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ザ・日本人 応天門の変~

866年9月22日 応天門の変:応天門放火の罪により伴善男父子を流罪。大内裏八省院の正門応天門が炎上した事件をめぐる宮廷の政変。応天門の炎上は放火とされ最初は伴善男の証言により源信の仕業とみられていたが藤原良房の工作により源信は罰せられず、逆に伴善男が真犯人と分り処罰された。伴善男は源信の失脚を謀ったが、この事件により一族は殆ど政界から追放され、古代からの名門大伴氏の声望は失われ、反対に藤原良房の名声が高まり北家の栄達、摂関政治への道が開かれる事となった。国宝「伴大納言絵巻」はその顛末を描いている。
869年5月26日 貞観地震:20時頃 陸奥国東方沖を震源地とした巨大地震が発生。千人が死亡、当時の日本の人口約664万人、東北は約56万人。マグニチュードは8.3~8.6と推定。この時、清和天皇20歳治政下。
※貞観地震に付いて
出展:亘理図書館貸出図書「東北は国のまほろば-日高見国の面影 著者 中津攸子」
貞観(じょうがん)十一年(869)五月二十六日二十時。陸奥国東方沖を震源地とした巨大地震が発生しました。マグニチュードは8.3~8.6と推定され、地震に伴う大津波が押し寄せました。「日本三代実録」には、「陸奥国の地大いに振動す。(空を)流れる光が(夜を)昼のように隠映(照らす)し、しばらくの間人々は叫び、身を伏して立てなかった。ある者は倒れた家屋(のため)に圧死し、ある者は地割れに体を埋めた。驚いた馬や牛は奔走し、あるいは互いに踏みつけあい、城や倉庫、門や櫓、土塀や壁が崩れ落ち、覆り、その数は分からないほどだった。海鳴りの声は雷鳴に似て、潮は湧き、川は漲(みなぎ)って長くさかのぼり、忽(たちま)ちにして城下に至った。海を去ること数十百里、諸々の崖が弁(わきまえ)られないほどの大水であった。原野も道路もことごとく広大な海となり、(津波から逃れようとしても)船に乗るいとまはなく、山に登ることも及びがたく、溺死者千許(ばか)り、資産も苗稼(びようか:稲の苗)も殆ど残るものはなかった。」と記録されています。「城下に至る」は津波が多賀城まで押し寄せたことを安倍氏が報告した者と思われます。
869年5月 新羅海賊が2艦で博多に来寇、豊前方面で略奪。以後、夷俘を西国に移し警護に当たらせる。
869年10月13日 第56代・清和天皇、詔で復興理念と復興施策(使者の派遣、被害者への食糧供給、死者の埋葬、被災者の税免除等)を表明。
869年10月23日 清和天皇、紫宸殿に於いて大般若経を転読。
869年12月8日 清和天皇、陸奥国の刈田嶺神社への叙位。
869年12月14日 清和天皇、伊勢神宮へ奉弊。
869年12月17日 清和天皇、五幾七道諸国の諸社へ班弊(はんぺい)。
869年12月29日 清和天皇、石清水神社に奉弊し神仏に祈願。
869年 相次ぐ災害発生から霊を鎮める祇園御霊会が開催。後の祇園祭。970年から毎年開催。
871年4月8日 鳥海山大噴火:マグマ噴火し溶岩流発生。朝廷の対応は、山腹にある墓と骸骨の撤去、大物忌神(おおものいみのかみ:ご神体は鳥海山本体)への鎮謝、漏刻の設置、従三位勲五等大物忌神に対する正三位への昇叙。
872年 藤原良房(69歳)没。藤原基房の子、藤原基経が摂政を引き継ぐ。
876年11月29日 清和天皇(27歳)譲位。譲位して病気を治す事と相次いだ国家の災害を自らの譲位によって鎮め様とした。第57代・陽成天皇(9歳)即位。藤原基経が摂政。因みに、清和天皇の子息が臣籍降下した流れに「清和源氏」が誕生、源頼朝へと続く。他に武田氏・足利氏・新田氏らが生まれる。
878年3月15日 元慶(がんぎょう)の乱:俘囚の反乱。秋田城が焼き討ちにされる。秋田城下12の蝦夷村の俘囚が秋田城司の苛政に絶えきれず反乱を起こし、それに秋田県北部は朝廷の管轄外であったにも係わらず津軽蝦夷が反乱軍に加わり国司の苛政を訴える。
878年3月下旬 権掾・小野春泉・文室有房ら、精兵を率いて秋田城に就き反乱軍と戦うも敗れ城北・郡南の公私の社宅をことごとく焼損、戦死者多数。
878年4月下旬 出羽国軍6百人、焼山付近で俘囚軍1千人と戦い5百余人戦死。
878年4月28日 上野・下野両国に各1千人の援軍を派遣する様命じる。
878年5月4日 藤原保則を出羽権守に任じる。
878年5月下旬 出羽国軍と陸奥国の救援軍、秋田旧城に集結。反乱軍に包囲・攻撃されて戦死者多数。秋田旧城に集積していた甲冑・軍粮・馬等の軍需物資もことごとく奪われる。
878年6月8日 小野春風を鎮守将軍に任命。
878年8月29日 反乱軍の3百余人が城下に来て出羽国司らに会って「心憂」を述べ帰降を願い出て許可される。
878年9月25日 上津野で反乱軍の説得に当たっていた小野春風が陸奥軍470人を率い「賊首」7人を従えて秋田営の北に到着、彼らの帰降を受け入れる様要請。
878年12月10日 反乱軍2百人が帰服を求める。清原令望は偽装を疑うが鎮守将軍・小野春風は受け入れを主張。出羽権主・藤原保則も小野春風に同調。また、渡嶋の夷首103人が同族3千人を率いて秋田城に来航し津軽俘囚で「賊」に与しなかった者、百余人と共に帰服してきたので出羽国として饗応しねぎらう。武力鎮圧より民生安定を旨とする政策変更。
879年6月26日 出羽権主・藤原保則、諸国軍を解散し出羽国に列兵(常備兵)1657人を配置。
884年3月 第57代・陽成天皇(17歳)病気を理由に退位。理由は、陽成天皇が内裏で殺人。藤原基経が退位を迫った。第58代・光孝天皇(55歳)即位、藤原基経が関白。その陽成天皇は82歳まで長生き。
887年8月 光孝天皇、病気になり臣籍降下した源定省(さだみ)を親王に戻し皇太子とし、その決まった翌日、光孝天皇(58歳)没。第59代・宇多天皇即位。全て藤原基経が指揮。
887年 阿衡の紛議:宇多天皇即位の際、藤原基経を関白に任じた勅書中の字義の解釈が原因で起きた事件。「宜しく阿衡(あこう:支那風に関白を表現したものであるが名前だけの名誉職)の任を以て卿の任となすべし」との詔が藤原基経に下されたが、宇多天皇に反感を持っていた藤原基経は、阿衡とは位だけで職掌を伴わないからと、一切の政務を見なかったので天皇は勅書を書き直した。藤原基経、政務をボイコット。
   南海トラフ巨大地震発生。大きな被害発生。
891年2月 藤原基経(56歳)没。宇多天皇は「天皇による政治」を目指し菅原道真を抜擢。
893年5月 新羅賊が肥後に侵攻、民家が焼亡。翌年に掛けて新羅来襲が相次ぐ。
894年8月 新羅賊、対馬襲撃で官舎焼亡、人民の殺傷。大宰府として援兵の防人の派遣要請。
894年9月18日 菅原道真の建言により遣唐使の派遣を廃止。この時代、新羅・唐の国内が乱れており政情不安等状態であった事から行程の危険性大。
894年9月 寛平の新羅来襲事件:新羅の海賊が45艘で対馬を襲撃。捕虜とされた者は『新羅では穀物が不足し民衆は苦しんでおり都の治安も悪化している』
897年 宇多天皇(31歳)譲位、第60代・醍醐天皇(13歳)即位。宇多太上天皇、菅原道真・藤原時平(藤原基経の子)を醍醐天皇の補佐役に付ける。
899年 第60代・醍醐天皇、藤原時平の左大臣に対して藤原道真を右大臣に任命。
901年2月 菅原道真、太宰府に左遷。藤原時平『菅原道真は、醍醐天皇を廃し自分の娘婿を天皇に即位させようとした』と讒言。菅原道真『東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな』。菅原道真の子供4人も土佐・駿河・飛騨・播磨に流される。
903年2月 菅原道真(59歳)、大宰府で没。
905年 醍醐天皇の命令により古今和歌集が編纂。古今和歌集でひらがなが使われる。紀貫之・在原業平(ありわらのなりひら)・小野小町等。
907年 唐が滅亡。唐の地方軍司令官、朱全忠が唐の哀帝を廃し後梁を建国、国が乱立し五代十国時代へ。
909年 藤原時平(39歳)没。
913年 菅原道真の後任、源光(みなもとのひかる)が泥沼で溺死。
915年8月17日 十和田大噴火:日本史上最大の噴火と云われる。疾走中の毛馬内火砕流の上には火山灰を多量に含む熱い入道雲が立上がり、それはやがて上空の風で南へ押し流され仙台の上空まで達した。
918年 新羅末期の国内動乱を制し高麗王朝が樹立。
923年 醍醐天皇の皇子が21歳で死去。藤原時平・源光の死等は菅原道真の怨霊による祟りではないか?醍醐天皇、菅原道真左遷の勅許を破棄、右大臣の官位を回復させた。しかし、930年内裏に落雷があり死傷者が、その3ヶ月後に醍醐天皇(45歳)没。
926年 朝鮮半島白頭山噴火。この噴火で渤海国が滅亡。
927年 延喜式法典完成。
934年12月30日 紀貫之が土佐国国司の任期を終え帰京する時、海賊が怖くて夜に舟を出し帰京。日記に『雨も降らず風も吹かない。海賊は夜は行動しないと聞いて、夜中頃に舟を出し、阿波の海峡を渡る。夜中なので西も東も見えない。男も女も一心に神仏に祈って、この海峡を渡った』。
935年2月 平将門、常陸で伯父・平国香・源護と戦い平国香を殺す。
935年 高麗、朝鮮半島を統一。
936年 藤原純友、海賊追捕使に任ぜられる。
937年 平将門、追捕使に任ぜられる。
    高麗から日本に使者が939年に掛け数回送られ、建国に伴い国交を求める。日本は新羅以来の警戒感でこれを拒む。
938年4月17日 天慶の乱:俘囚が反乱し秋田城の軍と交戦。翌日には官符が3枚発せられ精兵の訓練と要害堅固、国内の浪人を身分の高下に係わらず動員する事、大物忌神の山が燃えるとの占いがあるので祀り鎮める事が指示された。「貞信公記抄」によると、反乱した俘囚は秋田郡に到り官稲を奪ったとある。
939年11月 平将門の乱:下総国猿島郡岩井(茨城県坂東市)を拠点とする平将門が常陸国衙を略奪して焼払い、「印綬」を略奪し国守・藤原維幾(これちか)らを捕らえた。この直接の原因は、平将門を頼って常陸から下総に逃れた藤原玄明(はるあき)を助ける為、国軍と衝突する事になったとする説と、藤原維幾の子、藤原為憲が将門の仇敵・平貞盛と結んで平将門を挑発した事に中心をおく説とが共に将門記に見える。律令制度の瓦解の始まり。
939年12月11日 平将門、数千の兵で下野国に進軍、更に15日上野国にも進軍、殆ど抵抗を受けずに国府を占領。
939年12月19日 平将門、上野の国司を追放して国庁に入り、弟や従者を伊豆と関東諸国の受領に任じた。この時、八幡大菩薩の使と口ばしる昌伎から位記を授けられ「新皇」と称する様になる。
939年12月26日 藤原純友の乱:藤原純友、海賊を率いて乱を起こす。藤原純友の配下が京都に火を放ち、また、軍勢を率いて摂津国須岐駅(兵庫県芦屋付近)で備前国国守の一行を襲撃、その後、淡路国を襲い兵器類等を略奪。第61代・朱雀天皇(16歳)ら朝廷は、東の将門・西の純友が連携し平安京を挟み撃ちかと衝撃。藤原純友は藤原北家の流れを継ぐ中流貴族、伊予国の国司として海賊の鎮圧等に当り、任期満了後そのまま伊予に土着、936年頃までに地方官や海賊集団を配下に置き海賊の棟梁となる。1千余の舟を持って瀬戸内海近郊で海賊行為。
940年1月11日 東海道、東山道に平将門討伐の太政官符が下る。
940年2月10日 朝廷、藤原純友に従五位下を授ける。朝廷は軍事を平将門に集約する為、藤原純友に官位を授け時を稼ぐ算段。
940年2月13日 平貞盛(平将門の従兄弟)・藤原秀郷(下野の豪族)ら約4千の兵を整える。
940年2月14日 平将門、兵団に休養を与える。これを知った平貞盛らは下総国辛(幸)島に平将門を討つ。
940年4月25日 藤原秀郷、将門の首を進上。平将門の首は平安京東市にさらされる。が、その後!『何ヶ月経っても生きているかの様な目を見開き、夜な夜な“首を繋いでもう一戦しよう”と叫び続ける。その後、将門の首は怨念により故郷の東国に向かって飛んで行き、その途中の土地土地に落ちた…』と云う伝説が残る。
940年6月 朝廷、藤原純友討伐軍を出す。
940年8月 藤原純友、伊予・讃岐の国府を襲撃、財物を略奪、その後も諸国の兵船や国府等を襲撃。
941年2月 藤原純友、拠点の伊予国日振島が朝廷軍から攻撃を受ける。
941年5月20日 藤原純友、太宰府を攻め様としたが、朝廷討伐軍、博多津に上陸し突撃。藤原純友軍壊滅状態。藤原純友の乱終わる。
941年6月 藤原純友、伊予国に逃れたが逮捕され獄中死或いは惨殺された説も。平将門乱・藤原純友の乱は武士の時代を到来させる出来事。
946年5月 第61代・朱雀天皇(24歳)、母親の勧めもあり弟に譲位、第62代・村上天皇即位。村上天皇と父親の第60代・醍醐天皇の時代が『理想の政治が行なわれた時代』として「延喜・天暦の治」と称えられる。
947年 北野天満宮建立:京都市上京区馬喰町に鎮座。旧官幣中社。菅原道真を奉る。道真は903年に大宰府に流されて死んだが、その後しきりに京に災異が起こった。世人はこれを道真の怨霊の祟りとし942年鎮魂の為これを奉り、947年現在地に神殿を建てたと伝える。959年には右大臣・藤原師輔が壮麗な社殿を建て、8月5日(後4日)を官祭として朝野の信仰を集めた。また往生守護の神・文学の神・書道の神としても尊崇された。権現造りの社殿は、1607年豊臣秀頼の再建で国宝。
960年 北宋支那統一し建国。宋の時代に世界三大発明と云われる「黒色火薬」「羅針盤」「印刷術」が発明。日本から硫黄・金・銀・真珠等が輸出される。
   安倍晴明(40歳)、天文得業生となる。見習いの立場。
967年7月 第62代・村上天皇(42歳)没。第63代・冷泉天皇(18歳)即位。冷泉天皇、精神的に不安定なところがあり関白・藤原実頼、左大臣・源高明が補佐。
969年 安和の変:藤原氏が起こした他氏排斥の疑獄事件。藤原氏が源高明排除を図った陰謀、源高明を太宰府に左遷。藤原氏の摂関政治が定着。
973年頃 紫式部誕生。
986年6月22日 寛和の変:藤原兼家が奸計(かんけい:悪だくみ)によって第65代・花山天皇(18歳)の譲位を謀り、その結果娘詮子(せんし)の生んだ第66代・一条天皇(7歳)が即位、藤原兼家が外戚として権力掌握に成功した事件。藤原兼家は、一条天皇の即位を早める為、藤原兼家の子・藤原道兼(26歳)と僧・厳久(げんきゅう)をして花山天皇に出家譲位を勧めさせ藤原道兼も出家を誓ってこれを唆した。花山天皇は花山寺に於いて出家したが藤原道兼は巧みに逃れ出家しなかった。一条天皇が即位すると藤原兼家が摂政となり、藤原兼家も昇進しその子孫が長く繁栄。この変に安倍晴明も加担した模様。
990年 一条天皇(11歳)、藤原道隆の娘・定子(ていし:14歳)入内。定子を支える女房として清少納言。清少納言、1001年頃まで宮中に仕える。
993年 陰陽師・安倍晴明(72歳)、みそぎで一条天皇(14歳)の急病を回復させ高い位を授かる。
994年1月 天然痘が九州から始まり全国的に流行、多くの死者が出る。
995年6月 関白に就任したばかりの藤原道兼(35歳)天然痘で没。7日関白と呼ばれる。
995年7月 4月頃から貴族達にも感染し、これまでに序列五位位上の貴族67人死亡。朝廷が壊滅状態になる。序列七位権大納言・藤原道長(30歳、藤原兼家の五男)が生き残る。
996年6月 花山法皇の女性問題で藤原伊周が花山法皇を襲撃。藤原道長、藤原伊周を左遷、藤原北家内の争いに勝利し権力を掌握。
996年 紫式部、越前の国司となった父・藤原為時に従って越前に赴く。
998年 藤原道長、元々天皇家の離宮「宇治院」があった場所に別荘「宇治殿」を建立。後の平等院。
   紫式部、藤原宣孝と結婚。しかし、藤原宣孝、1001年没。
999年 一条天皇の皇后・定子、敦康親王を出産。
1000年2月 藤原道長(35歳)、長女・彰子(13歳)を一条天皇(21歳)に入内。
1001年1月 一条天皇の皇后・定子(24歳)、女児出産直後に没。
1001年 枕草子:清少納言著完成。一条天皇の中宮・定子(ていし)に仕えていた頃の宮仕えの体験等を日記・類聚(るいじゅう)・随想等の形で記し、人生や自然、外界の事物の断面を鋭敏な感覚で描く。
1005年 安倍晴明(85歳)没。
    紫式部、藤原道長の要望により宮中で皇后・彰子(19歳)の教育係として出仕。が、宮中でのいじめにより直ぐ自宅に引きこもる。結果1012年頃まで仕える。
1006年5月 紫式部、再び宮中に出仕。一条天皇、先の皇后・定子が忘れられず、彰子を訪れなかった。彰子の下に通わせる為、藤原道長は紫式部に源氏物語を書かせ一条天皇を彰子の元に通わせる。
1008年9月 一条天皇の皇后・彰子(21歳)、敦成(あつひら)親王出産。
1010年 藤原道長、二女・姸子(けんし:17歳)が居貞(おきさだ)親王に嫁ぐ。
1011年6月 一条天皇、病が重くなり攘夷。居貞親王が第67代・三条天皇(36歳)即位。
1012年 源氏物語:1004~12頃成立か。物語は3部に分けてみる事が出来る。平安時代中期の作で世界最古の長編小説と云われる。天皇の子・光源氏を主人公に貴族達の恋愛と人生を描いた。作者は中宮・彰子に仕えた紫式部。宮仕えの日々は「紫式部日記」に書いた。本名や生没年は不詳。
1016年1月 藤原道長、三条天皇に譲位を迫り、藤原道長の孫、第68代・後一条天皇(9歳)即位。藤原道長摂政に就任。
1018年10月16日 藤原道長、三女・威子(19歳)、後一条天皇(11歳)に入内。これで藤原道長の娘3人が天皇の皇后に。藤原道長(53歳)、入内した祝いの宴席で『この世をば 我が世とぞ思う望月(満月)の 欠けたることの なしと思えば』。
1019年3月28日 刀伊(とい)の入寇:支那女真族、約3千人の規模で壱岐・対馬・北部九州を襲撃。壱岐では島民5百人足らずで150人以上が殺害、3百人近くを連れ去り生き残ったのは35人とも。この女真族の末裔が清朝皇帝の一族で溥儀へと繋がる。
1019年3月 藤原道長、息子の藤原頼通(26歳)に地位を譲り出家。以降、藤原頼通が摂政・関白を始め約50年間権力者となる。
1019年4月7日 刀伊が筑前国怡土(いと)・志摩・早良三郡に侵攻。
1019年4月8日 刀伊が筑前国那珂郡能古島(福岡市西区)を襲撃、布陣。太宰府長官・藤原隆家が朝廷に連絡、同時に豪族と防御態勢を整える。
1019年4月13日 刀伊が肥前国松浦郡を襲撃、肥前国の源知(みなもとのしらす)が撃退、刀伊は退散。
1019年4月17日 刀伊の一報が朝廷に届き会議を開き、要衝の警護強化、神社仏閣での祈祷等が決まる。
1019年4月25日 刀伊を撃退した報せが朝廷に届く。『朝廷の決定前に決着した私闘なので論功行賞はなくて良い』と決まる。
1019年4月29日 日本を襲った刀伊、朝鮮半島の元山沖で高麗水軍の攻撃により壊滅状態。劣勢の刀伊は捕虜の多くを海に投じ潰走したという。救出された日本人捕虜男女259人。
1019年6月15日 対馬の長峰諸近、刀伊に奪われた家族を取り戻す為、高麗に向かい、7月7日に帰国。家族は亡き者となっていた。
1019年9月22日 高麗側の虜人送使・鄭子良が日本人の被虜者270人を伴い対馬に来着。
1021年 藤原道長の四女・嬉子(きし)を敦良(あつなが)親王に嫁ぐ。
1027年12月 藤原道長(62歳)没。
1028年 平忠常の乱:~1030年。関東で起こった内乱。平忠常は上総・安房の国府を襲い房総を占拠したが31年、追捕使・源頼信に戦わずして降伏。これ以後、関東では平氏が衰退し清和源氏が進出。 平忠常は平将門の従兄弟。安房の受領殺害、朝廷は平直方を討伐に派遣するも失敗。後、源頼通を討伐に派遣。源頼信は、その後関東に地盤を築く。
1038年10月27日 延暦寺僧徒強訴:天台宗座主・慶命が亡くなり次の天台座主の任命を巡り朝廷と延暦寺の意見が対立。延暦寺の2千~3千の僧が比叡山を降りて朝廷に押しかけた。第69代・後朱雀天皇の仲介により延暦寺の希望する教円が天台座主に就く。延暦寺僧徒強訴、以後盛んとなる。
1050年 多賀城の在庁官人であった平重成が秋田城介に899年以来の任命される。鬼首で陸奥守・藤原登任と平重成の軍勢は阿倍を討とうとしたが大敗。胆沢鎮守府を掌握していた阿倍氏は衣川の外まで及ぶ様になり租税を納めず力役も務めなかった。阿倍氏は実質的に胆沢鎮守府を納め辺境地方政権を樹立し様と考えていた。一方、多賀国府は阿倍氏勢力と直接に向き合う朝廷の最前線と云う性格を有する様になっていた。処が阿倍氏は奥六郡の南限である衣川関を超えて南の多賀国府の管轄領域に勢力を広げ様としていた。そこで、朝廷は阿倍氏の勢力を衣川以北まで押し戻す様命じた。
1051年 前九年の役:俘囚・阿倍頼良が反乱、源頼義を陸奥守に任じて追討させる。
1052年3月28日 藤原頼通、宇治別業を寺とし平等院と号す。翌年、鳳凰堂が建てられる。その中の阿弥陀如来座像は仏師・定朝による。
1052年5月 一条天皇の中宮の病により大赦が行なわれ阿倍氏の罪も許される。阿倍頼良は恭順し名前を阿倍頼時と改名。
1053年 源頼義、鎮守府将軍をも兼務する事となる。実質的に鎮守府を掌握していた阿倍頼時は源頼義の代官となる。
1056年 源頼義は陸奥守の任期を終える頃、鎮守府将軍の務めを果たす為、鎮守府に10日程滞在。その帰り、阿久利川の辺で野営した際、藤原光貞・元貞らの陣に何者かが侵入し人馬を殺傷すると云う事件発生。源頼義は藤原光貞を呼んで嫌疑の人を問う。藤原光貞の答えは阿倍頼時の長男の安倍貞任が、先年、藤原光貞の妹と結婚したいと申し入れをしたが安倍貞任の家族が賤しいので許さず、安倍貞任はこれを深く恥とした、と云うものであった事から源頼義は安倍貞任の行為と断定、怒って安倍貞任を罰しようとした。しかし、阿倍氏はこれに強く反発し戦いとなる。怒った安倍頼時は衣川関を閉じ源頼義の軍はこれを突破できなかった。実質的にはこの合戦から前九年の役が始まる。
1057年9月 阿倍頼時、青森地方の豪族であった阿倍富忠との戦いで戦死。
1062年8月9日 源頼義、腰を低くし出羽の仙北の俘囚の主・清原光頼とその弟の清原武則に援軍を請い、結果、清原武則に率いられた1万人の軍勢は栗原郡営岡(たむろがおか)で源頼義軍と合流。
1062年9月17日 源頼義、厨川柵を攻め安倍貞任を殺害、数日後、安倍宗任ら一族も降伏。前九年の役終わる。
1063年 源頼義、源氏の氏神である石清水八幡宮を相模国由比郷に勧請。後の鶴岡八幡宮。
1064年 清原武則、鎮守府将軍に任ぜられる。鎮守府が蝦夷を支配する為の機構から蝦夷系豪族の力の拠点に変質して行く。清原氏の勢力範囲は岩手・秋田両県にまたがる広大なものとなった。
1066年 ノルマン人(バァイキング)がイングランドを征服してノルマン朝を建国。
1068年 第70代・後冷泉天皇没。第71代・後三条天皇(35歳)即位。「延久の善政」と云われる後三条天皇の改革が行なわれた。第59代・宇多天皇以来、約170年に及ぶ藤原外戚時代が終了。
1069年 延久の荘園整理:後三条天皇により国の土地と荘園の分類が行なわれる。藤原摂関家・大寺院等の荘園には打撃となり朝廷の税収入が好転。藤原頼通と決定的に決裂。
1070年 延久の合戦:後三条天皇は即位後、延久新政とも云われる政治改革を断行。大内裏の再建と征夷の完遂を政策として打立てる。これを請け、陸奥守・源頼俊は軍を編成し国府を発ち北上する。遠征途上、藤原基通が国司の印と国正倉の鍵を奪い逃走する事件が発生。都に下野守・源義家から、藤原基通が印と鍵を持参して投降して来たので逮捕したとの報が入る。朝廷は同年8月1日に源頼俊を召還する宣旨を発した。同年12月26日付けで源頼俊から朝廷へ大戦果を挙げたとの弁明が届く。翌年5月5日、朝廷は源頼俊に陸奥での謹慎を言い渡した。戦後の論功として清原貞衡は鎮守府将軍に任ぜられたが源頼俊に対する行賞は何もなかった。
1072年 第71代・後三条天皇譲位、第72代・白河天皇(18歳)即位。後三条天皇は、藤原摂関家から政治を取戻す為、院政を行ない、院が政治を執行、天皇が式典等を執行する体制を作る。
1073年5月 後三条天皇(40歳)没。
1079年6月2日 延暦寺僧徒1千余人が強訴。
1083年9月 後三年の役:陸奥守兼鎮守府将軍・源義家赴任。源義家、清原家衡と争う清原武則の孫である清原真衡を助けて清原家衡を攻める。清原真衡による平氏接近の一連の動きと清原真衡に権力が集中し一族の長老や清原真衡の弟である清原清衡・家衡達が権力から排除される様になった。清原真衡は清原氏内部からでは無く平成衡を養子と迎えた。その平成衡が妻を迎える饗宴の際に長老の吉彦秀武は砂金を朱の盤にうずたかく積上げて頭よりも高く捧げて庭に膝まついたのに清原真衡は囲碁に夢中で吉彦秀武の方を見向きもしなかった。怒った吉彦秀武は出羽へ逃げて行き清原真衡は吉彦秀武を責める為に出陣した。これがそもそもの原因である。
1086年11月26日 第72代・白河天皇(34歳)、第73代・堀河天皇(8歳)に譲位し院政を始める。第71代・後三条天皇が定めた皇位順を無視。
1087年11月14日 源義家、出羽国金沢柵を攻略し清原家衡・武衡らの追討を報告。後三年の役終わる。出羽へ向かっていた清原真衡は病で没。その後、清原家衡が決起し清原清衡を抹殺し様と計り妻子を殺された清原清衡は辛うじて逃れ、源義家に助けを求める。源義家は金沢柵に籠城した清原家衡を射殺した。
1094年 堀河天皇(16歳)、藤原師通(もろみち)が関白となり天皇親政を強行。
1095年 白河上皇を警護する為、「北面の武士」を設け、源平等の武士団を登用。白河院の御所の北側に詰めた事から「北面の武士」。エリート武士貴族の政界進出の拠点となり、平清盛・源義朝・佐藤義清(のりきよ:後の西行)が輩出。
1096年8月 白河上皇、娘が死去し出家して法皇。娘の邸宅・六条院に菩提を弔う為の御堂を建立。
1096年 ローマ教皇によりエルサレムをイスラム教徒から奪還するため第1回十字軍派遣。
1097年 伊勢平氏の平正盛(平清盛の祖父)が伊賀国の荘園を「六条院御堂」に寄進。平正盛、「北面の武士」に抜擢。
1098年 この頃、藤原(清原)清衡、豊田館(岩手県奥州市江刺区)を出て平泉に進出。
1099年6月 藤原師通(38歳)没。
1105年2月 藤原清衡、中尊寺の建立に着手。
参考資料:中尊寺建立供養願文
出典:亘理図書館図書「平泉藤原氏 著者 工藤 雅樹」より抜粋
中尊寺境内のある重要な伽藍の落成に当たって、清衡がどの様な趣旨でその伽藍を建立したのか等を記したもので以下の内容が記されている。
『この鐘の音が及ぶ所では、あらゆる所で苦しみを抜き、楽しみを与え、全てのものにあまねく平等に響く。東北の地では、官軍・蝦夷の別なく戦いに死んだ者は古来より多く、獣・鳥・魚・貝の殺されたものも計り知れない。現在、これらの霊魂は、全て他方の世界に消え去り、朽ちた骨は、この世の塵となっている。この鐘の声が地を動かす度に、罪もないのに命を奪われた者達の霊魂は、極楽浄土に導かれるであろう。
それはひとえに鎮護国家の為である。何故ならば自分は東夷の遠囚(おんしゅう)である。聖代の戦いのない時代に生を受け、長い間平和で良く治まっている世の仁恩を受けてきた。その為に蝦夷の村々では事件も少なく、蝦夷の世界でも心配がない。この様な時に当り、自分は父祖の余業を受け継ぎ、あやまって俘囚の上頭の地位にある。出羽・陸奥の人々は風に草がなびく様に、粛慎(みしはせ)・挹婁(ゆうろう)と云う海の彼方の「えびす」も太陽に向かう葵の様に自分になびき従い、特に何もせず、安らかに三〇余年を過ごしたにも係わらず、この間自分が果たすべき歳毎の貢は間違いなく果たし、鳥や動物の革なども約束の時間に遅れる事なく京都にお届けしてきた。
しかし既に杖郷(じょうきょう)の齢(よわい:60歳)を過ぎた。どうしてこれまでのご恩に感謝しないではおられようか。そこでこの寺を作り禅譲法皇(白河法皇)、金輪聖主(崇徳天皇)、太上天皇(鳥羽上皇)、国母仙院(鳥羽中宮璋子・待賢門院)のご長寿、ご無事を始めとして朝廷の高官から五幾七道の万民に至るまで、全ての知性を楽しみ、長生きできる様に、御願寺としてこの寺を作るものである』
戦乱に明け暮れた清衡の前半生から、平泉に拠点を置いて全東北に影響力を行使できる様になった後半生までを総括し様としたところに、この伽藍の造営を決意した理由がある事を、願分の文面から汲み取る事が出来るだろう。

1107年7月 第73代・堀河天皇(29歳)没。白河法皇、堀河天皇の皇子で自身の孫に当る第74代・鳥羽天皇(5歳)即位。白河上皇、専制君主として本格的な院政を始める。
1117年 藤原公実の娘・璋子(しょうし)(17歳)、鳥羽天皇(15歳)に入内。璋子は入内しても鳥羽天皇とは同衾せず白河(65歳)御所へ。間もなく璋子、鳥羽天皇の第一子・顕仁(あきひと:後の崇徳天皇)を産む。
    藤原基衡、毛越寺庭園を造営。
1123年1月 白河法皇、第74代・鳥羽天皇(21歳)に譲位させ第75代・崇徳天皇(5歳)即位。鳥羽天皇、この後、崇徳天皇は白河法皇の実子ではないかと疑心し疎む。
1124年8月 藤原清衡、中尊寺金色堂建立。
1127年 北宋の皇帝一族の高宗が南宋を再建、杭州に都を移す。金の産地である北方を失った南宋は奥州藤原の金を重宝。奥州藤原は南宋との貿易で財政基盤が安定。
1128年7月13日 藤原清衡(73歳)没。
1129年7月 白河法皇(77歳)没。白河法皇の強烈な個性に負うところが大きかった専制性が院政のあり方として定着し次代以降に受け継がれる。鳥羽上皇(26歳)の院政が始まる。
1132年 平忠盛、各地で海賊を鎮圧する等活躍著しく昇殿が許され、その後、西日本を中心に平氏繁栄の基礎を築く。
1139年 鳥羽上皇と藤原長実の娘・得子(とくし)の間に皇子・体仁(なりひと:近衛天皇)を産む。





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