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ザ・日本人   戦国乱世へ


1500年 琉球国王・尚真(しょうしん)が奄美大島から宮古島まで統一。
1506年 雪舟(約86歳)没。水墨画の祖、画聖。相国寺で禅と絵を修行。それまでの日本の水墨画のスタイルを覆し水墨画の新境地を切り開く。
1507年6月 管領・細川政元(42歳)が暗殺。将軍の補佐役で実権を握っていた細川政元を失い幕府は混乱。
1508年4月16日 将軍・足利義澄、近江に避難。後3年後に近江で病死。
1508年4月 追放されていた第10代将軍・足利義稙、周防国・大内義興を援軍とし京都を目指し将軍職に復帰。
1510年 コペルニクス、小冊子「コメンタリオルス」に地動説を書く。
1511年 ポルトガル、マラッカ海峡を占領。
1513年 ポルトガル、マラッカ海峡から支那に始めて戦隊が派遣される。
1515年 ポルトガル、マラッカ王国(マレーシア・インドネシア)を征服。
1516年7月 北条早雲、鎌倉時代から続く相模国・三浦氏を滅ぼし相模国全土を支配。「下克上」
1517年10月31日 宗教改革:マルティン・ルターが「95ヵ条の意見書」を発表し教会の扉に提示、カトリック教会の免罪符制度の乱用を批判すると共に信仰の意味を問いかけ、これに対する公開討論を呼掛ける。この行動から欧州全土を巻き込んだ「宗教改革」へと発展。
1517年 ポルトガル、支那杭州で交易開始。
1518年7月 北条早雲、家督を北条氏綱に譲り韮山城で隠居、北条氏綱は小田原城を拠点。
1519年9月20日 マゼラン、5艘265人で世界周航に向けてスペインを出発。
1520年11月28日 マゼラン海峡発見:スペインに雇われたポルトガル人マゼランが南米大陸南端を大西洋から太平洋に抜ける航路を発見。翌年、フィリピン・セブ島に到達。
1521年3月 再任していた足利義稙(56歳)、管領・細川高国と対立し京都を飛び出し四国の細川氏を頼って阿波に渡り将軍職を失う。足利義稙、2年後に阿波で没。細川高国、第12代将軍・足利義晴(17歳)を擁立し幕府の実権を握る。
1521年4月27日 マゼラン、比で戦死。
1522年9月6日 マゼランの部下が1艘18人でスペインに帰港。
1523年4月 大内氏と細川氏がそれぞれ派遣した遣明船が支那寧波(ねいは)で武力衝突。結果、大内氏が遣明船の権益を掌握。
1527年2月14日 阿波国で細川高国と敵対する甥の細川晴元(14歳)が三善元長(27歳)に担がれ「打倒!細川高国」で京へ進撃。京の桂川を挟んで激突。敗れた細川高国は将軍・足利義晴と共に近江国へ都落ち。
1529年4月22日 サラゴサ条約:ポルトガル王ジョアン3世と神聖ローマ皇帝カール5世の間でサラゴサにて締結されたスペイン帝国とポルトガル海上帝国の間の平和条約。
1531年6月 細川高国、細川晴元を攻めるが再び敗北し自害。細川晴元、足利義晴と和睦し幕府の実権を握る。阿波の武将・三好氏が戦国の表舞台へ。
1534年8月15日 イエズス会設立:イグナチウス・デ・ロヨラが6人の同志と共にパリのモンマルトルの丘に集まり誓約を立て1540年に教皇の認可を受けて創立した司祭修道会。イグナティウスは元勇敢な騎士であったがパンプロナの戦いで負傷し、その病床で回心してキリストに仕える騎士になる決意をたてる。
1536年6月10日 今川義元、家督争いで勝利し家督を相続。
1536年7月 天文法華の乱:日蓮宗の勢力拡大を恐れた延暦寺の僧兵15万と2万の日蓮宗僧兵が衝突。京の被害は応仁の乱を遙かに上回ったとされる。
1537年2月 加東の乱:今川義元、武田信虎の娘を迎え同盟を結ぶ。今川義元と同盟関係にあった北条氏綱が激怒、今川領の駿河東部の加東を占領。
1541年 武田晴信(21歳)、父の武田信虎(48歳)を追放。
1542年8月23日 斎藤道三、守護・土岐頼芸を追放。美濃国を押領し国主となる。
1542年12月26日 徳川家康誕生、父は松平広忠、母は於大の方、午前4時頃誕生。徳川家康は真達羅大将の化身であると信じられ徳川家康も薬師如来を篤く信仰。
1542年 伊達氏天文の乱:~1548年。伊達稙宗は息子の伊達実元と越後国の上杉家の養子縁組を進めようとしたが、伊達実元に大勢の伊達家臣が付き従ってそのまま上杉家に留まる事で伊達家の無力化を恐れた晴宗は、この話に強く反対。これを契機として親子は対立、ついに稙宗は晴宗によって桑折西山城に幽閉。ここから、稙宗派と晴宗派に分かれた内乱。
1543年8月25日 ポルトガル人、明国商人のジャンク船(支那式の帆船)に乗って大隅の種子島に漂着。鉄砲を伝える。ジャンク船の持ち主は倭寇の首魁である明人の王直。
1543年 コペルニクス、「天球回転論」を出版。本が届けられた5月24日に70歳で没。
    種子島時尭(ときたか:16歳)、刀鍛冶・矢板金兵衛に鉄砲作りを命じる。1545年、国産第1号の鉄砲を完成。
1546年4月 川越城の戦い:北条氏康が川越城の救援に向かう。数に勝る扇谷上杉・山内上杉・古河公方連合軍は圧勝ムードで油断、北条氏康の夜襲により連合軍敗走。以後、扇谷上杉氏は滅亡、山内上杉氏は長尾景虎を頼りに越後へ逃走、古河公方は北条氏の親戚に地位を譲る。北条氏の関東支配が盤石。
1547年8月 岡崎城主・松平広忠、織田信秀に攻められ今川義元に応援要請。今川義元、見返りに松平竹千代(6歳)を人質に要求。今川義元の家臣が裏切り松平竹千代を織田信秀に売り渡す。織田信秀、松平広忠に降伏を迫るが拒絶される。
1548年12月30日 越後の長尾景虎(19歳)、家督を継ぎ春日山城に入る。
1549年3月 岡崎城主・松平広忠(24歳)、不審な死を遂げる。岡崎城は今川義元が接収。
1549年5月29日 薩摩国・島津氏、肝付氏を攻める。「黒川先の戦い」で鉄砲が初めて実戦で使われる。
1549年6月 摂津で三好長慶、細川晴元を破る。細川晴元、第13代・将軍・足利義輝と京から近江へ逃亡。三好長慶、京に入り政権を掌握。
1549年7月3日 フランシスコ・ザビエル日本上陸:1547年末マラッカで日本人ヤジロウに接し、日本布教の重要性を悟り鹿児島に到着。滞在2年余の内に平戸・山口・京都等で布教、5百人以上に洗礼を授けた。ゴアに帰ったザビエルは、鎖国下の支那布教を企て、広東港外の小島で入国の機会を待っている間に熱病にかかり死去。
1549年11月9日 今川軍と織田軍が岡崎城の隣、安祥城で激突。今川義元、織田信秀の長男・織田信広を生け捕りにし、松平竹千代と人質交換。松平竹千代は駿府へ。
1549年 織田信長(16歳)、斎藤道三の娘、濃姫(15歳)と結婚。濃姫は再婚。
1550年3月3日 尾張の織田信秀没。
1550年7月 ザビエル、鹿児島で1百人程の信者を獲得したが仏教界から反発が高まり布教困難になり、天皇から布教の許可を得る為京へ向かう。
1550年 京で細川氏と三好氏の戦いで三好氏側の兵が鉄砲に撃たれ死亡。鉄砲による最初の戦死者。
    越後守護・上杉定実が病死、上杉家が断絶、長尾景虎が事実上の守護となる。
1551年1月 ザビエル、105代・後奈良天皇に謁見できず天皇に実権がない事を知り失望。京での布教を諦め周防・大内義隆へと向かう。周防で5百人程の信者獲得。
1551年8月 ザビエル、豊後・大友宗麟から手紙を受け豊後に向かう。大友宗麟、ポルトガルとの貿易に期待し鉄砲を求めていた。
     長尾景虎(22歳)、長尾政景が降伏した為越後を統一。
1551年9月1日 大内義隆、武将の陶隆房に襲われ長門の大寧寺で自殺。
1551年11月 ザビエル、アジアでの布教活動の組織化と支那での布教の準備の為離日。1552年12月支那杭州沖合の上川島で没。46歳。
1552年 今川領に近い鳴海城・大高城・沓掛城が織田信長を見限り、織田家から離反。今川側に城を明け渡し今川軍入城。
1553年4月 織田信長(20歳)、斎藤道三と初対面。会見後、斎藤道三は『うちの子達は何れ信長の門外に馬を繋ぐだろう』と一言だけ云ったと云う。
     武田晴信、信濃国(諏訪・佐久・府中・北信濃)をほぼ手中に収める。北信濃の村上氏、越後国・長尾景虎に支援を求める。
1553年9月1日 第一次川中島の戦い:武田晴信(33歳)、長尾景虎(24歳)が対決。長尾軍8千と武田軍1万が八幡で激突、3度の合戦の末武田軍が敗れ南下。
1553年9月15日 長尾軍が決着付かぬまま撤退、長尾軍の撤退を確認した武田軍も撤退。
1553年9月 長尾景虎、川中島の戦いから戻り京に出発。105代・後奈良天皇と謁見し『越後国内や隣国で敵対する者を罰して良い』と云う綸旨を受ける。
1554年3月 甲相駿三国同盟:武田晴信・北条氏康・今川義元の三国同盟。結果、武田晴信は長尾景虎との戦いに集中、北条氏康は関東制圧、今川義元は尾張侵攻へ。
1554年5月12日 毛利元就、大内氏から実権を奪った陶晴賢に対し挙兵。
1554年7月12日 尾張守護代・織田信友(清洲織田氏)、尾張守護・斯波義統(よしむね)を襲撃、自害に追い込む。
1554年7月18日 織田信長、織田信友を謀反人とし軍勢を挙げて攻撃、勝利。
1554年 木下藤吉郎(18歳頃)、織田信長の奉公人として仕える。
1555年4月20日 織田信長、織田信友を殺し清洲城を奪う。清洲織田氏は滅亡、織田信長、清洲城を居城とする。
1555年7月 長尾景虎と武田晴信が犀川に対峙し川中島で再戦する。
1555年10月1日 厳島の戦い:毛利元就(59歳)・毛利隆元父子らが陶晴賢(35歳)を厳島に急襲して殺す。(現在の本殿は1571年毛利基成に依って再建された。)
1556年4月20日 美濃の斎藤道三(53歳)、子の斎藤義龍と長良川に戦い敗死。
1556年8月24日 稲生(いのう)の戦い:反織田信長の家臣達が織田信長の弟・織田信勝を家督に継がせようと動き、織田信長と織田信勝の戦。織田信勝は母親・土田御前の取りなしで助命される。
1557年3月 毛利元就、陶晴賢の本拠、富田(山口県周南市)を占領し周防・長門を平定、西国の覇者へ。
1557年4月2日 毛利元就、大内義長を長門の勝山城に攻め翌日自殺させる。
1557年10月27日 第106代・正親町天皇即位。朝廷は困窮しており即位の礼が行えず3年後、毛利元就の献金により即位の礼を行なう。
1557年11月2日 織田信勝が岩倉織田氏と組んで織田信長に謀反を企み、織田信長、仮病を使い織田信勝を清洲城で殺す。
1557年 ポルトガル、沿海を跋扈(ばっこ)していた明人倭寇(中には日本人もいた模様)を排除した事からマカオ上陸を明から許可される。ポルトガルはここに要塞を築き貿易やイエズス会による布教の拠点となる。
    松平竹千代(松平元康)、今川義元の姪・築山殿と結婚。
1558年7月 浮野野戦い:織田信長、岩倉織田氏の織田信賢を攻撃。
1558年12月3日 将軍・足利義輝、三好長慶と和睦し5年4ヶ月ぶりに京都に帰還。
1559年2月2日 織田信長、上洛し将軍・足利義輝に謁見。
1559年4月27日 長尾景虎、5年ぶりに上洛、将軍・足利義輝に謁見。上杉氏を継ぐ事が認められ関東管領に付く事も認められる。長尾景虎、翌年以降関東へ進出。
1559年6月 大友宗麟、将軍・足利義輝から豊後・筑後に合せて豊前・筑前・肥前・肥後の守護に任命。大友宗麟、幕府に多額の献金をなす。
      織田信長(26歳)、家臣の前田利家(22歳)が織田信長側近の拾阿弥(じゅうあみ)を織田信長の眼前で斬り殺し追放。
1559年12月 後期倭寇の首領・王直が明で処刑。王直は平戸に拠点を置き鉄砲伝来をもたらしたポルトガル人は王直の船で来日とも云われている。以後、倭寇は衰退。
1559年 織田信長、岩倉織田氏の織田信賢が籠城する岩倉城を攻撃。城下を焼き払い織田信賢、降伏し追放される。織田信長、尾張をほぼ統一。
    織田信長、以前、離反した鳴海城・沓掛城・大高城を囲み兵糧攻め。
1560年5月10日 松平元康(19歳)、大高城への兵糧入れの為沓掛城に向け駿府を出陣。
1560年5月12日 今川義元、大高城・沓掛城・鳴海城救援の為駿府を出陣。
1560年5月18日夜 織田信長、清洲城に家臣を集め会議を開くが『深夜になったので帰れ』と会議を終了。家老衆は『運が尽きれば知恵も出なくなる』と嘲笑しながら帰る。
1560年5月19日 桶狭間の戦い:織田信長(27歳)、尾張桶狭間に於いて今川義元(42歳)の軍を破り今川義元を戦死させる。松平元康、13年ぶりに岡崎城に戻る。
      03時頃 松平元康、織田側丸根砦を攻撃。織田軍が応戦する隙に大高城に兵糧を入れる。
      04時頃 丸根砦攻撃の報告を清洲城で聞いた織田信長、「敦盛」を舞い始める。
参考資料:「敦盛」は、武蔵国の住人・熊谷直実が後に出家して歌った歌とされています。その情景は、
出典:「一ノ谷の戦い」源義経に敗れた平家の悲痛な末路
濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家 2022/06/13 14:00より
平家は大敗北し、一門の人々も多く死んでいく。「平家物語」にはその様子が生々しく描かれている。武蔵国の住人・熊谷直実は『よい大将軍と戦いたいものだ』と磯に向かい、馬を進めていたところ『萌黄匂の鎧を着て、鍬形を打った甲の緒を締め、黄金作りの太刀』を帯びた敵将を発見する。沖の船を目指して逃げ様とする敵将に向かい『卑怯なり』と挑発した熊谷。
その敵将が引返し、渚に上がったところを、熊谷が組付き、格闘となる。しかし、熊谷がいざ敵将の甲を押し上げて見ると、16歳ばかりの、自分の息子と同じ年頃の若者の顔があった。この若者こそ、平敦盛。平経盛の子で、清盛の甥に当る16歳の少年である。
熊谷は、少年の首を取るのは忍びないと思い『名乗られよ。お助け申そう』と告げる。少年は、自らは名乗らずに『お前の為にはよい敵だ。名乗らず共首を取り、後で人に訪ねればよい。見知っている者もいよう』とのみ云う。
それを聞いた熊谷は『立派な人物だ、助けたい』と心中願っていたのだが、そこに味方の軍勢が50騎ばかり現れる。
『お助けしたいとは思いますが、我が軍勢、雲霞のごとく迫っています。逃れる事はできないでしょう。他人の手に掛るよりは、この直実によって……後のご供養も致しましょうぞ』と涙ながらに語る熊谷に、敦盛は只『さぁ、早く首を取れ』と云うのみ。そうは云われても、熊谷は同情し、どこに刀を突き刺せば良いやら、見当も付かない。朦朧とした意識の中で、泣きながら、少年の首を取る事になる。
首を包もうとした時、少年が持っていた笛(敦盛の祖父・平忠盛が鳥羽院から拝領した笛・小枝)を見つける。『戦陣に笛を持って来た人はおそらくいまい。身分の高い公達は優雅な事よ』と熊谷は思いつつ、少年の首を義経に見せる。その首を見て、涙を流さない者はいなかったと云う。
その少年が平敦盛である事を熊谷は後で知る。それによって、熊谷は出家の意志が益々強くなったと云う(「平家物語」)。熊谷が出家した理由は、所領を巡る紛争だったとする説もあるが、定かではない。‥‥‥

      06時頃 織田信長、出陣の合図ホラ貝を吹かせ立ったまま湯漬けを食べ出陣。熱田神宮に向かう。付いてきた家臣は5人。
      08時頃 織田信長、熱田神宮に到着、戦勝祈願を行ない善照寺砦に向かう。軍勢は200人程。丸根砦陥落し今川軍が入り松平元康は大高城に移動し休憩。
      10時頃 中島砦の織田軍先鋒300人程が今川軍本体に突撃も敗走。今川義元に織田軍撃破の報告、今川義元『義元の矛先は天魔鬼神も防げない』と喜び酒宴を開く。
      12時頃 織田信長の下に諜報隊から『おけはざま山に人馬の休息』と報告。織田軍は今川本陣近くまで進軍。その時、突然の豪雨。
      13時頃 織田信長、空が晴れるのを見て今川本陣に突撃、不意を突かれた今川軍は総崩れ。戦闘は1~2時間で決着。今川義元は毛利良勝に討ち取られる。織田信長、全軍を集め勝ちどきを上げると、村人に戦死者の埋葬を命じ清洲城に帰陣。
      夕刻 松平元康、休息していた大高城で今川義元の死を知る。夜中に岡崎に移動、菩提寺の大樹寺に入る。
1560年5月20日 織田信長、首実検を行なう。討ち取った首の数は織田軍3000首、織田軍の死者1000人程。
1560年5月23日 岡崎城にいた今川軍が駿河に退却。松平元康、11年ぶりに岡崎城に入る。
1560年8月23日 織田信長、美濃に侵入を始める。
1560年8月 長尾景虎、北条氏康討伐の為関東へ出陣。
1560年 将軍・足利義輝、キリスト教の布教を許可。海外交易で幕府の財力強化を図る。
1561年2月 織田信長、松平元康に和議を持ちかける。松平元康、今川氏と手を切り織田信長と組む事に決定。
1561年3月7日 長尾景虎、上野国より相模国に入り小田原城の北条氏康・北条氏政父子を攻める。
1561年3月16日 越後守護代・長尾景虎、上杉憲政より関東管領を譲り受け上杉政虎と名乗る。鶴岡八幡宮で就任式を行なう。
1561年8月16日 上杉軍、妻女山に布陣。
1561年8月24日 武田軍、茶臼山に布陣。8月29日に本陣を海津城に移す。
1561年8月 木下藤吉郎(25歳)、清洲城下の足軽長屋でおね(14歳)と結婚。
1561年9月10日 川中島の合戦:上杉正虎、武田晴信と信濃川中島で戦う。計5回の川中島合戦の内4回目。此の合戦が最も激しかった。また、才女山を深夜に上杉政虎が降りてくるとか、上杉政虎と武田晴信の一騎打ち、の逸話が多い合戦。
      01時頃 武田軍軍師・山本勘助がキツツキ戦法を実行。別働隊が上杉本陣の裏手へ進軍。上杉軍、濃霧の中、密かに妻女山を下る。
      06時頃 八幡原で濃霧が明けると武田本隊の前に上杉本隊の大軍が現れる。不意を衝かれた武田軍総攻撃に遭い武田信繁・山本勘助が戦死。
      10時頃 上杉正虎、自ら武田信玄の本陣に突っ込み馬上から武田晴信に斬りかかる。
1562年1月 清洲同盟:松平元康、尾張清洲で織田信長と盟約。
1563年7月6日 松平元康、徳川家康と改名。
       ルイス・フロイス(31歳)日本上陸:肥前国に上陸。カトリック教会司祭で宣教師。ポルトガルのリスボン出身。1548年に16歳でイエズス会に入会。同年に派遣された東インドでフランシスコ・ザビエルと出会う。約30年間、九州等でキリスト教を布教。1597年に長崎で死亡。著書は「日本史」の他「日欧文化比較」「イエズス会日本通信」等多数ある。
1563年9月 三河一向一揆:~1564年3月。三河の領国化政策を着々と進めていった徳川家康。しかしこの政策は、同時に農民や寺院への過酷な収奪となって現れ、その過程で三ヶ寺のもっていた不入特権が侵害された為、その擁護を旗印に領国内の反対派の国人・土豪・農民・一向門徒等が蜂起。本多正信以下三河武士の半分程が一揆勢に加わる。
1565年4月17日 毛利元就、尼子義久が籠城する月山富田城の総攻撃開始。
1565年5月19日 永禄の変:将軍・足利義輝(30歳)、三好善継・松本久秀によって殺される。細川晴元・三好長慶との対立抗争の為しばしば京都を逃れた。永禄元年三好長慶と和睦し、織田信長ら諸大名の力を利用して将軍の権威回復に努めたが、松永久秀らに攻められ自害。鉄砲技術の導入に意を用い、自ら撃剣を塚原卜伝に学んだと伝えられる。松永久秀、足利義輝の弟・周暠(しゅうこう)を殺害、もう一人の弟・覚慶(かくけい)を幽閉、その後脱出し越前・朝倉義景の保護下に入る。
1565年11月 武田信玄と織田信長が同盟。武田勝頼と織田信長の養女が婚約。今川領が草刈り場となり織田信長は美濃を狙う。
1566年9月24日 木下藤吉郎(30歳)、美濃墨俣城を築き斎藤龍興の兵を破る。
1566年11月19日 毛利元就、尼子義久の居城出雲の月山富田城を攻略。
1566年12月29日 徳川家康、今川の勢力を駆逐し三河を平定。
1567年8月15日 織田信長、斎藤龍興の稲葉山城を攻め落とす。
1567年10月10日 松永久秀、政権の主導権を巡って仲間割れした三好三人衆を東大寺で破る。この際、大仏殿焼失、大仏も腰から下を残し焼け落ちる。
1567年10月 織田信長、美濃加納に楽市令を出す。
1568年2月8日 足利義栄(よしひで)、第14代・征夷大将軍に就く。三好氏に迎えられて将軍となったが、同年織田信長が足利義昭を立てて入京したので阿波に逃れ、その後病没。
1568年2月 武田信玄、三河国の徳川家康と今川氏の領土を分け合う密約を交わす。徳川家康は遠江国へ侵攻し、武田信玄は駿河国へ侵攻するという内容。
1568年7月25日 織田信長、越前から近江を廻ってきた足利義昭を美濃で迎える。
1568年9月12日 織田信長、上洛の途、近江の六角氏が上洛阻止に動いた為織田軍が応戦し六角氏を観音寺城から追い出す。
1568年9月26日 織田信長と足利義昭が上洛。摂津の富田に滞在していた将軍・足利義栄が阿波へ避難。京都にいた三好勢は織田軍勢を恐れ阿波に撤退。
1568年10月18日 足利義昭、第15代・征夷大将軍に就任。
1568年10月 織田信長、自国の関所を撤廃。また堺には矢銭(やせん:軍資金の為の税)を要求。
1568年12月 武田信玄、駿河国攻めを開始、駿府を占領。その後、北条氏政、駿府を攻略、武田信玄、帰路を絶たれる事を危惧し甲斐へ退却。今川氏真は駿府を取り戻すが北条氏の庇護下に入った事で今川氏は事実上滅亡。
1568年 八十年戦争:カトリックを強制する宗主国スペインとの間で蘭独立戦争が勃発。









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