ける。信西が裏で動く。ここに我が子の皇位継承の夢を絶たれた崇徳上皇と藤原頼長が結びつく切掛ができる。
1156年7月2日 鳥羽上皇(54歳)没。鳥羽上皇、亡くなる前に新天皇を守る為源義朝・平清盛(38歳)・足利義康等、有力な京武者を糾合させていた。一方、崇徳上皇側は源為義・平忠正等の摂関家に仕える私兵に頼る事となる。崇徳上皇、後白河天皇を廃し、息子を天皇にし自らが院政を画策、信西・藤原忠通は崇徳上皇の動きを警戒。
1156年7月11日 保元の乱:信西の指示で白河北殿に夜襲、崇徳上皇ら逃亡し4時間で決着。皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し双方の武力衝突に至った政変。この公家の内部抗争の解決に武士の力を借りた為、武士の存在感が増し後の約700年に渡る武家政権へ繋がる切掛の一つとなった。 崇徳上皇は讃岐国に配流され、藤原頼長は没し、源為義・平忠正らは斬首。平清盛は安芸の国司から格のある播磨の国司へ出世、源義朝は下野の国司から左馬頭(さまのかみ:朝廷の馬を管理・世話する役職)となり平清盛に比べ冷遇され不満を抱く。
1156年7月13日 逃亡した崇徳上皇が出頭、崇徳上皇に協力した武士らも逮捕。
1156年9月 信西の主導により王土思想を標榜した七カ条の新制が発布。後、強引な信西の政治に反感が高まる。
1157年 藤原基衡(53歳)没。(基衡、毛越寺建立)
1158年8月11日 第77代・後白河天皇、息子・守仁(もりひと)親王(16歳)に譲位。
1158年12月20日 守仁親王、第78代・二条天皇(16歳)即位。
1159年12月4日 平清盛、熊野参詣に向かう。
1159年12月9日 平治の乱:反信西勢力の藤原信頼(27歳)・源義朝(37歳)ら、後白河上皇の三条烏丸殿を襲い、上皇・二条天皇を内裏に幽閉。
1159年12月11日 平清盛、反信西派の挙兵を知り熊野から京へ引き返す。
1159年12月13日 信西(54歳)、京から脱出し同行していた武士に自分を埋めるように命じて土の中で自害。或いは、掘り返されて打ち首になったとも云われる。
1159年12月17日 平清盛、京へ戻る。
1159年12月25日 平清盛、二条天皇を女装させ内裏から、後白河上皇も内裏からそれぞれ脱出させる。平清盛、後白河上皇から藤原信頼討伐の命を受ける。
1159年12月26日 平清盛、内裏の源義朝を攻撃、六条河原で源義朝軍大敗。源義朝、東国へ敗走。
1159年12月27日 首謀者である藤原信頼は斬首。院近臣主要人物であった信西・藤原信頼が去り摂関家が衰退。後白河院政続くも平清盛が朝廷の中心へとなりつつある。
1160年1月4日 源義朝、尾張国で長田忠致に殺される。
1160年3月11日 源頼朝(13歳)、伊豆国に配流。
1160年8月11日 平清盛、武士として初めて参議となる。
1161年9月3日 平滋子、後白河上皇の寵愛を受けて憲仁親王(後の高倉天皇)を生む。
1164年9月 平清盛、一門と共に法華経を書写し厳島神社に奉納。現存。
1164年 崇徳上皇流刑地で没。讃岐での崇徳上皇は仏教を熱心に信仰し、戦死者供養と反省の証しとして朝廷に写経を送るも後白河上皇は『呪詛が込められている』と写経の受取りを拒否。写経が送り返されると崇徳上皇は自分の血で『日本国の大悪的なり、皇(おう)を取って民となし、民を以て皇とす』(天皇を没落させ平民を王にしてやる)と呪詛。
1165年8月7日 延暦寺と興福寺が闘争。
1165年8月 第78代・二条天皇(24歳)、病の為退位。翌月崩御。第79代・六条天皇(2歳)即位。摂政は平清盛の娘婿の藤原基実。
1167年2月11日 平清盛、従一位太政大臣となる。
1168年3月20日 第79代・六条天皇(5歳)、譲位し第80代・高倉天皇(8歳)即位。後白河上皇の第7皇子。母は平時信の娘・平滋子。後白河上皇、本格的な院政を開始。
1169年 源義経(11歳)、京都の鞍馬寺に預けられる。
1170年5月25日 藤原秀衡、鎮守府将軍に任命され従五位下を授けられる。
1172年2月10日 平徳子(平清盛の娘)、高倉天皇の中宮となる。
1173年 後白河上皇の遷都御所、法住寺殿に最勝光院建立、権威の象徴となる。
1174年3月3日 源義経(16歳)、鞍馬山を出て平泉に向かう。
1175年 法然(43歳)、比叡山の黒谷で天台及び諸宗を学び、称名念仏に専念する立場を確立し浄土宗を開く。洛東吉水に草庵を結んで布教し、信者の増加に伴って迫害され、一時讃岐に流されたが、後に許されて京に戻り東山で入寂。
1176年 平清盛と後白河上皇の紐帯であった建春門院滋子(35歳)没。両者の間に亀裂が生じ平家一門に対する院近臣の不満が表面化。
1177年5月 鹿ヶ谷事件:藤原成親・西光・俊寛等院近臣による平家打倒の謀議が発覚。多田行綱の密告を受け平清盛は直ちに藤原成親・俊寛を流罪、西光を斬罰に処した。
1177年 源頼朝(31歳)、北条時政の娘、北条政子(19歳頃)と結婚。源頼朝の配流生活は北条時政(38歳)らの監視の下読経・写経をして暮らす。
1179年9月28日 平重盛(42歳)没。平氏一門の中で最も後白河上皇に近い立場にあり平清盛の後継者として期待されていた。
1179年10月3日 平教盛、延暦寺堂衆を討つ。
1179年11月12日 中宮・平徳子、言仁親王(後の安徳天皇)を出産。
1179年11月 治承三年の政変:平清盛、クーデターを敢行し、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉して後白河院政を停止。初の武家政権誕生。
1180年2月 第80代・高倉天皇(20歳)が譲位して第81代・安徳(3歳)天皇が即位し高倉上皇による院政が始まる。平清盛、主要な官職や知行国主を一門で固め、その栄華は頂点に達する。
1180年4月9日 以仁王、平氏追討の令旨を出す。『時の安徳天皇を認めず、今、王位を奪っている者は即刻追討せよ!』と呼掛ける激烈な蜂起宣言は以仁王令旨と呼ばれ各地の武士達に伝えられ大きな波紋を生じた。
1180年4月27日 蛭が小島に移った源頼朝にも源頼朝の叔父・源行家によって以仁王が発した令旨が届く。
1180年5月10日 以仁王の陰謀が発覚。以仁王・源頼政(77歳)、準備不足のままやむなく挙兵。
1180年5月26日 宇治川の合戦:以仁王(後白河上皇の第二皇子)・源頼政ら挙兵し、南都へ逃れる途上、平重盛・維盛らに追撃され宇治で敗死。
       治承・寿永の内乱:以後、6年の源平合戦が続く。
1180年6月2日 平清盛、福原遷都を実行。安徳天皇・高倉上皇・後白河院を三種の神器と共に福原へ向かわせる。
1180年6月19日 源頼朝、三善康信の使者から『以仁王令旨を受け取った諸国の源氏が追討される』と云う情報が入る。源頼朝は特に危険、陸奥に逃げるべきだと進言される。平清盛はあくまでも源頼政の残党狩りを指示していただけであったが、三善康信はこの動向を諸国の源氏の討伐と誤解。
1180年8月17日 源頼朝、伊豆国で挙兵し、伊豆・西相模の武士達、妻政子の父である伊豆の在庁官人だった北条時政・北条宗時・北条義時他数十人と共に、伊豆の国の目代である平家一族の山本兼隆を討ち国府の実権を掌握。
1180年8月23日 石橋山の合戦:3百騎程の源頼朝、熱海・伊豆山を通過して東進する途中、石橋山で平家方の相模の武士、大庭景親3千余騎の大軍に敗れる。
1180年8月28日 源頼朝、相模国真鶴より安房国へ逃れる。
1180年9月5日 平清盛の上奏により朝廷が源頼朝追討の宣旨を出す。
1180年9月7日 源義仲(27歳)、信濃国で挙兵し平家側の笠原氏を破る。
1180年9月10日 甲斐源氏の武田信義ら甲斐国で挙兵。
1180年9月19日 上総広常、2万騎の大軍を率いて武蔵国と下総国の国境辺りの隅田川近辺まで進んでいた源頼朝の下に参陣。上総広常は源頼朝に出会う事となったが、2万騎も引き連れてきたにも係わらず、歓迎されるどころか参陣が遅れたとして源頼朝に叱責される。上総広常は源頼朝の器量に感じ入り忠誠を誓う。
1180年9月29日 平清盛、源頼朝が兵を挙げた知らせを聞き孫の平維盛(これもり:22歳)を総大将に軍を編成し関東へ向け出発。
1180年10月7日 源頼朝、約4万騎を引き連れ鎌倉に入る。祖先である源頼義が勧請した八幡宮を海岸近くから山よりの鶴岡に移す。鶴岡八幡宮は東国武士の守護神。
1180年10月11日 北条政子、鎌倉入。
1180年10月16日 源頼朝、平家軍を迎え撃つ為鎌倉を出発し駿河へ向かう。
1180年10月18日 源頼朝、伊豆・駿河国境の黄瀬川に到着。甲斐源氏の武田信義(53歳)が2万の軍勢を率いて挨拶にやって来たと云うが、あたかも甲斐源氏が源頼朝の麾下に入った様に「吾妻鏡」には書かれているが、富士川の合戦は平家と武田信義との戦いで、源頼朝軍は援軍として後方に控えていただけの模様。
1180年10月20日 富士川の対陣:武田信義・源頼朝と平維盛ら平家軍と富士川を隔てて対陣。この夜、平家軍は潰走する。
1180年10月21日 源頼朝、源義経(22歳)と対面。
1180年11月17日 源頼朝、侍所を設置し和田義盛をその別当とする。
1180年11月26日 福原京未完のまま安徳天皇・後白河法皇・高倉上皇、福原より京都へ帰る。還都。
1180年12月12日 鎌倉に源頼朝の新居完成(大倉御所)。現在の鎌倉市大蔵付近。鎌倉殿誕生。源頼朝、武将たちに本領安堵・新恩給与(敵から没収した所領を分配)が行なわれ、所領を媒介として源頼朝と主従関係になった武士達は「御家人」となり鎌倉幕府の基礎が出来上がる。
1180年12月28日 南都焼き討ち:平重衡、反平家勢力である興福寺等、南都を攻撃し東大寺・興福寺を焼く。大仏殿が焼け大仏の頭と手が壊れる。南都焼き討ちは平家の暴挙とし寺院勢力は完全に平家を見放し京都の公家も敵対。
1180年12月 藤原秀衡、源頼朝に背くとの風説が流布。
1181年1月 高倉上皇没、後白河院による院政が再開。後白河院は平重衡に源頼朝追討を命じる。
1181年2月4日 平清盛(64歳)没。平宗盛(35歳)が継承。平清盛、『源頼朝の首を墓前にかけよ』と遺言。
1181年3月10日 墨俣川の合戦:平重衡ら尾張国墨俣川で源行家・源義円らを撃破。平重衡は進軍を停止し帰京。養和の大飢饉による食糧不足で鎌倉に進軍できず。
1181年3月 藤原秀衡、2万の兵を率い白河の関を越え源頼朝を討つとの情報が流れる。
1181年6月 源義仲、平家側の越後国の豪族城長茂を破り越後国府に入り実権を握る。
1181年8月1日 源頼朝、平家との和睦を密かに後白河法皇に申し入れるが平宗盛は拒絶。
1181年8月 藤原秀衡、陸奥守に任命される。平宗盛の発案の模様。関東の挟み撃ちを企画したものと考えられる。後白河院、藤原秀衡に源頼朝追討の院宣を出す。
1181年 養和の大飢饉:~1184年。西日本に起きた干ばつによる大飢饉。鴨長明は『道端で飢え死にした者の類は数も分らない。これらの死骸を取り片付ける事もできないので、臭い匂い、この世の全てに満ち満ちている。腐って変わり果て行く形と有様は目も当てられない事が多い。言わんや、鴨川の河原等では、馬や車が行き違う道さえない』
1182年8月 源頼朝、嫡男・源頼家誕生。
1183年3月 源頼朝と源義仲が対立。源頼朝は源義仲を追討する為に10万余騎の軍勢で信濃に出兵。源義仲は叛意のない事を証明する為、嫡男の源義重(11歳)を源頼朝に人質として送る。
1183年4月 平維盛(これもり)を大将として源義仲討伐軍約10万が北陸に向け進軍。
1183年5月11日 砺波山の戦い:源義仲、都から進攻してきた平維盛を総大将とする平家の軍勢と越中国倶利伽羅峠で激突。平家を大破する。
1183年7月24日 夜半頃、後白河法皇は、按察大納言・源資賢(すけかた)の子息・資時のみを供として、密かに御所を出られて、鞍馬に行かれ比叡山へと向かう。
1183年7月25日 平宗盛、安徳天皇・建礼門院を奉じ、平家一門と共に西国へ向かう。この時、三種の神器(八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ))を持ち去る。天皇不在の為、後白河法皇、高倉上皇の四宮・尊成(たかひら)を践祚を企画。
1183年7月28日 源義仲・行家が入洛する。後白河法皇は平家追討を命じる。
1183年7月30日 院御所での評定があり源氏の武将達の恩賞が決められた。勲功第1は、未だ上洛さえしていない源頼朝、第2が源義仲、第3が源行家と云う順位。
1183年8月6日 朝廷は平家2百人余りに対して官職を解く「解官」が行われる。また安徳天皇の帰京と三種の神器(八咫鏡・草薙剣・八尺瓊勾玉)の返還交渉を平時忠の下に書状を遣わす。
1183年8月10日 平時忠(平清盛の義弟)、三種の神器返還を拒否。
1183年8月14日 源義仲、以仁王の遺児・北陸宮を、この宮こそ「義兵の勲功」ありとして次期天皇に推す。
1183年8月18日 後白河法皇、平家による安徳天皇帰京の拒否によって、僅か4歳の尊成(高倉上皇の第4皇子)を皇位継承者とする。
1183年8月20日 後白河法皇、高倉上皇の四宮・尊成(たかひら)を践祚。第82代・後鳥羽天皇(4歳)即位。三種の神器無しの儀式。且つ、安徳天皇は譲位しておらず天皇が2人。
1183年8月 平家一門、都落ち後、福原で1日過した後西国へ移動、8月末頃太宰府に到着。地元豪族による平家追討を知り、9月に讃岐の屋島へ移動。
1183年9月20日 源義仲、平家追討の為西下。
1183年10月1日 水島の合戦:源義仲、平家追討の為平家本拠地の屋島に向け進軍、途中の備中国水島で平家軍と衝突。平知盛ら備中国水島で源義仲を破る。源義仲、敗北後京へ戻る。
1183年10月9日 源頼朝、流人の立場を解かれる。
1183年10月14日 寿永二年十月宣旨:朝廷が宣旨を下し東海・東山両道諸国の支配権を源頼朝に委任。源頼朝の東国支配は確固たる体制となる。源頼朝、従五位下の位に復帰。信濃を本拠地とする源義仲は激怒。
1183年11月19日 法住寺合戦:源義仲、後白河法皇の御所法住寺殿を襲撃し法王を幽閉してクーデターを敢行。
1183年11月 源義仲、源頼朝追討の院宣を藤原秀衡に伝える。
1183年12月10日 源義仲の申請により朝廷は源頼朝追討命令を発出。
1183年12月30日 源頼朝、挙兵以来大功のある上総介広常を粛清。上総介広常は源頼朝の前でも下馬せず、この粛清によって源頼朝は有力豪族の上に君臨する事を示した。梶原景時は双六に興じていた最中に隙をついて上総介広常を斬殺。上総介広常の誅殺は、源頼朝の身内的御家人(北条時政・比企能員等)台頭と並行して行われ結果として源頼朝を支える基盤が上総常胤・千葉常胤ら房総平氏から北条時政・比企能員に移っていく過程で起こった。
1183年12月 源義経、源義仲追討の為上洛を開始。続いて源範頼を援軍として派遣。
1184年1月11日 源義仲、征夷大将軍に任命される。しかし、強引なクーデターを実行した事で離反者を増やす結果となる。
1184年1月20日 宇治川の合戦:源範頼・義経、勢多・宇治で源義仲を破る。源義仲、近江国粟津で敗死。これを契機として甲斐源氏らは源頼朝に従属していく。
1184年1月26日 後白河法皇、平家追討の宣旨を源頼朝に下す。
1184年2月6日 後白河法皇、平宗盛に和睦を促す書状を送る。
1184年2月7日 一の谷の戦い:源範頼・義経、一ノ谷で平家を破る。源義経、鵯越の逆落とし。平家、屋島へと敗走。
1184年3月7日 朝廷は源頼朝に対して平家没官領を与える。この平家没官領が鎌倉殿の直轄領荘園群である「関東御領」の基礎となる。
1184年4月26日 源頼朝、源義仲の嫡男・源義高を謀叛の疑いで入間河原(埼玉県狭山市)に殺す。源頼朝の娘、大姫大いに悲しむ。
1184年8月6日 源義経、源頼朝の推挙なく後白河法皇から左衛門少尉・検非違使の任を受ける。
1184年8月18日 源頼朝、源義経が検非違使の任を望んだのではと疑い、これに対し源義経は鎌倉に書状を源頼朝に送る。『自分が望んだ訳ではなく後白河院に当然の褒美と云われ断れなかった』。源頼朝、源義経を平家追討軍から外す。
1184年9月1日 源範頼が率いる平家追討軍、京を出発し九州へ向かう。
1185年1月8日 源義経、後白河法皇に平家追討の許可を願い出て許可を得る。
1185年1月10日 源義経、京都を出発。一ヶ月程摂津国渡辺津(大阪市中心部)に滞在し畿内水軍の組織化を進める。
1185年2月17日 源義経、渡辺津を前日の暴風雨の中、出航し阿波国勝浦(徳島市)に上陸。
1185年2月19日 屋島の戦い:源義経、讃岐国屋島で平家を破り敗走させる。平宗盛、安徳天皇を従え海上に逃れる。源義経の軍勢にこの勝利で熊野水軍・河野水軍が加わる。下野国の武士、那須与一(20歳)、「扇の的」を射貫く。
1185年2月21日 平家軍、屋島を捨てて瀬戸内海を西に進み彦島へ。
1185年2月 源範頼、豊後国に上陸後、北上し肥前国の平家軍を討伐、太宰府に入り北部九州を平定。彦島の平家軍孤立。
1185年3月14日 源頼朝、九州にいる源範頼に使者を送り、①安徳天皇を保護し京に送る、②三種の神器を取り戻す、事を指示。
1185年3月22日 源義経、周防を出陣。
1185年3月23日 平家軍、彦島を出陣。
1185年3月24日 壇ノ浦の戦い:早朝に戦いが始まり夕刻に勝敗決する。源義経、長門国壇ノ浦で平家を破る。安徳天皇・平時子らが没し平経盛・教盛・知盛らが戦死。三種の神器の鏡・剣・勾玉も海に沈むが鏡・勾玉は回収されるが剣は不明に終わる。安徳天皇の母・建礼門院徳子、入水するが熊手で引揚げられる。治承・寿永の内乱が終わる。
1185年4月11日 源頼朝、平家滅亡の報告を受ける。
1185年4月15日 源頼朝、自身の許可なく朝廷から任官された東国の武士24名に対して東国への帰還を禁止し京に留め置く。源義経は壇ノ浦の戦いの後、後白河法皇から院御厩司(いんみまやつかさ)に任命されていた。
1185年4月21日 源義経と共に戦ってきた目付役の梶原景時が源頼朝に源義経の独断専行振りを報告。
1185年4月27日 源頼朝、従二位に叙される。
1185年5月15日 源義経、平宗盛親子ら捕虜を連れて鎌倉凱旋も源頼朝、源義経の鎌倉入を許さず。腰越付近に留め置かれる。腰越状『私は鎌倉殿の代官の一人に選ばれ、天皇の使いとなって戦い、平家に倒された父(義朝)の恥をそそぎました。鎌倉殿からは、褒美が頂けるに違いないと思っておりましたのに、逆にあらぬ告げ口に依ってお叱りを受け、血が滲むほどの悔し涙をこの腰越の地で流しています』
1185年6月上旬 源義経、鎌倉入りを許されず平宗盛を京都に送還。その際、源義経は『頼朝公に不満の者は俺に付いてこい』と云い放ったとされる。
1185年6月21日 源義経、近江国篠原で平宗盛親子を処刑。
1185年9月26日 源範頼、九州での戦後処理を終え京都に戻る。10月20日に鎌倉へ戻る。
1185年10月18日 源義経の奉請(10月13日)で源頼朝追補の宣旨が下る。
1185年10月22日 源頼朝、源頼朝追討の院宣が下されたとの報告を聞く。10月25日、源義経討伐軍を京へ向かわせる。
1185年11月1日 源頼朝、源義経に対抗する為軍を率いて駿河国黄瀬川に着陣。黄瀬川は以前、源頼朝・義経が涙の対面を果たした場所。
1185年11月3日 源義経・源行家ら僅か2百騎程で九州に向かう。源頼朝が大軍を率いて上洛の情報に畿内・西国の武士達は源義経を見放す。源義経、京都で迎え撃つ事を断念。
1185年11月6日 源義経・行家ら摂津国大物浦(だいもつうら)で遭難。散り散りとなって逃走。
1185年11月12日 後白河法皇、動揺し慌てて源義経・行家追補の院宣を発給、源頼朝の怒りは解けず。
1185年11月25日 北条時政(政子の父)が約千騎の兵を率いて入京。
1185年11月29日 文治勅許:源義経・行家追補の宣旨が下る。11月25日に入京した北条時政の強硬な申入れにより源義経・行家捜索・討伐の為の諸権限を源頼朝に授与される。
1185年11月下旬 源頼朝、守護・地頭の設置と兵糧米徴収を奉請、勅許される。
1186年3月 源頼朝、源義経の愛妾・静を鎌倉に監禁。
1186年4月8日 静御前、源頼朝に命じられ舞を披露。『吉野山 嶺の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ悲しき』(吉野山の峰に白雪を踏み分けて山の中に消えていった貴方(源義経)が恋しいのです)。歌を聴いた源頼朝は激怒するが北条政子がなだめたという。
1186年5月12日 北条時定、源行家を討つ。
1186年7月29日 静御前、男児出産するも源頼朝の家臣が由比ヶ浜に捨てるよう命じられる。この1ヶ月半程後、静御前は京に帰されるがその後の消息不明。
1187年2月10日 源義経、山伏姿で妻子を連れて伊勢・美濃を経て陸奥国に逃れる。
1187年4月 源頼朝、朝廷に申請して使者を奥州に派遣させ東大寺大仏のメッキ用砂金3万両を出す様藤原秀衡に要求。源頼朝、源義経が藤原秀衡の下にいるらしい事を把握、藤原秀衡を挑発。藤原秀衡、やんわりと断る。
1187年9月 源頼朝、藤原秀衡・源義経ら反逆の意図を朝廷に上申。
1187年10月29日 藤原秀衡(66歳)没。藤原秀衡は源義経を大将軍として、その指示に従う様藤原泰衡らに遺言した。
1189年2月9日 源頼朝、奥州武力討伐に方針転換、南九州に至る全国の地頭に7月10日以前に鎌倉に馳せ参じる様命じる。
1189年4月30日 衣川の戦い:藤原泰衡、源義経(31歳)を陸奥国平泉の衣川館に襲い自害させる。源義経、持仏堂に入り妻と子を殺し自害。弁慶の立ち往生。
1189年6月13日 源義経の頸が鎌倉の腰越浦に送られる。
1189年7月19日 奥州征伐:源頼朝、藤原泰衡追討の為鎌倉を出発。源頼朝、『藤原泰衡は源義経を討ったとは云え、これまで源義経をかくまったこと事態が重大な罪』と糾弾。平泉軍は、もはや俘軍性を失い武士化も未熟で総体として戦争にならなかった。
1189年8月7日 源頼朝の軍勢が伊達郡国見駅(福島県伊達郡国見町)に到着。
1189年8月8日 ~10日。阿津賀志山(福島県国見町辺り)で源頼朝軍勢と奥州軍勢がぶつかり源頼朝軍勢突破。奥州軍勢の大将・藤原国衡が敗走、和田義盛に討たれる。この戦いにより奥州合戦の大勢は決した。
1189年8月12日 源頼朝、多賀の国府に到着。
1189年8月22日 源頼朝、平泉に入る。焼け残った蔵には沢山の財宝が満ち溢れていたと云う。
1189年8月25日 藤原基成、源頼朝に捕えられる。
1189年8月 阿津賀志山で平泉軍大敗、藤原国衡討死。鎌倉軍居館に火を放って北に逃れる藤原泰衡を追う。藤原泰衡、源頼朝に使者を派遣し助命を乞う。
1189年9月3日 藤原泰衡(35歳)、贄柵(にえのさく:秋田県大館市)で家臣に裏切られ惨殺。戦いが終わった後に後白河法皇から藤原泰衡追討命令の院宣が届く。
1189年9月6日 藤原泰衡の郎従である河田次郎により紫波郡陣岡(紫波郡紫波町)に陣取る源頼朝の下に藤原泰衡の頸が届けられる。河田次郎は主人の首を取ったとして斬首。
1189年10月24日 源頼朝、奥州征伐を終えて鎌倉に凱旋。
1189年12月22日 藤原秀衡の郎党である大河謙任が乱を起こす。一時、源義経と称する者が出羽国海部荘(山形県遊佐地方)に出没し、源義仲の子息と称する者が同国山北郡に兵を挙げ、藤原秀衡の子息らも同心して鎌倉に攻め様としているとの説が流布。大河謙任は翌年3月上旬、出羽の山北から山を越えて栗原郡花山に抜けたが地元人に怪しまれ斧で討ち殺されてしまう。
1190年10月3日 源頼朝、上洛の為大軍を率いて鎌倉を出発。先陣は畠山重忠、後陣は千葉常胤。
1190年11月7日 源頼朝入洛。後白河法皇を始め朝廷関係者から一般市民に至るまで多くの見物人が賀茂川の河原に押し掛けた。
1190年11月9日 源頼朝、院と内裏に参上。後白河法皇とは他の同席者なく治世の沙汰について等も話が及んだ。その後、後鳥羽天皇に謁見、続いて藤原兼実とも対面。
1190年12月1日 源頼朝、朝廷から権大納言・右近衛大将に任官の感謝を表わす儀式を催し。
1190年12月3日 源頼朝、任官された役職を辞任。
1190年12月14日 源頼朝、鎌倉に向け京を出発。12月29日、鎌倉到着。
1191年4月26日 延暦寺衆徒、神輿を奉じで強訴。
1192年3月13日 後白河法皇(66歳)没。後鳥羽天皇(13歳)の親政が始まる。
1192年7月12日 源頼朝、後鳥羽天皇から初代・征夷大将軍に任ぜられる。
1192年8月9日 源実朝、源頼朝・政子夫妻の次男として誕生。幼名「千幡」。
1192年 大仏殿再建。1180年、平重衡によって焼き討ちにあった大仏再建。二代目大仏。
1193年5月15日 源頼朝・源頼家、富士野で巻狩を行なう。翌日、源頼家、鹿を射る。~6月7日迄。
1193年5月28日 曾我兄弟の仇討ち:源頼朝、富士野の巻狩の場で曽我十郎祐成・五郎時到が実父の仇である有力御家人・工藤祐経を刺殺。源頼朝の身にも危険が迫った模様。支配体制に不満を持つ不穏分子が事件に絡んでいた模様。
1193年8月2日 源範頼、源頼朝に身の証しを立てる起請文を送るが、源頼朝、無視。
1193年8月17日 源頼朝、源範頼を伊豆国修善寺で殺す。1193年5月28日曾我兄弟の仇討ち以降、不穏分子を粛清。
1195年2月14日 源頼朝、多数の御家人を従え京へ向かい鎌倉を出発。北条政子、嫡子・源頼家、娘の大姫が同行。
1195年3月4日 源頼朝入洛。上洛の目的は、焼失していた東大寺大仏殿の再建供養に列席と娘・大姫を後鳥羽天皇の后とする入内工作。
1195年6月3日 源頼家、源頼朝と共に参内し後鳥羽天皇に謁見。鎌倉幕府の後継者を貴族に披露。
1195年6月25日 源頼朝、鎌倉に向け京を発つ。
1196年1月 ~1199年1月まで「吾妻鏡」では記録が抜けている。「吾妻鏡」は後年、北条家が作製したもの。北条家に都合の悪い源頼朝の死が隠蔽されているのか?
1197年7月14日 源頼朝の娘、大姫(20歳)病死。
1198年1月 第82代・後鳥羽天皇(19歳)、第83代・土御門天皇(4歳)に譲位して上皇となる。
1198年9月 後鳥羽上皇、初めての熊野詣。
1198年12月27日 源頼朝、旧相模川橋の落成式に出席した帰り道落馬。
1199年1月13日 源頼朝(53歳)没。前年の相模川で催された橋供養の際に橋近くで落馬したのが原因と云う説があるが源頼朝の最後については詳しくは知られていない。吾妻鏡は1196年から1199年までの3年以上の記事が欠いており、この間、何かしら重大な事実が隠されている事が考えられる。

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