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ザ・日本人 蒙古襲来‥‥そして建武の新政

1253年 日蓮、故郷の清澄山頂で題目を高唱して日蓮宗を開宗。
1260年 日蓮、立正安国論を執権・北条時頼に献上。立正安国論には『天変地異や疫病が続くのは法然の念仏の流行が原因。念仏を禁じ日蓮の法華経を広めなければ「必ず他国から侵略を受ける」』と記されている。
1268年1月 蒙古使・黒的、高麗使・潘阜、蒙古・高麗の国書を携え太宰府に到着し通行を要求。
1268年2月7日 幕府、蒙古の国書を奉上。
1268年2月19日 朝廷、返牒を不可と決す。
1268年2月27日 幕府、讃岐国等の御家人に蒙古襲来の防備を命じる。
1268年3月5日 北条時宗、第8代・執権となる。
1269年3月7日 蒙古使・黒的ら対馬へ来て島民を捕らえて去る。
1269年9月 蒙古から2通目の国書が太宰府に到着。執権・北条時宗、国書の無視を決定し「敵国降伏」の祈祷を全国の寺社に命じる。
1270年1月11日 蒙古船、対馬へ来る。
1270年1月 朝廷、蒙古への返牒を作り幕府に送るが幕府は蒙古へ送らず。
1271年7月 日蓮、再び立正安国論を執権・北条時宗に献上。北条時宗はこれを黙殺、幕府批判として日蓮を捕縛、佐渡に配流。
1271年9月13日 幕府、鎮西に所領を有する御家人を赴任させ海防を命じる。
1271年9月19日 蒙古使・趙良弼、筑前今津に来る。3通目の国書が到着。執権・北条時宗これも無視。
1271年9月 異国警固番役を設置。関東在住で九州に所領がある御家人に対し九州に赴き九州の御家人と交替で防衛を指示。
1271年12月 フビライ・ハン、モンゴル帝国から国号を元に変更。滅亡させた「金」の首都を「大都(北京)」と改め首都とする。
1271年 マルコ・ポーロ、東方への旅:伊ベネチア商人。父ニコロ・ポーロ、叔父マッフェオ・ポーロに従って東方への旅に出た。ローマ教皇グレゴリウス10世から元朝皇帝宛ての信任状を得てペルシアからタクラマカン砂漠南側の天山南路を通って粛州に到着、そこに暫く滞在してからおそらく74年(75年説もある)に元朝宮廷に達した。その後90年まで16~17年間元朝の下に留まる事に。3人は元朝宮廷と共に夏の首都の上都(ドロンノール)と冬の首都の大都(北京)の間を行き来し、また各地を歴訪して過した。
1272年2月11日 二月騒動:北条時宗、六波羅南方の北条時輔に謀反の心ありとして大蔵頼季らを派遣し、名越時章・名越教時らを討つ。
1272年2月15日 北条時宗、北条時輔を討つ。
1273年3月 蒙古使・趙良弼、太宰府に至る。
1274年1月 元、日本侵攻の拠点を高麗に設置、日本侵攻用に大型船300隻、小型上陸艇等300隻を建造するよう高麗に命令。
1274年9月13日 執権・北条時宗、武蔵国の御家人へ『蒙古の襲来が近づいたので御家人を九州へ使わす事になった』と指示。
1274年10月3日 元と高麗の連合軍、2万6千人が高麗の合浦に集結、合浦を出発。
1274年10月5日 文永の役:元・高麗連合軍、対馬を侵し宗助国、80騎程で対抗も戦死。
1274年10月14日 元・高麗連合軍、壱岐を侵し平経高、100騎程で迎え撃つも戦死。
1274年10月19日 元・高麗連合軍2万5千人、博多湾に侵入し筑前国に上陸し終日合戦。これを迎え撃つは、小弐景資(しょうにかげすけ:太宰府長官)が指揮を執り、鎮西奉行・武藤・大伴両氏の指揮下に編成された九州各地の地頭御家人(肥前国松浦党・肥後国菊池氏・豊後国大伴氏・薩摩国島津氏等)。
1274年10月20日 朝、元・高麗連合軍の大船団が姿を消す。元々、威嚇が目的の攻撃で当初から引揚げる予定であった模様。
1274年11月1日 蒙古襲来の報、幕府に届く。
1275年4月15日 元使・杜世忠ら長門室津に到着、鎌倉に送られる。
1275年6月3日 竹崎季長(すえなが)、一族・知人の反対を押し切り馬・鞍を売って旅費を作り鎌倉出訴へ向かう。
1275年8月12日 竹崎季長、鎌倉に到着。
1275年9月7日 北条時宗、社世忠ら元使を瀧ノ口にて斬る。
1275年10月3日 竹崎季長、御恩奉行・安達泰盛の面前で文永の役の一番駆けの殊勲を直訴。11月1日、安達泰盛から勲功の賞として肥後国海東郷の地頭に任ぜられる。
1275年12月8日 幕府、異国征伐の準備を命じる。
1276年1月4日 竹崎季長、帰郷。この1月6日、海東郷(熊本県下益城郡小川町海東)の新地頭として勇躍入部する。
1276年3月 元寇防塁:執権・北条時宗(26歳)、九州の御家人に石塁の構築を命じる。総延長20km、高さ2~3m。
1279年7月29日 元使・周福ら筑前に来航し書を幕府に献じる。幕府、周福らを博多で斬る。フビライ・ハン激怒。
1279年 元のフビライ・ハン(65歳)、南宋を滅ぼし支那を統一。元が日本や東南アジアに進出しやすくなった。
1281年5月3日 元の東路軍が高麗の合浦を出発。
1281年5月8日 元の東路軍、対馬を掌握。
1281年5月21日 弘安の役:二手に分かれ元・高麗連合軍2万5千人の兵、支那本土から直接渡海する江南軍10万人の兵。元・高麗の兵船、壱岐・対馬を侵す。
1281年5月25日 元の東路軍、壱岐を掌握。
1281年5月26日 元の東路軍、志賀島に上陸。
1281年6月6日 元将・笵文虎、10万人の兵を率いて博多湾に来襲するも幕府軍に阻まれ鷹島に拠る。幕府軍、志賀島の東路軍を攻撃。
1281年6月8日 伊予国の豪族・河野通有、元軍攻撃に武勲を立てる。
1281年6月18日 元の江南軍10万人が支那の慶元を軍艦3,500艘で出発。
1281年6月29日 志賀島を巡る激闘の末、元軍は占領を諦め、やがて到着すべき本隊の江南軍と合流する為、壱岐まで引く。日本軍、これを追撃し7月2日まで壱岐海上で戦闘。
1281年7月1日 大風雨により元軍壊滅。
1281年7月5日 風雨が収まり日本軍は次々に出陣し残敵の掃討を行なう。
1284年4月4日 北条時宗(34歳)没。
1285年11月17日 霜月騒動:鎌倉幕府の重臣だった安達泰盛とその一族が、第9代・執権・北条貞時の内管領(うちかんれい)・平頼綱によって滅ぼされた事件。金沢顕時を下総に流す。合議制による執権政治に終止符が打たれ得宗家専制政治が始まる。
1286年10月19日 幕府、弘安の役の恩賞を行なう。
1293年2月 竹崎季長により蒙古襲来絵詞完成。
1293年4月22日 平禅門の乱:得宗・北条貞時の差し向けた討手によって得宗御内人(みうちびと)であり得宗家の内管領(うちかんれい)である平頼綱及び次男飯沼助宗ら一族90余人が滅ぼされた事件。平頼綱が飯沼助宗を将軍に立て様とした陰謀が直接の原因であるとするが、これは北条貞時の平頼綱打倒の口実。
1294年 フビライ・ハン(80歳)没。
1295年 マルコ・ポーロ、ベネチアに戻る:90年イル・ハン国に嫁ぐ元朝の王女に随行する事となり、92年泉州を出帆してマライ、セイロン、インド西岸を経て94年ペルシアのオルムズに上陸。一行は王女をペルシアに残して陸路帰国の旅につき95年にベネチアに戻った。
1309年3月3日 大宰府の使者、蒙古再襲来を警告する。
1316年7月 北条高時(14歳)、第14代・執権に就任。北条高時は田楽・闘犬・酒宴に明け暮れる。
1318年3月29日 第96代・後醍醐天皇(31歳)即位。皇位継承に介入する幕府を良しとせず院政を廃して自身で政治を行なう「天皇親政」を目指す。
1324年9月19日 正中の変:六波羅探題、朝廷の統幕計画を察知し、美濃源氏の土岐頼兼・多治見国長を殺し、後醍醐天皇の側近である公家の日野資朝・日野俊基を捕らえる。
1326年3月13日 北条高時(24歳)、病の為執権を辞職し出家。第15代・執権に北条貞顕(49歳)。
1326年3月16日 嘉暦の騒動:北条氏得宗家の家督継承を巡る内管領の長崎氏と外戚安達氏の抗争による内紛。北条泰家と安達氏の憤りを恐れて北条一門に執権のなり手がいない中、この4月24日に引付衆一番頭人・赤橋守時(32歳)が第16代・執権に就任し、これが最後の北条氏執権となる。
1330年3月8日 後醍醐天皇、奈良の春日大社・東大寺・興福寺へ行幸、更に3月27日には比叡山延暦寺にも行幸。挙兵へ協力を呼掛けたとみられる。
1331年4月29日 後醍醐天皇の重臣吉田定房が「後醍醐天皇の統幕計画」を鎌倉幕府に密告。
1331年5月5日 元弘の変:日野俊基・文観・円観・忠円ら捕らえられる。
1331年8月24日 後醍醐天皇、三種の神器を持ち御所を脱し笠置山へ籠もる。
1331年9月2日 後醍醐天皇、笠置山に籠城の報が六波羅探題に届くと数万の六波羅軍が笠置山へ進軍。
1331年9月5日 幕府軍、足利高氏(27歳)らを大将に大軍で関東を出発。
1331年9月14日 楠木正成挙兵するも、翌月、赤坂城陥落し遁走する。
1331年9月20日 鎌倉幕府、後醍醐天皇の廃帝を宣告、量仁(かずひと)親王を高厳天皇として即位。三種の神器なしの異例の即位となる。
1331年9月28日 笠置山の戦い:幕府軍が断崖をよじ登り笠置寺に火をかけるとたちまち広がり山上は大混乱に陥る。
1331年10月1日 後醍醐天皇、僅かなお供と共に戦火を逃れるも山中で捕えられる。
1331年10月15日 笠置山の戦いを終えた北条一門や足利高氏ら幕府軍、楠木正成が籠もる赤坂城に進軍。奇策を得意とする楠木軍を攻めあぐね膠着状態。
1332年3月7日 後醍醐天皇隠岐へ配流。佐々木道誉、道中警護を行なう。道中、後醍醐天皇から鎌倉幕府の非業を佐々木道誉、聞かされ、後、鎌倉幕府に反旗を翻し室町幕府に仕える。
1332年4月 楠木正成、河内国の金剛山に千早城を築く。
1332年6月2日 幕府、日野資朝・日野俊基を斬る。
1332年11月 後醍醐天皇の皇子・護良親王、吉野に於いて3千騎余りの兵を率いて挙兵。倒幕の令旨を各地の反幕府勢力に送る。
1332年12月 楠木正成、赤坂城を奪還。
1333年1月21日 赤松則村、播磨苔縄城で挙兵。同月幕府は大軍を上洛させる。
1333年2月 千早城で攻防が続く。楠木正成、約3ヶ月の籠城戦。
1333年2月24日 後醍醐天皇、幕府役人の監視の目を盗み隠岐を脱出し伯耆国船上山へ。船上山で挙兵。
1333年2月29日 幕府軍、伯耆国船上山を攻めるも後醍醐天皇軍が撃退。
1333年3月 後醍醐天皇、倒幕の綸旨を出す。
1333年4月16日 幕府は畿内の幕府軍支援に足利高氏らを中心とする軍勢を派遣。
1333年4月27日 足利高氏らが率いる幕府軍は京の南の反幕府
軍倒幕に向かう。
1333年4月29日 元弘の乱:~1333年7月17日。鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、幕府及び北条高時を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱 。
       足利高氏、丹波国篠村八幡宮にて倒幕の意を決す。
1333年5月7日 足利高氏・赤松則村ら六波羅攻撃。北条仲時・北条時益、関東で再起を図る為光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇をつれて逃亡。同9日、北条仲時ら敗走するも近江国番場に於いて自殺。
1333年5月8日 新田義貞、上野国で150機余りで挙兵。(生品神社(太田市)で旗挙げをしたとされる。)
1333年5月11日 小手指ヶ原の戦い:新田義貞、進軍中に幕府軍と遭遇戦、互いに被害が出て幕府軍撤退。
1333年5月12日 新田義貞、久米川(東京都東村山市)まで進軍。
1333年5月15日 分倍河原の戦い:多摩川をはさみ幕府軍と対峙。数で勝る幕府軍が勝利、翌日、幕府軍の背後から新田側の援軍が奇襲攻撃で幕府軍敗走。
1333年5月18日 新田義貞鎌倉総攻撃。化粧坂切通・巨福呂(こぶくろ)坂切通・極楽寺切通の3方向から進入を試みるも激戦となる。
1333年5月22日 新田軍、極楽基地通と海岸線の間にある仏法寺を攻め落とし鎌倉に突入。第14代・執権・北条高時、鎌倉東勝寺に於いて一族郎党8百数十人と共に自刃し幕府滅亡。
1333年5月25日 光厳天皇を廃し後醍醐天皇が返り咲き元号も光厳天皇が定めた正慶から元弘に戻す。
1333年6月5日 後醍醐天皇、1年ぶりの帰京。自らの退位を否定し鎌倉幕府が擁立した光厳天皇を上皇に、大覚寺統と持明院統が交互に即位する両統迭立を止め大覚寺統だけとする。
1333年6月 足利高氏、後醍醐天皇から尊氏の名が与えられる。
1334年1月 建武の新政:後醍醐天皇、建武に改元。政治体制を一新し天皇親政を実現。摂政・関白を廃し天皇が全ての決定権を持ち綸旨を出して指示。土地は天皇の物との考えで武士の土地の所有権を取上げ、改めて綸旨により所有を認める、武士の所領の配分を朝廷が行なう。
1334年5月 護良親王、足利尊氏討伐計画発覚。後醍醐天皇、関与を否定。護良親王、鎌倉に送られ足利直義の監視下で幽閉。
1335年7月 中先代の乱:北条時行、信濃で挙兵、鎌倉を攻略。後醍醐天皇に不満を持つ武士が参加。
1335年8月2日 足利尊氏、後醍醐天皇に対し「自分を征夷大将軍に任命し鎌倉へ出陣させて欲しい」と願い出たが武家政権復活を恐れた後醍醐天皇は任命を拒否、出兵を認めず。無断で京を出陣。三河で足利直義軍と合流し鎌倉へ向かう。
1335年8月19日 足利尊氏、北条時行を破り鎌倉に入る。北条時行は伊勢へ逃亡。後醍醐天皇、足利尊氏に京へ戻るよう命令。足利尊氏、征夷大将軍を自称、鎌倉奪還に功績があった武士に褒賞を与える。実質的に武家政権誕生。
1335年11月19日 後醍醐天皇、新田義貞に足利尊氏追討を命じる。足利尊氏、「天皇に弓を引くことは出来ぬ」と寺に籠り恭順の姿勢を見せる。
1335年11月25日 ~27日 三河で新田義貞と足利直義が激突。足利直義は駿河まで撤退。
1335年12月5日 新田義貞と足利直義は駿河で激突、足利直義は箱根まで撤退。
1335年12月12日 竹下の戦い:足利尊氏、鎌倉から箱根竹下へ向かい新田義貞軍を撃退。新田義貞、箱根竹下の戦い敗れて西走。足利尊氏も後に京へ迫る。
1335年12月22日 北畠顕家(あきいえ)・義良親王、奥州出発。
1336年1月11日 足利尊氏、入京。後醍醐天皇、比叡山に避難。
1336年1月27日 新田義貞・北畠顕家(20歳)軍、足利尊氏を破る。
1336年2月12日 足利尊氏、九州へ敗走。
1336年2月 足利尊氏、光厳上皇から新田義貞討伐の院宣を手に入れる。足利尊氏『もはや朝敵でない』と宣言。
1336年3月2日 多々良浜の戦い:足利尊氏、筑前多々良浜で後醍醐天皇方・菊池武敏を破る。九州の多くの武士が足利尊氏に付き体勢を立直す。
1336年4月3日 足利尊氏、京の奪還を目指し博多を出発、東上開始。四国・中国の武士団が駆付け50万以上の大軍となる。
1336年5月25日 湊川の戦い:足利尊氏、新田義貞・楠木正成(43歳)を摂津湊川で破る。楠木正成敗死。後醍醐天皇、比叡山に逃れる。
1336年6月14日 足利尊氏、光厳上皇を奉じて入京。
1336年8月15日 足利尊氏、光厳上皇に弟である豊仁親王(15歳)の天皇即位を要請、北2代・光明天皇即位。
1336年10月10日 新田義貞、恒良親王・尊良親王を奉じて越前に。後醍醐天皇、帰京。
1336年10月 後醍醐天皇、足利尊氏と講和、皇族の屋敷に幽閉。
1336年11月2日 後醍醐天皇、三種の神器を渡し光明天皇が正式に即位。
1336年11月7日 足利尊氏(32歳)、幕府を開き建武式目制定。
1336年12月21日 後醍醐天皇、吉野へ潜幸。後醍醐天皇『光明天皇に渡した三種の神器は偽物、本物は私が持っている。自分が正当な天皇である』と主張。(南北朝分裂)
1337年12月 南朝方・北畠顕家、東北を南下し鎌倉の幕府軍を攻め落とす。
1338年1月 南朝方・北畠顕家、青野原(滋賀県大垣市)で幕府軍に大勝。
1338年5月22日 石津の戦い:南朝方・北畠顕家(20歳)、高師直と戦い敗死。
1338年7月2日 藤島の戦い:藤島城(福井市)で新田義貞、斯波高経と戦い敗死。
1338年8月11日 足利尊氏、初代・征夷大将軍となる。
1339年8月16日 南第96代・後醍醐天皇(52歳)没。義良(のりよし)親王を後継に指名、南第97代・後村上天皇(12歳)即位。足利尊氏、後醍醐天皇菩提寺「天竜寺」創建を決定。
1339年 神皇正統記(じんのうしょうとうき)成立:北畠親房の著した歴史書。3巻。常陸小田城で完成し、1343年、幼帝・後村上天皇に献じた。神代から後村上天皇までの事績を記し南朝の皇統が正統である事を述べている。著者の国体論・神道論・政治論は後世の学者に強い影響を与えた。また、幕末の志士に強い影響を与えた。
1348年1月5日 楠木正行、高師直と河内四条畷に戦い敗死。
1349年6月2日 足利直義と高師直が不和。
1349年8月13日 観応の擾乱:高師直、7千騎で挙兵、足利直義襲撃を図る。足利直義、足利尊氏邸に逃走。足利尊氏、鎌倉府から足利義詮(20歳)を上洛させ政治を任せる。足利直義は失脚し京を脱出。1349年から1352年にかけて続いた抗争で足利政権の内紛。実態は足利政権だけに留まらず対立する南朝と北朝、それを支持する武家や公家と武家どうしの確執等も背景にある。
1350年10月28日 足利直義の養子・足利直冬(ただふゆ)が九州で勢力を拡大、失脚した足利直義の救援に京へ攻める勢いに、足利尊氏・高師直、九州に向けて出陣。
1350年11月 足利直義、南朝に寝返り、南朝は野武士も集まり一大勢力へ。
1350年12月13日 南朝、足利直義の帰服を許す。
1350年12月 足利尊氏・高師直、九州に向かっていたが途中で反転、書写山(兵庫県姫路市)に布陣。
1351年1月15日 足利直義方・桃井直常、入京し足利尊氏・足利義詮(よしあきら)と戦う。翌日、足利尊氏ら播磨へ敗走。
1351年2月20日 討出浜の戦い:足利尊氏・高師直、足利直義軍が進軍してきた打出浜(兵庫県芦屋市)に出陣も惨敗。足利尊氏、足利直義和睦する。足利直義の要求は高師直の出家。高師直、護送される武庫川(兵庫県南部)で待伏せしていた足利直義軍に殺害。
1351年7月8日 足利尊氏と足利直義が和議し、政務は足利義詮に任せ足利直義はその補佐役として政務に復帰。しかし足利直義、足利義詮と不和。
1351年7月10日 播磨国の赤松氏・近江国の佐々木氏が反幕府で挙兵。足利尊氏・足利義詮が出陣。足利直義、この軍の動きに不審を抱く。
1351年8月1日 足利直義、北陸に逃げる。
1351年10月 足利尊氏、突然、南朝に降伏を宣言。北朝の崇光天皇を廃位し南朝の後村上天皇から足利直義討伐の綸旨を受け鎌倉に出陣。
1351年11月15日 足利直義、鎌倉に入る。
1351年11月 薩埵(さった)峠の戦い:足利尊氏、足利直義軍に勝利。翌年1月足利直義降伏、鎌倉浄妙寺に幽閉。観応の擾乱が終息。
1351年 紅巾の乱:元の支配に対して漢民族復権の為河南・湖北で白蓮教徒達による乱が起きる。
1352年2月26日 足利尊氏、足利直義(47歳)を殺害。
1352年2月 南朝方・北畠親房、京に侵攻。足利義詮ら北朝方は、上皇らを京に残し近江に逃亡。
      南朝方、京に残された光厳・光明・崇光の3上皇を南朝の本拠地である賀名生(あのう)に幽閉。
1352年3月 足利義詮、反撃に転じ京を再奪還。南朝の後村上天皇や南朝方、再び大和国の賀名生に逆戻り。
1352年8月17日 南朝の拉致を免れていた弥仁(いやひと)親王が北第4代・後光厳天皇として即位。
1352年 吉田兼好(69歳)没。鎌倉・南北朝期の歌人・随筆家。俗名卜部兼好(うらべかねよし)。卜部氏は神官の家。京都吉田に住み、吉田とも称した。下級公家の出で30歳頃出家。著「徒然草」は「枕草子」と共に随筆文学の代表とされる。晩年は、高師直に近侍する等、足利幕府を中心とする武家方に接近。
1353年6月13日 足利義詮、北第4代・後光厳天皇を奉じ美濃小島に至る。
1353年7月 足利義詮、京を完全に制圧し南朝を鎮静化。
1353年9月 足利尊氏、約1年9ヶ月ぶりに鎌倉から京に帰還、この後も南朝勢力の京への襲撃が繰返され防衛戦を行なう。
1355年2月 北南両軍、京で戦う。
1355年3月13日 足利尊氏・足利義詮、入京。後光厳天皇も帰京。
1358年4月30日 足利尊氏(54歳)没。
1358年12月 足利義詮、第2代・征夷大将軍に就く。以後、南朝方に付いた武士が幕府(北朝)方に帰参始める。
1367年12月 足利義詮(38歳)没。南北朝統一を果たせぬまま急死。
1368年12月30日 足利義満(11歳)、第3代・征夷大将軍に就く。
1368年 白蓮教の僧だった朱玄璋、南京を首都とする明を建国。元を北に追いやり元滅亡。
    明の使者が九州に到着。太宰府で南朝方の懐良親王(かねよし:後醍醐天皇の息子)が対応。
1370年 足利幕府、九州平定の為遠江国の今川了俊を派遣。
1372年8月 幕府軍の九州での猛攻で南朝方は九州で徐々に力を失い、幕府の九州探題が九州を統治。
1374年 観阿弥・世阿弥、京今熊野神社で神事猿楽を行なう。
1378年3月10日 足利義満、室町新邸(花の御所)に移る。
1378年12月 足利義満、自ら幕府軍を率いて南軍の拠点を攻撃。
1381年3月11日 ~16日、足利義満(24歳)、花の御所に北第5代・後円融天皇を招く。
1382年4月 後円融天皇(25歳)譲位、北第6代・後小松天皇(6歳)即位。
1383年1月 後円融上皇主催の法事に公卿が欠席、後円融上皇失脚、陰に足利義満の存在。
1390年 土岐康行の乱:足利義満、土岐一族の内紛を機に伊勢・美濃・尾張3か国の守護大名を兼任していた土岐康行を討伐。
1391年 明徳の乱:山名氏清・満幸らが室町幕府に対しておこした反乱。山名氏は山陰・山城・紀伊・和泉に一族合わせて11カ国の守護職を持ち六分一衆と呼ばれていたが、足利義満は山名一族の分裂を巧みに利用し山名氏清らを挑発。山名氏清らが挙兵すると足利義満は、細川・畠山・大内氏らに征討させ山名氏清は敗死。乱後山名氏は但馬・伯耆の守護に転落し室町幕府の将軍の権威が確立。
1392年10月2日 第99代・後亀山天皇、京に還幸。
1392年10月5日 明徳の和約:第99代・後亀山天皇、神器を第100代・後小松天皇に譲る。北南朝合一の条件は、①壌国(じょうこく)の儀式を行ない南朝の神器を北朝に譲る。②両統迭立(北朝と南朝系の天皇が交互に即位)。が、何れも果たされる事とはなかった。

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