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ザ・日本人   信長 秀吉 家康 そしてスペインの狙い

1569年1月5日 本圀寺の変:本圀寺に仮住まいしていた将軍・足利義昭が三好三人衆や斎藤竜興により襲撃される。家臣達により足利義昭は守られる。その後、織田信長、二条城建設に着手。
1569年1月14日 織田信長、殿中御掟(でんちゅうおんおきて)を出し足利義昭に承認させる。内容は将軍やその周辺の人たちの職務について。
1569年3月30日 ルイス・フロイス、京都で始めて織田信長と対面。
1569年4月8日 織田信長、宣教師ルイス・フロイスに京都居住を許す。
1569年4月14日 将軍・足利義昭の新居である二条城が完成。
1569年5月17日 徳川家康、三河と遠江の二国を制覇。
1569年6月 北条氏政、武田信玄を牽制する為、交戦状態であった上杉謙信と和睦し越相同盟を結ぶ。
1569年7月 武田信玄、上杉謙信と甲越同盟を結ぶ。
1569年9月 武田信玄、決戦を覚悟して上野国方面から北条氏の領土に侵攻。
1569年10月1日 武田信玄、小田原攻めで小田原城を包囲。
1569年10月6日 三増峠の戦い:10月4日に突如退却を始めた武田信玄。これを知った北条氏政は同日中に武田信玄に書状を送り『翌日には追撃して武蔵・相模の間で信玄に決戦を挑む覚悟だ!』と伝える北条氏政と武田信玄の戦い。北条氏政の大敗。
1569年10月 織田信長、伊勢を支配。
1570年1月23日 足利義昭、織田信長に無断で武田信玄・上杉謙信らに支援を求める御内書を送った為、御中御掟に五条を追加。織田信長、将軍・足利義昭の行動を更に制限。且つ、織田信長、西国の主な大名に上洛を促す書状を送る。
1570年3月1日 織田信長、上洛し第106代・正親町天皇に謁見。その後足利義昭に挨拶する式典を行なう。只、朝倉義景が織田信長を見下し不参加。
1570年4月20日 織田信長・徳川家康、朝倉義景討伐の為出陣。織田信長、本心は敦賀を狙っていた。
1570年4月25日 織田信長、越前に入り朝倉氏の筒山・金山城を攻め落とす。
1570年4月26日 織田信長・徳川家康、金ヶ崎城を落し一乗谷を目指す。先頭は徳川家康。
1570年4月28日 織田信長、浅井長政の裏切りにより僅かな護衛で金ヶ崎を脱出。
1570年4月30日 織田信長、帰京。撤退戦を戦った徳川家康・明智光秀・木下藤吉郎、6日後に帰京。
1570年6月28日 姉川の合戦:織田信長、浅井長政・朝倉義景を近江姉川で破る。
1570年8月15日 東大寺大仏殿再建の為勧進始まる。
1570年9月12日 三好3人衆(三好政康・三好長逸・岩成友通)が阿波から摂津に進出。織田信長、野田砦・福島砦を攻撃し圧倒する。
1570年9月13日 織田軍、石山本願寺から突然攻撃を受ける。織田軍対本願寺、10年戦争始まる。織田信長、一向宗寺院に高額の税金を要求、且つ、中国地方侵攻の拠点にと考え本願寺に移動を求めたのが原因。
1570年9月14日 本願寺方、織田軍の本陣である天満が森に向け進軍、交戦。
1570年9月19日 朝倉・浅井軍3万が本願寺の挙兵に呼応し近江国に侵攻。京へ迫る。織田信長、近江へ向かう。
1570年9月24日 織田軍の接近を知った朝倉・浅井勢は比叡山延暦寺に逃げ込む。延暦寺は織田信長の要請を無視し朝倉・浅井勢をかくまう。2ヶ月間睨合い。
1570年9月 徳川家康(29歳)、拠点を岡崎城から浜松城に移す。
1570年10月 徳川家康、遠江を狙い始めた武田信玄に対抗する為上杉謙信と同盟を結ぶ。
1570年11月 伊勢長島一向一揆:本願寺の挙兵に呼応した長島一向宗門徒が尾張国の小木江城を襲い、城主の織田信長の弟・織田信興が自害。
      織田信長、皇族(正親町天皇の養子)の仲介で本願寺の顕如と和睦。
      織田信長、松永久秀の仲介で三好三人衆と和睦。
1570年12月14日 将軍・足利義昭と正親町天皇の命令で織田信長、朝倉・浅井が和睦、両軍比叡山から帰国。
1571年5月12日 織田信長、伊勢長島の一向宗門徒を攻撃。その際、織田信長の武将・氏家ト全が戦死。
1571年6月14日 毛利元就(75歳)没。
1571年8月18日 織田信長、浅井長政を近江小谷城に攻める。
1571年9月12日 織田信長、朝倉義景に味方する比叡山延暦寺を攻撃し堂舎を焼滅。3~4千の遺体が山中に転がる。
1571年10月3日 北条氏康没。
1571年 スペイン艦隊、マニラ占領。以後、スペインはフィリピンを拠点として東アジアで活動。
1572年1月 本願寺の顕如、武田信玄に反信長で出陣するよう要請。顕如と武田信玄は義兄弟に当たり親交あり。
1572年9月 織田信長、十七条の失政を上げ足利義昭を責める。
1572年10月3日 武田信玄、西上作戦に向け出陣。遠江へ向け進軍。
1572年10月中旬 一言坂の戦い:徳川家康は3千の兵を従い出陣。天竜川を渡った徳川軍は武田軍先鋒隊と一言坂で激突。徳川軍退却、武田軍は追撃。
1572年10月21日 武田信玄、高天神城を攻める。
1572年12月3日 北近江で織田軍と対峙していた朝倉義景、越前へ撤兵。武田信玄、撤兵を非難。
1572年12月22日 武田信玄(52歳)、徳川家康(31歳)を遠江三方原に攻める。武田信玄が行なったこの三方原の戦法は、過去の「三増峠の戦い」の戦法。
1573年2月13日 将軍・足利義昭(37歳)、織田信長討伐へ挙兵。数千人が二条城に籠城。足利義昭、三好義嗣と和解、松永久秀が寝返り包囲網に参加。
1573年2月 武田信玄、東三河に侵攻。徳川方の野田城(愛知県新城市)を落とす。
1573年3月29日 織田信長(40歳)、急遽上洛し足利義昭に和睦を申入れも拒否される。一方、足利義昭の側近である細川藤孝(40歳)が織田信長側に付く。
1573年4月4日 織田信長、将軍・足利義昭の居城二条城を囲む。足利義昭脅迫の為上京に放火、二条城付近まで延焼。
1573年4月7日 織田信長、勅により将軍・足利義昭と和睦。織田信長、足利義昭への使者として側近の裏切りを知らしめる為細川藤孝を派遣。
1573年4月12日 武田信玄(53歳)没。
1573年7月3日 将軍・足利義昭、京都を出て宇治川の中州にある槙島城に移り織田信長に対して再挙兵。
1573年7月18日 槙島城の戦い:足利義昭、兵3500人で槙島城に籠城、織田軍、約7万人。織田軍、宇治川を渡り中州に上陸、城に火を放つ。
1573年7月19日 足利義昭、城を明け渡し戦いが終結。織田信長、足利義昭の息子を人質に取り京都から追放。足利義昭、三好氏のいる若江城へ。
1573年8月8日 織田信長(40歳)、3万の軍で浅井長政の小谷城を攻撃。浅井長政、5千の兵で籠城。朝倉義景、援軍2万を派兵。
1573年8月13日 刀根坂の戦い:大嶽砦の陥落を知った朝倉義景、撤退を決断。朝倉軍が撤退を開始。織田信長、本隊を率い自ら先頭指揮を行って朝倉軍を追撃。
1573年8月18日 織田信長、一乗谷城下町を焼き討ち。朝倉義景、内陸の賢松寺へ逃亡。
1573年8月20日 朝倉義景(41歳)、重臣の裏切りにより自殺。
1573年8月26日 織田信長、小谷城へ引返し浅井総攻撃を命令。
1573年9月1日 浅井長政、嫡男・万福丸を脱出させ、市と3姉妹は織田側に引渡し、浅井長政、自害。市・3姉妹は伊勢国の織田信長の弟・織田信包の元で保護。この時、茶々、5歳、初、4歳、江、1歳、万福丸、10歳。後、万福丸は2ヶ月後、関ヶ原で磔、茶々は豊臣秀吉の側室、初は京極高次と結婚、江は豊臣秀吉の指示で佐治家に嫁ぎ後豊臣秀勝に嫁ぎ徳川秀忠と結婚。
1573年9月10日 徳川家康、三河長篠城を攻め落とす。
1573年9月24日 織田信長、2度目の伊勢長島一向一揆攻めを開始。
1574年1月1日 織田信長、正月の祝宴に薄濃(はくだみ:漆塗りに金装飾を施した物)にされた浅井長政、浅井久政、朝倉義景のドクロを披露。
1574年3月19日 羽柴秀吉、近江長浜城に入り百姓の条規を定める。
1574年3月28日 織田信長、正倉院の蘭奢待を切取り正親町天皇に献上。蘭奢待は現存し、過去に切取ったのは、足利義政・織田信長・明治天皇の3人。
1574年4月2日 本願寺・顕如、再び大阪で織田信長に対し挙兵。
1574年6月 織田信長、3度目の長嶋一向一揆攻め開始。
1574年9月29日 織田信長、長島一向宗門徒が降伏するも退去する一向一揆軍を鉄砲隊が攻撃、残る一向一揆衆を撫で斬り。
1575年3月14日 織田信長、徳政令を出し門跡・公卿の借物を破棄。
1575年4月21日 織田信長、石山本願寺を攻める。
1575年5月1日 武田勝頼(30歳)、兵15,000人で長篠城を包囲。長篠城は、1573年頃から徳川軍と武田軍が奪い合っていた。長篠城を守るのは奥平貞昌ら兵500人。
1575年5月13日 徳川家康(34歳)の援軍要請を受けた織田信長(42歳)信忠父子が3万人の兵で岐阜を出発し長篠へ。
1575年5月15日夜 長篠城から鳥居強右衛門(すねえもん)が使者として岡崎城に到着。織田信長と徳川家康に面会し援軍の確約を得る。
1575年5月16日夜 鳥居強右衛門、長篠城に戻る途中で武田軍に捕まる。『信長は助けに来る!』と大声で叫び鳥居強右衛門は刺殺。
1575年5月18日 織田軍・徳川軍、3万8千人が設楽原に陣を構える。20日までに長さ2kmの三重の馬防柵を作る。設楽原と長篠城の距離は約3km。
1575年5月20日深夜 徳川家康の家臣・酒井忠次が4千の別動隊を率いて鳶ケ巣山(とびがすやま)砦を奇襲し、続いて長篠城を囲む武田軍を討伐。設楽原に陣取る武田軍は織田軍・徳川軍に挟まれる形になる。
         織田軍・徳川軍対武田軍が設楽原で対峙。武田軍、長篠城攻めの兵3千人を残し1万2千人。
1575年5月21日 長篠・設楽原の戦い:織田信長と徳川家康、武田勝頼を三河長篠で破る。
      06時頃 武田軍が織田軍・徳川軍に攻撃を仕掛け戦闘開始。武田軍、三重の馬防柵の内第一の柵を突破。
      12時頃 武田軍の騎馬隊等侵攻するも第二の場防柵は突破できず織田軍・徳川軍の鉄砲隊の攻撃に遭い重臣等多数が戦死、本陣まで退却。
      14時頃 武田軍総崩れとなり退却。戦死者、武田軍1万人、織田軍・徳川軍6千人。武田勝頼、6月2日に甲府に帰還。
1575年6月 織田信長、明智光秀に丹波国の攻略を命じる。丹波国は古くから朝廷・幕府の領地があり、領主は「反信長」の立場を鮮明にしていた。
1575年8月12日 織田信長、越前一向一揆殲滅の為岐阜を出発。14日に敦賀城に入城。15日、一揆の本拠地である府中に侵攻、2千人程殺戮。越前平定後柴田勝家が越前を治める。
1575年10月28日 織田信長、京都の妙覚寺で千利休の茶会を開く。
1575年10月 本願寺の顕如、2度目の和睦を申入れ織田信長も停戦に応じる。
1575年11月4日 織田信長、従三位権大納言に就任。天下人である事を正親町天皇が認める。織田信長、正親町天皇に1千石を献上、公家達に新たな領地を配分。
1575年11月 織田信長、織田信忠(19歳)に家督を譲り岐阜城を出て佐久間信盛の私邸に入る。
1575年 ポルトガルがルアンダ(現アンゴラ首都)を建設。以後、アフリカ黒人奴隷の重要な輸出港となる。1580年~1820年にかけて100万人の奴隷がアンゴラからブラジル等に輸出される。
1576年1月 織田信長、安土城築城を開始。
1576年2月23日 織田信長、近江安土城に入る。
1576年2月 足利義昭、毛利輝元勢力下の備後国に鞆幕府立上げ、毛利輝元、上杉謙信ら有力大名に頻繁に「御内書」を出し織田信長追討を催促。
1576年4月14日 本願寺の顕如、再挙兵。織田信長、明智光秀を派遣し本願寺を攻撃するも苦戦。
1576年5月7日 毛利輝元、織田信長と手切れを宣言、打倒信長を表明。
       織田信長、本願寺戦の天王寺砦に出陣、本願寺勢力を撃破。本願寺は籠城戦へ。
1576年5月 上杉謙信、反織田信長で挙兵。更に武田勝頼も反信長側に付き第二次信長包囲網構築。
1576年6月6日 織田信長、本願寺門徒を摂津で破り諸砦を築き石山城を囲む。
1576年7月13日 第一次木津川口戦い:毛利輝元、織田信長の水軍を摂津木津川口に破り兵糧を本願寺に納める。村上水軍のほうろく玉。
1576年7月 織田信長、羽柴秀吉に西国計略を命じる。羽柴秀吉、播磨国で有力者の黒田官兵衛(31歳)を味方に付ける。
1576年 スペインのフィリピン総督フランシスコ・デ・サンデがスペイン国王に対して、鉄・生糸等の貿易を確保する為軍隊を派遣し明を征圧する事を主張。スペイン国王は『もし友好政策を改める必要がある時は然るべき措置を命じる。』と返書。
1577年2月22日 織田信長、本願寺の戦力を削ぐ為、雑賀衆の本拠地・紀伊国へ侵攻。
1577年3月15日 雑賀衆、織田信長に反抗しないと約束し降伏。
1577年6月 織田信長、近江安土を楽市とする。
1577年7月8日 上杉謙信、能登平定の為能登守護・畠山氏の七尾城攻略に出陣。
1577年8月8日 織田信長、七尾救援の為柴田勝家を派遣。羽柴秀吉、柴田勝家と意見が合わず戦団から離脱し謹慎処分。
1577年9月15日 上杉謙信、七尾城を落城、織田軍の動きを察知し南下。
1577年9月23日 手取川の戦い:織田軍、七尾城の落城を知り手取川を渡って引返すその背後から上杉軍が攻撃、織田軍、敗走。
1577年10月5日 松永久秀、織田信長の説得に応じず、織田信長、討伐軍を派遣。
1577年10月10日 信貴山城の戦い:松永久秀、織田信長に背いて大和・信貴山城に拠るが攻められて名物茶釜「平蜘蛛」と爆死。
1577年10月23日 羽柴秀吉、織田信長の命により中国地方攻略に出陣。
1578年3月13日 上杉謙信(49歳)没。信長包囲網に衝撃。辞世『四十九年一睡夢 一期栄華一盃酒(49年の人生はまるで夢の様に生涯を掛けた栄光も盃一杯の酒の様なものなのかもしれない)』
1578年6月 羽柴秀吉、三木城攻略開始、別所氏は籠城し抵抗、毛利氏が兵糧を送り支援。
1578年7月3日 毛利氏、羽柴秀吉の配下となった尼子勝久(26歳)の播磨上月(こうづき)城をせめ自殺させる。山中鹿介は捕わる。
1578年7月 尼子氏に仕えた山中鹿介(34歳)、毛利方により惨殺。尼子再興はなくなった。
1578年10月 荒木村重、織田信長に対して謀叛に動く。
1578年11月6日 第二次木津川口の戦い:九鬼嘉隆、毛利水軍を摂津木津川口に破る。織田信長の鋼鉄船。毛利軍、本願寺に兵糧等を届けられず本願寺追い込まれる。
1578年11月12日 高城・耳川の戦い:大友宗麟、島津に奪われた土地の奪還とキリスト教国家の建設を目指し日向に侵攻するも島津義久に大敗、島津氏が九州の覇権を握る。
1579年3月24日 御館の乱:上杉謙信の後を争っていた上杉景勝、上杉景虎を越後鮫尾城に攻め殺す。
1579年5月11日 織田信長、安土城完成。天守閣に入る。
1579年8月9日 明智光秀、丹波黒井城を落とし丹波を4年の歳月をかけ平定。
1579年8月 徳川家康、織田信長の指示で正室・築山殿を殺害。
1579年9月16日 第一次天正伊賀の乱:織田信雄は織田信長に相談もせず独断で8千の兵を率いて伊賀国に3方から侵攻したが、伊賀郷士衆は各地で抗戦し織田信雄軍を伊勢国に敗走させた。伊賀衆の夜襲や松明を用いた撹乱作戦や地形を活かした奇襲等で2~3日で織田信雄軍は多くの兵を失い伊勢へ敗走。
1579年9月 徳川家康、織田信長の指示で嫡男・織田信康(21歳)を切腹。
1579年11月 織田軍、荒木村重の有岡城を落とす。村重の妻を始め親族16人を斬首、家臣とその妻子122人を磔。荒木村重は逃れ、以後、千利休の弟子となる。
1580年1月17日 羽柴秀吉、毛利方の播磨の三木城を攻略し城主・別所長治を殺す。
1580年4月9日 本願寺・顕如、織田信長と和睦し大阪城を息子・教如に譲り紀伊雑賀に移る。以後、本願寺を織田信長に明け渡す。
1580年6月 羽柴秀吉、因幡の諸氏を降参させる。
1580年11月17日 柴田勝家、加賀の一向一揆を攻め、一向一揆衆による加賀国の支配終わる。
1580年 金沢城造営:1546年金沢御堂がこの地に置かれ加賀一向一揆を指導したが1580年に佐久間盛政が加賀北部を支配し金沢城の造営を始めた。
    スペイン、フェリペ2世がポルトガル王位を継承しポルトガルを併合。強大なスペイン帝国となる。
1581年2月28日 織田信長、正親町天皇の前で馬揃えを開催。京では20万人の観衆が集まった。
1581年7月 羽柴秀吉、鳥取城を兵糧攻めで「喝え殺し」で落城。
1581年9月3日 第二次天正伊賀の乱:織田信雄を総大将に5万の兵で伊賀国に侵攻。「信長公記」「多聞院日記」には9月3日に攻撃開始との記述があるが「伊乱記」では9月27日に6か所(伊勢地口から織田信雄・津田信澄、柘植口から丹羽長秀・滝川一益、玉滝口から蒲生氏郷・脇坂安治、笠間口から筒井順慶、初瀬口より浅野長政、多羅尾口から堀秀政・多羅尾弘光が攻撃したと記述されている)同月6日より戦闘が開始された。 伊賀衆は比自山城に3,500人(非戦闘員含め10,000人)、平楽寺(後の伊賀上野城)に1,500人で籠城した。伊賀衆は河原(或いは比自山の裾野)で野営していた蒲生氏郷隊に夜襲を掛け、氏郷隊は寝込みを襲われ敗れた。筒井順慶隊にも夜襲を掛け1,000兵を討ち取られた。これに怒った氏郷は平楽寺を攻撃し、退けられるが滝川一益の援軍を得て陥落させた。続く比自山城は、丹羽長秀らが幾度となく攻略しようとしたが、その都度敗退し落とせなかった。しかし、総攻撃の前日に全ての城兵は柏原城に逃亡。その後、内応者が出た事もあり、織田軍は各地で進撃し同月11日には、ほぼ伊賀国を制圧。村や寺院は焼き払われ、住民は殺害された(平楽寺では僧侶700人余りが斬首、伊賀全体では9万の人口の内非戦闘員含む3万余が殺害された)。
1581年10月25日 羽柴秀吉が毛利方の鳥取城を攻略し城主・吉川経家を自殺させる。
1582年1月28日 天正遣欧少年使節:印管区巡察師バァリニャーノの発案で九州キリシタン大名の大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として4人の少年がローマに派遣。1590年帰国。
1582年2月 織田信長、武田勝頼討伐を命令、総大将は長男・織田信忠(26歳)、明智光秀を援軍に付け、後に自らも出陣。
1582年3月11日 武田勝頼(37歳)長男・武田信勝(16歳)、織田信忠と徳川家康に攻められ岩殿城へ向かう途中、家臣が裏切り40人程の家臣と天目山に逃げ込むが自殺。
1582年4月10日 織田信長、徳川家康(41歳)らに武田氏の遺領を分配し甲府から帰路へ。同月21日、安土城へ凱旋。
1582年5月4日~6日 正親町天皇勅使が安土城の織田信長を訪問、太政大臣・関白・征夷大将軍のどれでも推挙打診も織田信長は返答せず保留。
1582年5月7日 羽柴秀吉、毛利輝元の属城備中高松城を水責めにする。高松城の城主は清水宗治。羽柴秀吉、織田信長に出陣を要請。
       織田信長、長曾我部元親討伐を命令。3男・織田信孝(24歳)を四国方面軍司令官に任命。出陣を6月2日と定める。
1582年5月15日~17日 織田信長、安土城で徳川家康を饗応。接待役は明智光秀。
1582年5月17日 織田信長、羽柴秀吉からの出陣要請に応え高松城へ出陣を決意。羽柴秀吉に自分が到着すまで待機するように指示。明智光秀には織田信長軍の援軍を命じる。
       明智光秀、安土城から居城である近江坂本城へ戻り中国遠征の出陣準備に取り掛かる。
1582年5月21日 徳川家康一行、織田信長から畿内見物を勧められ織田信忠と共に安土城を出発。織田信忠、妙覚寺に宿泊。
1582年5月26日 徳川家康、清水寺で能を鑑賞。
        明智光秀、坂本城を出陣し丹波亀山城入城。
1582年5月27日 明智光秀、愛宕山に登り愛宕大権現の神前で先勝祈願しおみくじを2~3度引いたとされる。
1582年5月28日 徳川家康、大阪で丹羽長秀の接待を受ける。
        明智光秀、愛宕大権現の宿坊で先勝祈願の為、連歌の会を催す。明智光秀『ときは今 あめが下しる 五月哉』
1582年5月29日 徳川家康、大阪から海路で堺へ入る。茶人の今井宗久、堺の代官・松井友閑から接待を受ける。
       織田信長、安土城を出立、本能寺に入る。
1582年6月1日 織田信長、本能寺で茶会を開催。
      夜 明智光秀、13,000人の兵を引き連れ丹波亀山城を出発。明智光秀『京へ入り信長様に軍勢の陣容を検分して頂く』と兵に説明。後、亀山から少し離れた所で重臣らと軍議を開き、主な武将に謀反の覚悟を告げる。
     深夜 沓掛(京方面と西国方面の分岐点)で小休止し腹ごしらえ。
1582年6月2日 本能寺の変:早朝、京都本能寺に滞在していた織田信長を家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃した事件。織田信長(49歳)は寝込みを襲われ包囲されたのを悟ると寺に火を放ち自害して果てた。織田信長の嫡男で織田家当主・織田信忠(26歳)は、宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、やはり館に火を放って自刃。2人の非業の死によって織田政権は崩壊し、中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れて僅か11日後に明智光秀もまた同様の運命を辿った。この事件は戦国乱世が終息に向う契機となったので、戦国時代に於ける最後の下剋上とも云われる。
     未明 明智光秀、目立たぬ様、幟や旗指物は付けず慎重に進軍を命じ、桂川を渡る手前で兵達に足勿草履に変えさせ鉄砲の火縄に着火を命じ京へ入る。
     明智光秀、織田信長を討つと直ぐ織田信忠(26歳)がいる妙覚寺へ進軍。
     織田信忠、本能寺の異変を察知し妙覚寺を出て二条新御所へ移動。二条新御所にいた皇族を御所へ避難。奮戦するも追い詰められ遺体を隠すよう命じ自害。戦いは午前中で終了。
     徳川家康、堺で物見遊山、商人・茶屋四郎次郎から本能寺の変を知る。自害する事も考えるが三河に帰国を決意。
     織田信孝、長曾我部元親を攻める為大阪から渡海の準備中、本能寺の変を知る。軍内部に動揺が広がり逃亡が相次ぎ遠征軍は瓦解。
     夕方 安土城下に本能寺の変が伝わり安土を脱出する商人も多く町は大混乱。
1582年6月3日夜 羽柴秀吉に本能寺の変の一報が届く。
1582年6月4日 羽柴秀吉、備中高松城主・清水宗治を自殺させ毛利氏と講和。
       徳川家康、岡崎城に到着。別行動をしていた穴山梅雪は、途中、落ち武者狩りに殺される。
1582年6月5日 明智光秀、安土城を無血占領。宝物・金銀・茶器等を強奪し部下に分け与え、残りを自身の坂本城に運び込む。織田信長の家族は蒲生賢秀に依って蒲生の居城・日野城で保護されていた。
       羽柴秀吉、沼城まで撤退。その後、畿内へ向け出発。
1582年6月6日 羽柴秀吉、姫路城に入る。
       明智光秀、誠仁親王の使者・吉田兼和から京都の治安維持を任される。
       柴田勝家、越中で上杉方の魚津城を攻撃中、本能寺の変を知る。明智光秀討伐より上杉氏警戒を優先し越前に留まる。
1582年6月9日 滝川一益、本能寺の変を知る。後、同盟関係であった北条氏が織田信長の死を好機と捉え、裏切りにより滝川軍は壊滅する事となる。
       羽柴秀吉、姫路城を出て明石に入る。
       明智光秀、京に入り朝廷工作に着手。その後、羽柴秀吉の接近情報を得て迎撃の為に山崎に陣を敷く。
1582年6月13日 山崎の戦い:羽柴秀吉ら明智光秀(55歳or67歳)を山城山崎で破る。明智光秀、逃げる途中で土民に殺される。
       天正壬午の乱:北条氏直(21歳)、旧武田領の上野国に侵攻、滝川一益(58歳)は本拠地・伊勢長嶋へ敗走。北条氏直、更に北信濃へ進軍、川中島で上杉景勝と対峙。
1582年6月14日 羽柴秀吉、明智一族滅亡の為、坂本城を攻め落城。
1582年6月16日 安土城炎上。翌日、羽柴秀吉・織田信孝、安土入り。
1582年6月27日 清洲会議:羽柴秀吉(46歳)・柴田勝家(61歳)・丹羽長秀(48歳)・池田恒興(47歳)が清洲に集まり織田信忠の子・織田秀信を織田信長の後継とする事を決定。
       徳川家康(40歳)、酒井忠次(56歳)に信濃侵攻を命令。旧武田領を巡って北条氏直・上杉景勝・徳川家康の三つ巴となる。
1582年7月8日 羽柴秀吉、石田三成(23歳)に命じ山城国で検知を実施。
1582年9月 柴田勝家(61歳)、織田信長の妹・市(36歳)と結婚。茶々(14歳)・初(13歳)・江(10歳)と共に北ノ荘に入る。
1582年10月15日 羽柴秀吉、織田信長の葬儀を大徳寺で執り行う。喪主は羽柴秀吉の養子になっていた織田信長の4男・羽柴秀勝。
1582年10月 北条氏直・徳川家康、和睦。真田昌幸の居城・沼田城が北条領となる。以後、真田昌幸は徳川を敵視。
1582年11月1日 岐阜城で織田信長・三男・織田信孝が三法師を利用し織田家の長の様なふるまいを始め謀反を企て。
1582年12月2日 羽柴秀吉、岐阜城を包囲。
1582年12月20日 羽柴秀吉、織田信孝を岐阜城に包囲し降伏させる。織田信孝、三法師を羽柴秀吉に引渡し母・娘を人質に差出し岐阜城に留まる。三法師、安土城に入る。
1582年 加賀一向一揆終結:戦国時代に加賀国で蜂起した一向一揆。1474年から翌年にかけて加賀の守護勢力の一部と一向宗徒は、それぞれの反対勢力打倒の一揆(惣国一揆)を形成した。1488年再び大規模な一向一揆が起き加賀守護・富樫政親を打倒、「百姓の持ちたる国」と云われ門徒領国を成立。1531年には享禄錯乱と云われる内紛があり、のち上杉謙信や織田信長等とも敵対したが1580年の石山本願寺の降伏等があり翌年門徒三百余人が捕らえられて磔刑に処され加賀一向一揆は解体した。
    日本巡察を終えたバァリニャーノがマカオからフィリピン総督宛へ書簡を送る。内容は『日本の国民は非常に勇敢で絶えず軍事訓練を積んでいるので征服は困難』。
1583年1月 滝川一益、伊勢・長嶋城で挙兵。羽柴秀吉、姫路城を出陣。
1583年2月16日 羽柴秀吉、滝川一益を攻める為に伊勢に侵入、亀山城を包囲。秀吉軍・滝川軍、膠着状態に。
1583年3月3日 柴田勝家、羽柴秀吉軍を伊勢で戦う滝川一益と挟み撃ちにしようと北ノ庄城を出陣。
1583年3月17日 越前北庄・柴田勝家、近江に進出し柳ヶ瀬で羽柴秀吉と対陣。
1583年4月16日 岐阜城の織田信孝が挙兵。羽柴秀吉軍は柴田勝家・滝川一益・織田信孝に三方を包囲され危機に。
1583年4月20日 賤ヶ岳の戦い:羽柴秀吉、佐久間盛政を近江賤ヶ岳で破る。加藤清正等軍功あり(賤ヶ岳の七本槍)。柴田勝家、北床に逃げ帰る。
      02時頃 柴田勝家、羽柴秀吉不在をつき賤ケ岳に残る秀吉軍を攻撃。
      16時頃 羽柴秀吉、柴田軍の攻撃を知ると大垣城から賤ケ岳へと引返す。美濃大返し。
      21時頃 賤ケ岳に到着した羽柴秀吉、総攻撃を命令。
1583年4月21日02時頃 秀吉軍と柴田軍が激突。まさか秀吉軍が1日で戻るとは思わなかった柴田軍は大混乱に。柴田勝家と行動を共にしていた前田利家が突如離脱。前田利家の撤退を敗北と勘違いした柴田軍から逃亡兵が続出。
1583年4月22日 羽柴秀吉、越前府中城に前田利家を攻め降伏させる。
1583年4月23日 前田利家を先鋒に秀吉軍が柴田勝家の居城・北ノ庄城を包囲。柴田勝家、本丸で一晩中宴席を開く。
1583年4月24日04時頃 秀吉軍、攻撃開始。
      16時頃 柴田勝家、城に火をかけ猛火の中、市と共に自害。
1583年8月28日 羽柴秀吉、織田信孝を自殺させる。
1583年7月 伊勢・長島城で抵抗を続けていた滝川一益が降伏、領地を羽柴秀吉に譲り蟄居。
1583年8月28日 羽柴秀吉(47歳)、大阪城の築城を開始。
1583年 フィリピン、ディエゴ・ロンキーリョ総督がスペイン国王に対して明の為政者が宣教を妨害しているので征服行動を起こす様進言。
1584年3月6日 尾張清洲の織田信雄、羽柴秀吉と内通している家老3人を殺害し羽柴秀吉と断行する。
1584年3月13日 徳川家康、織田信雄救援の為に出陣し清洲で織田信雄と会談。
       羽柴秀吉方の池田恒興、美濃・大垣城を出陣し織田信雄方の犬山城を占拠。
1584年3月15日 織田信雄・徳川家康、清州城を出陣し犬山城の南の小牧山城に入り本陣とする。
1584年3月21日 羽柴秀吉、3万の兵で大阪を出陣し犬山城へ向かう。
1584年3月24日 沖田畷(おきたなわて)の戦い:島原の領主・有馬晴信が島津氏に寝返り、討伐の為龍造寺隆信が追討したが島津軍に大敗。以後、島津氏が勢力拡大。
1584年3月28日 羽柴秀吉、尾張・楽田(がくでん)に、徳川家康、尾張・長久手にそれぞれ本陣を構え対陣する。
1584年4月6日 池田恒興、三河・岡崎城に奇襲を掛ける。家康軍、追撃し奇襲。
1584年4月9日 長久手の戦い:徳川家康、三河に進出しようとした羽柴秀吉の部隊を尾張長久手で襲い撃破。羽柴秀吉の武将池田恒興・森長可ら戦死。
1584年5月1日 羽柴秀吉、比叡山の再興を許す。
1584年8月8日 羽柴秀吉、大阪城へ移る。
1584年10月 羽柴秀吉、自ら兵を率いて伊勢に侵攻し次々と城を落とし織田信雄の居城・長島城に迫る。
1584年11月15日 織田信雄、徳川家康に相談せず単独で羽柴秀吉と講和。
1584年11月21日 徳川家康、浜松に帰る。程なく羽柴秀吉・徳川家康講和する。
1584年11月 天正遣欧少年使節、スペインの首都マドリードで国王フェリペ2世に謁見。
1584年12月12日 徳川家康、次男の於義伊(おぎい:11歳、後の結城秀康)を羽柴秀吉の養子にする形で大阪に送り講和。
1584年 イエズス会アロンソ・サンチェスがマカオから同会日本準管区長ガスパル・コエリョに宛てた書簡で明人を改宗させる事は不可能なのでメキシコやペルーと同じ様に征服すべきと書いて送る。
1585年2月22日 織田信雄、織田家当主の立場で羽柴秀吉と会見し臣従する姿勢を明確に示す。
1585年4月16日 四国征伐:羽柴秀吉の弟・羽柴秀長、軍勢を率いて四国に渡る。
1585年4月22日 羽柴秀吉、10万の大軍で紀伊攻めにより紀伊平定。
1585年7月11日 羽柴秀吉、近衛家に養子に入り関白となる。
1585年8月2日 第一次上田合戦:真田正幸、上野国・沼田の領地の扱いを巡り徳川家康から北条景勝に君主替え。徳川家康、討伐軍を派遣。徳川軍翻弄される。
1585年8月6日 長宗我部元親、羽柴秀吉に降伏する。豊臣秀吉、長宗我部元親に土佐一国安堵する。四国平定。
1585年8月24日 伊達政宗、陸奥小浜城大内定綱の小手森城を包囲する。
1585年8月26日 羽柴秀吉、自ら出陣し佐々成正を追い詰め越中を平定。
1585年10月7日 羽柴秀吉、関白叙任の御礼に禁中大茶会を催す。茶人・千宋易(64歳)を随伴させる為、正親町天皇から利休と云う名を賜り在家僧として内裏に入る。
1585年10月8日 陸奥の畠山善継が伊達輝宗を捕らえ様として伊達政景らに殺され伊達輝宗も乱兵によって殺される。
1585年11月13日 徳川家康の重臣・石川数正(53歳)が羽柴秀吉側に出奔。徳川家康、機密情報が漏れる恐れがある為急いで軍法を変更。
1585年11月17日 人取り橋の戦い:伊達政宗と佐竹・芦名・石川・白河の連合軍との戦い。鬼庭左月(70余歳)討死。この時、伊達政宗19歳、伊達成実18歳。
1585年11月 天正遣欧少年使節、ローマに到着、ローマ教皇グレゴリオ13世に謁見。キリシタン大名からの書簡をラテン語で読み上げ喝さいを浴びる。
1586年1月18日 天正地震:畿内・北陸・東海等日本列島の中心部を襲った大地震。美濃の大垣城は全壊、羽柴秀吉の徳川家康追討計画は中止。もしこの地震がなければ羽柴秀吉は2ヶ月後に徳川家康に総攻撃を仕掛けていたと云われる。
1586年4月 天正遣欧少年使節、リスボンを出発し帰国の途に就く。
1586年5月4日 荒木村重(52歳)没。一旦、信長信長謀叛後、落城、その後、毛利家に逃亡、後、道薫(どうくん)と号し茶道に専念。茶人として羽柴秀吉に仕えた。利休高弟七人の一人。
1586年5月14日 羽柴秀吉、妹・朝日を夫と離縁させ徳川家康の正室として嫁がせる。徳川家康、羽柴秀吉に臣従せず。
1586年8月15日 毛利輝元ら九州へ出陣。
1586年8月27日 徳川家康、大阪城で羽柴秀吉に謁見。
1586年9月11日 徳川家康、駿府城に移る。
1586年9月24日 羽柴秀吉、徳川家康に大阪城で臣従誓約を求めるも徳川家康拒否。
1586年10月18日 羽柴秀吉、実母である大政所・なか(74歳)を徳川家康に送る。
1586年10月26日 徳川家康、2万の軍勢を引き連れ大阪に到着。羽柴秀長の家に宿泊。そこに羽柴秀吉がお忍びで来て徳川家康をもてなす。
1586年10月27日 徳川家康、大阪城で羽柴秀吉と正式に対面、家臣となる。
1586年11月7日 正町親天皇(70歳)攘夷。孫の和仁親王(16歳)が107代・後陽成天皇即位。羽柴秀吉、養子に入った近衛前久の娘・前子(さきこ)を羽柴秀吉の養子にして天皇と結婚させる。羽柴秀吉、天皇家と婚姻関係となる。
1586年12月4日 徳川家康、駿府城に入城。理由は石川数正の出奔。
1586年12月19日 羽柴秀吉(50歳)、関白と併任で太政大臣就任。豊臣秀吉と名乗る。
1586年12月 島津軍が鶴賀城(大分市)を包囲、豊後に到着した豊臣軍・仙石秀久は援軍を待たず攻撃を仕掛けるが惨敗。
1587年1月 豊臣秀吉、諸大名に九州への出陣を命令。
1587年3月1日 豊臣秀吉、九州出陣の為大阪を出発。
1587年3月28日 豊臣秀吉、小倉城に入る。島津軍主力は薩摩まで撤退し守りを固める。
1587年4月1日 豊臣軍、島津と同盟を結ぶ秋月種実の難攻不落と云われた岩石城(福岡・添田町)を1日で落城、九州の諸大名は戦意喪失。
1587年4月21日 島津義久、羽柴秀長を通じ豊臣秀吉に降伏を申し出る。
1587年5月8日 島津義久、剃髪して薩摩川内泰平寺の豊臣秀吉本営に出頭し豊臣秀吉に謁見。豊臣秀吉、島津氏に薩摩一国を安堵する。
1587年6月15日 豊臣秀吉、対馬の宗義調に命じ朝鮮国王に来朝を促し従わなければ同国に対し出兵すると通知させる。
1587年6月19日 バテレン追放令:豊臣秀吉、『キリスト教を禁止し宣教師を国外に退去させる』と云うものであったが、本音はイエズス会に『余り増長するな!』と云う警告の様なものであった。キリシタンが領内の神社仏閣を破壊、またイエズス会日本準管区長コエリョが自慢げに長崎で造船され、大砲を積んだフスタ船を豊臣秀吉に見せる。これを見た豊臣秀吉は激昂。また、豊臣秀吉は日本人奴隷売買も禁じる様命令。
1587年9月13日 京都聚楽第竣工し豊臣秀吉、北政所と共に大阪城から移住。諸大名に大名屋敷に妻子を住まわせるよう命令。
1587年10月1日 豊臣秀吉、千利休・津田宗及らを茶頭とし京都北野で大茶会を催す。10日間の予定が何故か1日で終わる。
1587年10月25日 上杉景勝、反乱を起こしていた新発田氏を直江兼続(28歳)の活躍により降伏させ越後統一を果たす。
1587年10月 第15代将軍・足利義昭(51歳)、毛利兵に守られ14年ぶりに京へ帰る。山城に1万石の領地が与えられ槇島城へ入る。
1587年12月 天下惣無事:豊臣秀吉、関東・奥羽の諸大名に戦闘行為の停止を命じる。
1588年1月 豊臣秀吉、足利義昭と参内し征夷大将軍の職を返上。
     豊臣秀吉、九州肥後に加藤清正(27歳)と小西行長(31歳)を送る。
1588年4月14日 豊臣秀吉、第107代・後陽成天皇を聚楽第に迎える。
1588年7月8日 刀狩り:豊臣秀吉、百姓の武器所持を禁止。
       海賊停止令:豊臣秀吉、海賊衆(水軍)に対する3ヶ条の定で、それぞれに海賊行為をしない旨の連判の誓紙を出させ海民の武装解除を目的とした政策。
1588年8月22日 北条氏直、叔父の北条氏規を派遣し豊臣秀吉に謁見、豊臣秀吉は北条氏政の上洛を要求。
1588年 アルマダの海戦:スペイン国王フェリペ二世が英への侵攻を企て英仏海峡で両国の軍船が衝突。英軍がスペイン無敵艦隊を撃破。
    アウグスティノ会士のフライ・フランシスコ・マンリーケがスペイン国王に書簡を送る。内容は『陛下が明を占領するつもりなら陛下に味方する様日本に於いて王達に働きかけ10万以上の兵が付く事ができる。彼らが我が軍を指揮すれば明を占領する事は容易。』。
    豊臣秀吉、方広寺に京の大仏造立開始。7年後の1595年完成。大仏、完成から1年後に大地震により倒壊、巨大な大仏殿だけが残る。後、豊臣秀頼が大仏再建に着手、1612年完成し豊臣氏滅亡後も大仏は残る。
    茶々(20歳)、豊臣秀吉の側室となる。
1589年2月 在日イエズス会の有力神父7人が協議会開催しスペインフィリピン総督らに援軍要請を決意。しかし、フィリピン総督らは動かず。
1589年5月27日 豊臣秀吉(53歳)、嫡男・鶴松誕生。豊臣秀吉、側室・茶々(21歳)の為に京の淀に新たな淀城を築く。後、鶴松は3歳で没。
1589年6月4日 摺上原の戦い:伊達政宗(23歳)、摺上原(福島県会津)で蘆名義広を破る。
1589年6月11日 蘆名義弘、陸奥黒川城を捨てて常陸水戸に逃れる。伊達政宗、黒川城に入城。豊臣秀吉、惣無事令に違反していると激怒。
1589年9月 対馬の宋氏、李王朝国王の上洛を朝鮮使節派遣にすり替えて要請、李王朝、「天下統一を祝う使節」の派遣決定。
1589年10月 北条の家臣・猪俣邦憲、豊臣秀吉が真田昌幸の所領と定めていた上野国名胡桃(なぐるみ)城を急襲し占領。豊臣秀吉、激怒。
1589年11月 豊臣秀吉が長門・周防・土佐・九州各地に検地を施行する。
1589年11月24日 豊臣秀吉、朱印状で北条に宣戦布告し、諸大名に小田原出陣を命じる。
1589年12月10日 豊臣秀吉、聚楽第で徳川家康・前田利家・上杉景勝らと軍議、徳川家康が先鋒と決まる。
1589年12月22日 徳川家康、豊臣秀吉への忠誠を示し三男・長丸、後の徳川秀忠を人質として送る。後、1590年1月21日、長丸は駿府に送り返される。
1589年 琉球王朝尚寧王、豊臣秀吉に使者を送る。
1590年2月10日 先鋒の徳川家康、駿府城を出陣。
1590年3月1日 豊臣秀吉ら京都を発ち小田原に向かう。
1590年3月29日 豊臣軍、一斉に攻撃を開始し、箱根の山中城は僅か半日で落城、韮山城は強固な守りの為包囲し持久戦へ。
1590年4月1日 豊臣軍、小田原に進軍。
1590年4月5日 伊達政宗、毒殺未遂事件:母義姫から陣立ちの祝いに招かれ、危うく毒殺を受ける、と云う通説。2日後、伊達政宗、実弟・伊達小次郎と守役・小原縫殿助(ぬいのすけ)を殺害。母義姫は事件の夜に実家である最上家に逃げ帰る。
      豊臣秀吉、蒲生氏郷らに小田原城を包囲させる。
1590年4月26日 豊臣軍の浅野長政ら2万の軍勢で別動隊を編成し武蔵方面へ進軍。5月以降下総国・上総国へ進軍し北条方の支城を次々と陥落。
1590年6月5日 奥州諸大名が相次いで参陣する中、伊達政宗が参陣。
1590年6月9日 伊達政宗、豊臣秀吉に謁見する。豊臣秀吉、会津黒川城を没収。
1590年6月26日 小田原城を見下ろす笠懸山に石垣山一夜城が出現。
1590年7月5日 北条氏直、豊臣秀吉に降伏。豊臣秀吉、北条氏直を助命し北条氏直の父・北条氏政、伯父・北条氏照を自殺させる。
1590年7月13日 豊臣秀吉、徳川家康を関東(相模・伊豆・武蔵・下総・上総・上野)に移す。織田信雄に伊勢・尾張から三河・遠江・駿河・甲斐・信濃へ国替え、しかし、織田信雄、辞退すると織田信雄を下野に追放。
1590年7月18日 徳川家康、駿府に帰らず江戸に入る。
1590年7月 天正遣欧少年使節、8年6か月ぶりに帰国。後、伊東マンショは自ら日本を出てマカオへ、原マルチノはマカオに追放、中浦ジュリアンは布教を続けるが捕えられ殉教、千々石メゲルはイエズス会と決別。
1590年8月1日 豊臣秀吉、出羽の検地を命じる。
1590年8月9日 豊臣秀吉、陸奥の会津黒川城(会津若松市)に入城し奥羽の領地再配分「奥州仕置」を行う。天下統一を果たす。



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