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ザ・日本人 壬申の乱~ 

壬申の乱から続けていきます。
672年5月 近江朝廷、尾張・美濃に命じて山陵造営の為の人夫徴集。大海人皇子、舎人から『人夫徴発、しかも彼らに武器を持たせている。山陵を造ると云うのは名目。近江から大和の飛鳥に至る道に斥候を置き警備している』旨の連絡を受ける。更に吉野に食糧を運ぶ道が封鎖される。
672年6月22日 大海人皇子、事前工作の為に舎人3人を美濃に派遣。徴兵と不破関の封鎖を命令。これが戦乱の始まり。
672年6月26日 大海人皇子側、美濃での軍動員3千人で不破道を制圧。美濃の軍約3千人、尾張の軍役2万人と合流。大海人皇子は伊勢の朝明(あさけ)郡に着。大海人皇子、迹太川(とほがわ)の辺で天照を拝む。
672年6月27日 大海人皇子、鸕野を桑名に残し不破へ向かい、野上(関ヶ原の東)で高市皇子の出迎えを受ける。大海人皇子、『近江朝には知略に長けた大臣らが居るのに自分には幼い子供が居るだけだ』と嘆き、高市皇子『私が兵士を率いて戦います』と力強く答える。この時点で兵士数万に膨れ上がる。
672年6月29日 壬申の乱:大伴吹負、飛鳥を占拠。古代日本最大の内乱。天智天皇の皇子、大友皇子に対し、皇弟、大海人皇子が兵を挙げて勃発。背景として東国の豪族が大海人皇子につき、大友皇子への協力が得られなかったのは天智天皇の独裁的な政権運営に地方豪族が反発、西国の豪族は白村江に徴兵され疲弊、大友皇子への皇位継承を大義名分がないと認めず。
672年7月2日 高市皇子からの報告を受け軍兵を分けて大和と近江に向け発進。
672年7月4日 大伴吹負、大和国と山城国の境の及楽山で近江朝廷軍と戦い完敗。
672年7月5日 近江朝廷軍、一挙に攻勢に出て河内・山城からの攻勢だけではなく、甲賀から伊賀へと侵攻。大海人皇子を追う。
672年7月7日 大海人皇子軍、息長(おきなが)の横河で近江朝廷軍を破る。
672年7月9日 大海人皇子軍、大伴吹負に援軍を差し向け、軍を建て直し西方に向かう。
672年7月13日 大海人皇子軍、安河の浜で近江朝廷軍を破る。
672年7月22日 瀬田の唐橋の決戦:近江朝廷軍、瀬田橋の決戦に敗北。
672年7月23日 大海人皇子軍、大津京に突入。大友皇子(25歳)、山前(やまさき)に逃れ自ら首をくくって自殺。壬申の乱終わる。
672年7月26日 美濃国不破に陣取っていた大海人皇子の下に大友皇子の首が届く。
672年8月25日 大海人皇子、右大臣中臣金ら8人を死罪、左大臣蘇我赤兄と御史大夫勢人は流罪、他は赦免。大友皇子に最後まで付き従っていた舎人物部連麻呂は赦免された後、遣新羅大使となり、文武朝以降は右大臣にまで登り詰める。
672年9月8日 大海人皇子、鸕野が待つ伊勢桑名に凱旋。翌日、桑名を出発、遠征して来た道を戻る。
672年9月12日 大海人皇子、飛鳥古京に戻り島宮に入る。3日間滞在した後、岡本宮に移る。岡本宮は母皇極天皇の宮殿。その宮殿の南に新宮を造営、これが飛鳥浄御原宮。
673年2月27日 大海人皇子(43歳)、飛鳥の浄御原宮で第40代・天武天皇として即位。天武天皇は皇族だけで政局を仕切る皇親政治と云う独裁政権を打立てる。ここで始めて「天皇」と名乗る。鸕野皇后(29歳)。
673年4月 天武天皇、娘の大伯皇女(13歳)を伊勢神宮に仕えさせる為初瀬の斎(いつきの)宮に住まわせる。そこで大伯皇女は身を清める。天武天皇は伊勢神宮を「国家の祖先神」として社殿の整備に着手。大伯皇女は初代斎王。
674年10月 大伯皇女、伊勢に向かう。
675年1月5日 天武天皇、占星術を開始。
675年 唐は朝鮮半島領有を諦め朝鮮を支配する為の都護府を遼東へ移す。新羅の独立が全うされる。
    則天武后、『為政者の盧舎那仏造立が国家の安寧をもたらす』との考えで高さ約17mの石仏、盧舎那仏建立。遣唐使も見学したと云わる。後の奈良大仏の参考。
676年 天武天皇、国家統治の拠点として本格的な宮都の地を探索始める。
679年9月 吉野の誓い:天武天皇が鸕野(うの)皇后(後の持統天皇)・草壁皇子・大津皇子・高市(たけち)皇子・河嶋皇子・忍壁(おさかべ)皇子・芝基(しき)皇子を前に、天皇と6皇子が互いに二心を抱かない事を誓い、それに対して草壁皇子が、天皇の勅のままに扶けあって逆らわない事を誓い合う。
680年 薬師寺完成。天武天皇が鸕野皇后の病気平癒を願って建立に着手。
681年2月 天武天皇が律令制定を命ずる詔を発令。また、草壁皇子(20歳)皇太子を発表。
681年3月 天武天皇、「日本書紀」「古事記」編纂を命じる。
683年2月1日 天武天皇、大津皇子(21歳)を朝政に参加させる。
683年7月15日 天武天皇、病の床から群臣達に『天下の事、大小を問わず、悉(ことごと)く皇后と皇太子に啓(もう)せ』と命じ鸕野と草壁皇子に全権を委ねる。
683年 富本銭発行。日本最初の貨幣とされている。
684年 新城(にいき)の藤井が原に藤原宮建設を決定。689年、草壁皇子が没して新宮建設は頓挫。
    八色の姓(やくさのかばね)制定:真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)の八つの姓の制度。中央集権化、貴族と地方豪族の差別化を図る。
686年5月 天武天皇の病気が草薙剣の祟りであるとの占いから、即日、剣は尾張の熱田社に返還される。以前、熱田社から盗まれた剣が宮中に安置されいた。
686年7月 天武天皇、病臥の為天下の事を皇后・皇太子に上申させる。
686年9月9日 第40代・天武天皇(56歳)没。鸕野(うの)皇后(42歳)、即位せず政務を執る。「称制」を執る。草壁皇子(25歳)。この時代、天皇になる年齢は30歳以上とされた。
686年10月2日 大津皇子(24歳)の謀反発覚。翌日、皇子は磐余(いわれ)の池の近くで処刑。鸕野皇后が、我が子、草壁皇子の将来への安全の為抹殺した模様。妃の山辺皇女は髪を振り乱し裸足で駆け付け、後を追って殉死、見る者は皆涙を流す。大津皇子、二上山山頂に葬られる。
686年11月 大伯皇女、父天武天皇の死により伊勢斉王の任を解かれ飛鳥に戻る。弟大津皇子の死の後であった。『うつそみの 人にある我や 明日よりは 二上山を 弟世(いろせ)と我がが見む』
689年4月13日 次期天皇になる筈の草壁皇子(28歳)が急逝。鸕野(45歳)皇后、草壁皇子の嫡子軽皇子(7歳)を何としても即位させたかった。今までの天皇は兄弟継承であったが鸕野皇后は天武天皇の直系相承と云う新たな皇位継承を認めさせる事を模索。
689年6月29日 鸕野皇后、飛鳥浄御原令(きよみはらりょう)を発布。律令による政治が行なわれる。天皇・皇后・皇太子等の称号を公的に制度化。飛鳥浄御原令は天武天皇が編纂を指示、鸕野皇后が称制中に完成。
689年8月 鸕野皇后、諸国司に対し①この冬に戸籍を造る事、②来年9月迄に浮浪者を捉える事、③国毎に4人に1人を兵士として徴発し武事を習わす事を命じる。
690年1月1日 鸕野皇后、第41代・持統天皇(46歳)即位。草壁皇子が死んだ事から軽皇子(8歳)を次期天皇とする為に即位。即位式では天つ神の寿詞の奏上を行い神の璽(しるし)の剣と鏡を奉呈。これらの儀式は初めての事であり、持統天皇は神が選ばれし天皇と云う事を宣言。この儀式が現在に受け継がれる。持統天皇、今まで女帝である場合は皇太子が立てられるが皇太子ではなく半年後、高市皇子を太政大臣に任命。
690年7月5日 持統天皇、高市皇子を太政大臣に任命。
690年9月1日 庚寅戸籍作成:租税の個人別徴収制等。これにより中央集権・公地公民の体制が整う。689年8月に発出した命令によるもの。
690年10月29日 持統天皇、高市皇子が主となり藤原京の造営に向け着手。天武天皇の遺志を継ぐ。遷都の最大の目的は大極殿を正殿とする朝堂院を造り国家儀礼の場として整備する事。儀礼制度を整備する事により律令国家の完成を目指した天武天皇の悲願。
690年 唐・則天武后が自ら帝位に就く。
691年10月27日 持統天皇、藤原京建設の為、地鎮祭を執り行う。
692年3月6日 持統天皇、中納言大三輪朝臣高市麻呂の反対を押し切り伊勢行幸。
694年12月6日 藤原京(橿原市高殿付近)に遷都。機能・構造等から唐の長安城の大極宮の機能と構造を模倣。天武天皇が計画し持統天皇が遷都。
694年 宮城郡山郡衙2期整備を実施。実質上の国府機能を備えたもの。藤原宮を基に設計。
696年7月10日 天武天皇の長男、高市皇子(43歳)没。
697年2月 持統天皇、軽皇子(15歳)を立太子に就任。
697年8月1日 持統天皇、譲位し軽皇子(15歳)を天皇に。第42代・文武天皇即位。持統天皇(53歳)は太上天皇として政務を続ける。文武天皇、即位と共に藤原不比等の娘宮子が妃に。
697年 持統太上天皇、万葉集編成着手。
698年 高句麗に支配されていた地域に震国を建国、713年渤海に改名。旧高句麗人・靺鞨人等により建国。後の満州族等に繋がる。
700年3月 大宝律令編纂開始。刑部親王が主宰。
701年8月3日 大宝律令制定:班田収授や戸籍等の制度により豪族の土地・民衆支配は否定され、地方行政組織として国郡里制が成立し、中央政府による統一的な土地・民衆支配となる。ここに、主権・領土・法律・軍隊を全て備えた国家が確立。実務担当者は藤原不比等。翌年施行される。国号を「日本」と規定。大化改新が結実。
701年12月27日 大伯皇女(41歳)没。飛鳥に戻ってからは父・母・弟の菩提を弔いつつ静かな余生を送る。
702年6月 第七次遣唐使派遣:粟田真人を執節使(全権大使)としたこの時の遣唐使は白村江の戦い以来断絶していた日本と唐の国交を正常化する難しい任務を帯びていた。この時の船長は安倍船人(ふなびと:23歳)。これまで「倭国」と称していた国名を始めて支那に対し「日本」の国名を用いる。支那の「史記正義」に『則天武后、倭国を改め日本国と為す』と記される。支那から完全独立。山上憶良も同船。
702年10月 持統太上天皇、45日間に及ぶ東国行幸。行幸路は三河・尾張・美濃・伊勢・伊賀を巡る。この順路は壬申の乱の折、天武天皇と行軍した道或いは天武天皇が行軍した道であった。帰京が11月25日。12月13日に病の床につく。
702年12月22日 持統太上天皇(58歳)没。遺骸は1年に及ぶ殯(もがり)の後、天皇としては始めて火葬となる。
707年2月19日 文武天皇が諸王・郡卿に「遷都の事を議らしめたまふ」と命じる。文武天皇は太政官を中心とした合議制を構築する。藤原不比等が暗躍。
707年3月 第七次遣唐使船帰国。この時、白村江の唐の捕虜となっていた10人を無事に帰国させた。捕虜は、讃岐国那賀郡の錦部刀良、陸奥国信太郡の壬生五百足、筑後国山門郡の許勢部形見らであった。それぞれに衣を一襲(かさね)・塩を賜った。船長であった船人が唐と交渉して捕虜を解放。
707年6月 第42代・文武天皇(25歳)没。文武天皇の子は首(おびと)親王(7歳、後の聖武天皇)。次期天皇は文武の母、安閇(あへ)皇女が第43代・元明天皇として即位。
708年2月15日 元明天皇、平城遷都の詔が出される。
708年 日本最初の貨幣である「和同開珎」が鋳造。
    出羽郡設置。「出羽」の意味は出羽(いでは)と云う名称で国土の先端と云う意味。出羽郡は現在の庄内地方。
710年3月10日 元明天皇、藤原京から平城京(奈良市)に遷都。都が飛鳥に再び戻る事はなかった。『青によし 奈良の都は 咲く花の 香るが如し 今さかりなり』
710年 仏教経典の写経が盛んに行なわれる。また、この頃に漢字を表音文字として用いた「万葉仮名」も発達。
   大宝律令令で官庁「陰陽寮」が設置。占い・暦・天文・漏刻の4部門に分かれ陰陽部門の役人が陰陽師となる。
   下級官人の柿本人麻呂、赴任先の石見国で没。
711年 イスラム勢力、イベリア半島(スペイン・ポルトガル)征服。
712年1月28日 「古事記」が正五位上勲五等太朝臣安万侶が献上。全三巻。但し、天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ)に編纂を命じて編纂作業が進んでいた。天地の始まりから推古天皇まで。
712年 越後国出羽郡と陸奥国の置賜郡(米沢盆地)・最上郡(山形盆地)を併せて新たに出羽国が建てられた。これらには柵があったと考えられる。
713年5月 好字二字令:郡名や郷名(郷は現在で云うと町村ほどの大きさ)の表記の多くは、大和言葉に漢字を当てたもので漢字の当て方も一定しないという事が多かった。そこで地名の表記を統一化の目的で発せられた。更に、漢字を当てる際にはできるだけ好字(良い意味の字)を用いる事になった。適用範囲は郡郷だけではなく、小地名や山川湖沼にも及んだとされる。好字二字令では、3文字の地名は兎も角として1字の地名も無理やり2字になる。
713年 国毎に地誌を纏めよとの命令が発出。これにより諸国の風土記が作成。現在残るのは出雲・播磨・常陸・豊後・肥前だけ。古老の伝承の中に「浦島伝説」「羽衣伝説」等有名な昔話が記載。
714年6月 首皇子、立太子。養老律令編纂開始。
715年5月30日 相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野6国の富民1,000戸を陸奥に配す。
715年9月 元明天皇、娘に譲位。第44代・元正天皇即位。首皇子は、まだ幼く母から独身であった娘に皇位継承。藤原不比等、孫の首皇子を即位させたかった。
715年 行政制度が50戸1里の郡里制から、里を郷に改め郷の下に小規模の里を設ける郡郷里制に改まる。
716年5月 藤原京の元興寺、平城京に移設。
716年8月 第八次遣唐使:多治比県守を押使とし大伴山守を大使とし遣唐副使に藤原宇合(22歳)・安倍仲麻呂(19歳)・吉備真備(22歳)・留学僧の玄昉らが乗船。吉備真備、遣唐留学生となり翌年入唐。経史・衆芸を学び、阿倍仲麻呂と共に唐で名声を上げた。735年帰朝、唐礼130巻・暦書・音楽書・武器・楽器・測量具等を献じた。藤原広嗣は、吉備真備と僧玄昉が重用されるのをねたみ740年2人を討つ名目で挙兵、乱を起こしたが敗死。746年吉備朝臣の姓を賜る。751年遣唐副使となり翌年入唐、754年帰国。大宰大弐に任ぜられ、在任中に怡土(いと)城を建設。764年藤原仲麻呂の反乱鎮定に功をたてる。参議・中衛大将・中納言・大納言を歴任、766年右大臣に昇った。
717年4月 行基の街頭布教が弾圧。この頃、農村は律令支配の重圧の為に窮乏は日一日と甚だしく、浮浪・逃亡の者、続出する状態。救済を求める民衆は村里に満ちていた。
717年 第九次遣唐使派遣:主な目的は文化の吸収。「日本書紀」を唐に提出、唐から『不備がある』と指摘。
718年5月2日 陸奥国の石城・標葉(しめは)・行方・宇多・曰理、常陸国の菊田の六郡を割いて石城国を置く。
718年 藤原京の薬師寺、平城京に移設。
719年 駅家制がしかれ駅舎が16km毎に関東の方から陸奥にも設置された。813年に廃止。
720年2月29日 隼人の乱:~721年7月7日。隼人側は数千人の兵が集まり7ヶ所の城に籠城。これに対して朝廷は3月4日、大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命し隼人の征討にあたらせ、九州各地から1万人以上の兵を集め九州の東側及び西側からの二手に分かれて進軍。6月17日には5ヶ所の城を陥落。しかしながら残る曽於乃石城(そおのいわき)と比売之城(ひめのき)の2城の攻略に手間取り長期戦となる。
720年5月21日 「日本書紀」編纂終了。著者は舎人親王他による。出典は「神功皇后記」。全三十巻、系図一巻。編纂計画は天武天皇、その遺志を持統天皇が引き継ぐ形で編纂されたものと考える。天地の始まりから持統天皇まで。
720年8月 藤原不比等(62歳)没。
720年9月28日 蝦夷反乱し按察使正五位下上毛野広人(かみつけののひろひと)を殺す。10月から翌年4月まで蝦夷征討が行なわれる。
721年 出羽国を陸奥按察使の管轄下に置き出羽国の所属も北陸道から東山道へ変更。
722年 多賀城の造営が始まる。
723年4月17日 三世一身法制定:人口や財政需要の増加に伴い国家収入を増やす為、政府に於いて大規模な開墾計画の一環として発布され、期限付きではあるが開墾農地(墾田)の私有が認められた。しかし、期限が到来するとせっかくの墾田も収公されてしまう為、開墾は下火となる。天武天皇の孫である長屋王の裁断。
724年2月 元正天皇、24歳になった首皇子に生前譲位を行い第45代・聖武天皇即位。聖武天皇は藤原不比等の孫。一方、非藤原系の皇族・長屋王が左大臣に就任、政権を担う。藤原氏の影響力薄まる。
724年3月 北上川下流域を中心とする「海道蝦夷」の反乱が起こり、陸奥大掾佐伯児屋麻呂(だいじょうさえきのこやまろ)を殺害。
724年 多賀城造営:多賀柵とも。大野東人(おおのあづまびと)により造営。古代・中世の東北経営の基地。鎮守府・陸奥国府の所在地。城跡は宮城県多賀城市市川。現存する多賀城碑に724年築城、762年修造とある。平山城で外城と内城に分かれ南面する斜面に土壇・土塁が残り布目瓦が出土。8世紀末、蝦夷族長による反乱で一時焼失。坂上田村麻呂は802年に鎮守府のみを胆沢城に移す。前九年・後三年の役に源頼義の治所。建武新政の際に義良親王・北畠顕家の治所。室町時代には国府も停廃。
725年 宇佐神宮を再建。宇佐神宮は八幡総本宮。ご祭神は応神天皇・姫売大神・神功皇后。
727年 渤海使節団、日本へ初来航。唐・新羅と対立し軍事的緊張が高まる中、日本と友好関係を結び唐・新羅を牽制。翌年、日本から遣渤海使を派遣。
729年2月10日 長屋王の変:天武天皇の孫である長屋王(54歳)、謀反の疑いにより藤原宇合(うまかい)らにより邸を包囲され、長屋王は尋問後、妻と4人の息子達と共に自害。この事件は藤原氏の陰謀。その後、藤原4兄弟は政権の中枢に進出し実権を把握、藤原氏を中心とした政治体制が固まる。光明子を皇后に立てる。非皇族が皇后になるのは異例。
729年 筑前国守の山上憶良、深江辺りを巡行。
730年 聖武天皇の皇后・光明子、孤児・病者救済を目的とした非田院・施薬院を設立。施薬院の浴室で自ら千人の垢を洗い重症の皮膚病患者の膿を吸い取ったという伝説もある。
732年10月 仏西部に進攻したイスラム軍をフランク王国が撃退。この時から欧州とイスラム圏の対立が始まる。
733年12月 秋田城造営:庄内地方にあった出羽国の国府を秋田村高清水岡に遷し、程なくこれが秋田城と呼ばれる事になる。
734年5月18日 畿内七道を揺るがす地震発生。生駒断層の活動が疑われており誉田山古墳の一部が崩壊。
734年 「日本書紀」を唐に再提出。717年に「日本書紀」を唐に提出したが不備を指摘され訂正して提出するも認められず。唐側の史書の内容と違っていた。
735年 天然痘大発生:~738年。天然痘と思われる疫病が大流行。総人口の3割前後が死亡した共云われる。この疫病で、藤原不比等の息子4人兄弟(藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合・藤原麻呂)が病死。735年に大宰府に帰国した遣唐使や新羅使が平城京に疫病を持ち込んだ可能性がある。
736年8月 入唐副使従五位上中臣朝臣名代(なしろ)、唐人3人、波斯人(はしひと)1人を率いて拝朝。と続日本紀に記されている事からペルシア人が日本に来ている事を表わす。そのペルシア人の名は「李密翳(りみつえい)」と云った。
737年4月14日 陸奥出羽連絡路開削遠征:大野東人、出羽遠征。経路は、多賀城から色麻柵(加美町城生柵遺跡)・賀美郡(現加美町西部)を経て奥羽山脈を越え出羽国最上群玉野(現尾花沢市玉野付近)に至り、更に新庄盆地から北上して比羅保許山(ひらほこやま:現山形県金山町付近)に至る。至るまでの経緯として『或いは石を剋(きざ)み樹を伐(はら)い、或いは谷を埋め嶺を疏(けず)りながら道を切り拓いた。』と云う。雄勝村の狄俘が動揺した為、雄勝に入らず。
737年4月17日 参議民部卿正三位藤原房前が天然痘で没。藤原4兄弟の中心的な人物。
737年5月19日 聖武天皇、天然痘の発生は天皇の不徳に原因があるとして無実の罪の者の調査を命じ天下に大赦を行なう。
737年7月13日 藤原麻呂、天然痘で没。その後、7月25日藤原武智麻呂没、8月5日藤原宇合没。藤原4兄弟没。聖武天皇、引続き天下に大赦を出す。
737年 天然痘大流行。聖武天皇、仏教に傾倒し東北北部への領域拡大策を中止。
738年 光明子の娘・阿倍内親王(皇女)(21歳)が立太子。女性で皇太子は歴史上この時だけ。安倍内親王は後の第46代・孝謙天皇に。
   非藤原系の橘諸兄が右大臣に任命され政権を担う。橘諸兄は第30代・敏達天皇直系。
740年8月 藤原広嗣の乱:藤原宇合の長男である藤原広嗣、「玄昉・真備を除く」を名目として、任地の太宰府で兵を挙げる。11月1日には鎮圧。藤原広嗣は斬罪。
740年10月29日 聖武天皇、400人の兵士を従え鈴鹿・関ヶ原方面に行幸。藤原一門が聖武天皇を確保される前に平城京を脱出。且つ、聖武天皇の漂泊の旅であった。
       下道真備、大野東人を大将に任じ藤原広嗣討伐に向かわせる。
740年12月15日 聖武天皇、美濃の不破を経て造営中の恭仁京に到着。
740年 行政制度の改正で小さな里が消えて郡郷制に改められる。
741年3月24日 聖武天皇、国分寺建立の詔を発する。災いの続く中で聖武天皇の徳が薄く未だに政化の効果が見られない事からの決断。20年ほど掛けて全国68の国に国分寺を建立。金光明寺(東大寺)が総国分寺。
742年8月 聖武天皇、近江の甲賀郡紫香楽の地に離宮の造営を始め、間もなく紫香楽に移る。尚、聖武天皇、743年の始め恭仁京に帰る。
742年10月 鑑真招聘の命を帯びた留学僧栄叡(えいえい)・普照(ふしょう)、鑑真を訪ねる。
743年5月27日 墾田永年私財法制定:墾田の永年私有を認めた。これにより、資本を持つ中央貴族・大寺社・地方の富豪は活発に開墾を行い大規模な土地私有が出現する事となる。この時の大規模な私有土地が荘園となり、武士が存在し始め且つその存在感が高まる。貴族・寺院・地方の農民までもが土地を開墾、それらが荘園となる。境界等土地を巡る争いが増え貴族は荘園を警備する現地管理人を雇う事となる。且つ、自ら武装化し土地を守る農民も登場。これらが武士の原型となり武士達は次第に組織化され「武士団」が形成される。何れ、朝廷から派遣された国司の中には任を解かれた後も地方に土着する者が登場し、土着した元国司等高貴な家柄の者が地方の武士団と結びつき「棟梁」となって「大武士団」を形成。
743年10月15日 聖武天皇、近江国紫香楽宮で大仏造顕の詔を出す。政治の力より「三宝(仏・法・僧)の威霊」に頼ろうとした。僧・行基に協力を要請。大工事に係わった労働者・職人らは延べ260万人。
744年1月11日 聖武天皇、元正太上天皇と共に難波宮に行幸。藤原仲麻呂を恭仁京に残し政権中枢から離す。
744年2月24日 聖武天皇、紫香楽宮に行幸。難波に残った元正太上天皇は難波宮を皇都と宣す。しかし、11月に元正太上天皇は紫香楽宮に移る。
745年5月2日 聖武天皇、官人に『何処を都とすべきか』と問うと全員が『平城を都とすべし』と答える。
745年5月11日 聖武天皇、元正太上天皇と共に平城京に戻る。この時期、藤原氏が没落し橘諸兄・吉備真備ら反藤原派が台頭。
745年 楊貴妃、玄宗皇帝の貴妃となる。
    東大寺の造営始まる。
746年 慈恩寺(寒河江市):聖武天皇の勅命でインド僧婆羅門により開基されたと伝わる。国重文の仏像群も必見。
749年4月 黄金が宮城県小田郡で見つかり黄金34kgを朝廷に献じる。担当は百済王の敬福(きょうふく)。この頃、東北への移民や開拓が盛んになる。この動きに蝦夷側から反乱や抵抗が相次ぐ。
749年 聖武天皇(49歳)、阿倍内親王(皇女・32歳)に譲位。第46代・孝謙天皇即位。孝謙天皇は独身、次の天皇の座を巡り暗躍が始まる。
752年4月9日 東大寺盧舎那仏の開眼供養実施。日本国内だけでなく唐・印・ベトナム等から約1万人が参列。各国の音楽が演奏された。
753年 鑑真上人(66歳)、薩摩国屋浦に来着。鑑真は唐・揚州(江蘇省)の人、学識秀で徳望一世に高い名僧。留学僧栄叡(えいえい)・普照(ふしょう)の請いを入れ伝法の為の渡日の決心を行ない、743年より7年に至るまで5回渡航を企てたが、唐政府の妨害や暴風による難船の為、志を達する事が出来ず、眼を病んで失明する悲運に遭ったが屈せず、素志を果たし九州に来着。
754年2月1日 鑑真上人、難波に着く。2月4日平城京に入る。この時、朝廷は正四位下安宿(やすかべ)王を使わし、羅城門外で迎えた。日本の律宗の祖。東大寺に初めて戒壇を設け、聖武天皇らの帰依を受け唐招提寺を創建して戒律の根本道場とした。大僧都(だいそうず)となり大和上(だいわじょう)の号を受けた。
754年11月24日 頻発する天皇への呪詛:薬師寺の僧の行信と八幡神宮の主神大神朝臣多麻呂が天皇を呪詛の罪で流される。
755年11月 安禄山の乱:唐の節度使・安禄山、挙兵。玄宗の寵愛を一身に集めた楊貴妃一族の楊国忠と安禄山が対立、洛陽を陥れ翌年皇帝と称する。長安も占領、勢いをふるったが子の慶緒に殺された。
756年5月2日 聖武太上天皇(56歳)没。道祖(ふなど)王を立太子とする事を遺詔とする。
756年7月15日 楊貴妃、安禄山の乱により帝と共に蜀(四川地方)に逃れようとしたが途中で軍隊の反抗にあい縛り首。
757年4月4日 「孝経」の教えに背く「不孝・不恭・不友・不順の者」を陸奥国の桃生と出羽国の雄勝に配流辺境防備に当てるよう勅を発布。
757年7月 藤原朝獦、陸奥国府に赴任。橘奈良麻呂の変により陸奥按察使兼鎮守将軍の大伴宿禰古麻呂が獄死した事により欠員となっていた。藤原朝獦、藤原仲麻呂の子息。
757年 道祖(ふなど)王、素行が良くないと云う理由で立太子の地位を剥奪。藤原仲麻呂の策略。藤原仲麻呂に権力集中。孝謙天皇は大炊(おおい)王指名。藤原仲麻呂と大炊王は義理の親子関係。その後、道祖王は橘奈良麻呂の藤原仲麻呂打倒計画が発覚、その一味として拷問を受け死に追いやられる。
758年 孝謙天皇、大炊(おおい)王に譲位。第47代・淳仁天皇即位。藤原仲麻呂が描いた筋書き通りとなる。
759年9月 桃生城(石巻市北部)が造営。『大河を跨(こ)え峻嶺(しゅんれい)を凌(しの)いで桃生柵を作り、賊の肝胆を奪う。』と誇らしげに述べている。しかし、蝦夷側から見れば露骨な侵略行為に他ならない行為であった。
759年 雄勝城(秋田県大仙市)が造営。多賀城と秋田城の中継地として築かれた。それに加え岩手県地方の蝦夷に対して側面からの圧力を加える役目を負う。
   鑑真上人、唐招堤寺を建立。
761年 孝謙上皇の看病に当った僧・道鏡が寵愛を受けた為、道鏡の処遇を巡って孝謙上皇と淳仁天皇との間に不和が生じ、孝謙天皇は『国家の大事を自分が、小事は天皇が為す様に』と宣言。その後、藤原仲麻呂は反乱の挙兵と進む。
762年 藤原朝獦、多賀城碑を建立。書かれている内容は以下の通り。
    京を去ること一千五百里 蝦夷国界を去ること一百廿里
    常陸国界を去ること四百十二里 下野国界を去ること二百七十四里
    靺鞨(まっかつ)国界を去ること三千里
     西 此城は神亀元年(724年)歳次甲子(ほしがきのえねにやどるとき)に、按察使(あぜち)兼鎮守将軍従四位上勲四等大野朝臣東人の置く所也。天平宝字六年(762年)歳次壬寅(みずのえとら)に、参議東海東山(とうかいとうさん)節度使(せつどし)従四位上仁部省卿(にんぶしょうのかみ)兼按察使鎮守将軍藤原恵美朝臣朝獦修造するところ也。
763年5月6日 鑑真上人(76歳)没。
764年9月11日 藤原仲麻呂の乱:藤原仲麻呂、謀反発覚し近江へ走る。吉備真備率いる官軍、此を追討。藤原朝獦も落命。
764年 孝謙上皇、重祚。淳仁天皇を廃し第48代・称德天皇として即位。淳仁天皇は淡路の配所に幽閉され間もなく死。道鏡は新設された大臣禅師に就き、間もなく法王の地位に就く。称德天皇は道鏡を天皇として望んだが、称德天皇、和気清麻呂に神意を確かめたところ、後継の天皇は皇族であるべきと信託は逆転。称德天皇の強引なまでの道鏡擁立策に対する反対派に抗しきれなかったのか称德天皇、病気となり失意の内に770年没。
767年10月 伊治城(これはるじょう:宮城県栗原市)造営。栗原郡が置かれる。伊治公砦麻呂(これはるのきみあざまろ)は新設された栗原郡の長官に任命される。
769年 伊治村(宮城県栗原市)に農民2,500人余りを移住。
770年1月 阿倍仲麻呂(73歳)唐・長安で没。奈良時代の遣唐留学生、唐の官吏。父は中務大輔船守。717年、押使多治比県守・大使大伴山守らの遣唐使に従って吉備真備らと共に遣唐留学生として入唐。仲満と名を改め玄宗に仕えた。司経校書・左拾遺・左補闕・儀王友・衛尉少卿・秘書監兼衛尉卿(従三品)を歴任。753年、おりから入唐した遣唐大使藤原清河らと共に鑑真に会う。仲麻呂在唐54年の内、李白・王維・儲光羲・趙曄らの文人と交わり、詩歌に優れ文名を上げ唐代に名を残した。
770年 第48代・称徳天皇没。その寵愛を受けた道鏡は失脚し下野国に追放。第49代・光仁天皇(62歳)即位。その後、光仁天皇の皇后、井上内親王、立太子の他戸(おさべ)親王、謀叛の疑いにより大和の五條に幽閉、そこで没。やがて後の桓武天皇となる山部親王が立太子に就く。
774年7月25日 三十八年戦争勃発:光仁天皇、蝦夷に対して正式に征討を宣言する。蝦夷側は直ぐに桃生城(宮城県石巻市)を焼き討ち。城に通じる橋を焼落とし道を封鎖した上で桃生城の西郭を突破して城内に攻め込む。城の守備兵は懸命に防戦するが、結局防ぎきれず桃生城は敢え無く陥落。朝廷は直ぐさま板東諸国に救援軍を派遣する様命じる。しかし、鎮守将軍の大伴駿河麻呂が、敵はこそ泥の類いで大した事はないので征討を取止めると朝廷に進言。光仁天皇これに憤慨し厳しく譴責。この年の夏から秋にかけて蝦夷の騒動が続いた為、人々は皆、城柵に立て籠った模様で相当に深刻な事態であった。
774年10月 光仁天皇から厳しく譴責された鎮守将軍らは、海道蝦夷の拠点である遠山村(宮城県登米)を攻撃。多数の蝦夷が逃走したり投降してきた。
775年10月2日 吉備真備(81歳)没。
776年7月 征夷将軍大伴駿河麻呂が陸奥で没。征夷将軍は紀広純に引き継がれる。
776年9月13日 陸奥国の反乱鎮圧による俘囚395人、太宰府管内諸国に移配。
776年11月29日 出羽国の反乱鎮圧による俘囚358人、太宰府及び讃岐国に移配。78人を在京の参議以上に奴婢として与える。
776年11月 陸奥国は3千人の兵を動かし胆沢の蝦夷を討つ。この年、2万人の兵を動員して山海両道の蝦夷への総攻撃を行なう。
778年 蝦夷の反乱、一旦収束。6月26日、伊治郡の大領、伊治呰麻呂を外従五位下に叙す。
780年3月22日 多賀城炎上:栗原地方の蝦夷の族長である伊治公砦麻呂(これはるのきみあざまろ)は陸奥守である紀広純(きのひろずみ)・道嶋大楯を伊治城内で殺害、その勢いで国府の多賀城に攻め入って略奪の上焼き払う。
780年3月28日 朝廷は直ちに中納言・藤原継縄(つぐただ)を征東大使、大伴益立(ましたち)・紀古佐美(こさみ)を副使に任命し板東から数万の軍士が動員。しかし、藤原継縄は赴任せず、直接軍を率いたのは大伴益立であった。
780年9月23日 大伴益立が動かない為、征東大使に参議・藤原小黒麻呂(おぐろまろ)を任命、大伴益立解任。
781年4月3日 光仁天皇、山部親王に譲位。第50代・桓武天皇(37歳)即位。
781年5月24日 藤原小黒麻呂、70人余りの俘囚斬首で軍を解散。8月25日に入京。桓武天皇これを叱責。
782年6月 桓武天皇、大伴家持を鎮守将軍として蝦夷征討に派遣。この頃、万葉集が編纂。編者は不明であるが大伴家持の手を経ている事は確か。成立の時期は奈良時代末期と考えられるが平安時代前期に手が加えられている可能性もある。
784年5月 藤原種継(藤原不比等の曾孫)、遷都の為、山背国長岡村を視察。
784年6月 藤原種継、造長岡宮使に任命され難波宮の大極殿・内裏の移築工事を開始。
784年11月11日 桓武天皇、平城京から長岡京に遷都。理由は①平城京で仏教勢力が拡大、②水上交通の便が悪く物資輸送に問題、③奈良の豪族の影響力を排除。長岡への理由は、①淀川が流れ水陸の交通の便が良い、②藤原氏と親戚関係のある秦氏が開拓した地で新京の建設に協力を得やすい。また、天武系統から天智系統へと変わった事を示す為の目的もあった。
785年8月28日 大伴家持(68歳)没。奈良時代の政治家・歌人。三十六歌仙の一人。大伴旅人(たびと) の長子。大伴書持(ふみもち)の兄。その妻・坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)は大伴坂上郎女(いらつめ)の娘。746年、越中守、751年、少納言となり帰京、兵部少輔、防人の事等を司る。左大臣・橘諸兄の致仕、古慈悲の乱、翌年の奈良麻呂の変等、大伴一族の命運に係わる大事件の連続する中で、彼は局外者の立場に留まっていたらしい。その後、地方官等を歴任、780年参議となり右大弁を兼ね、一旦、事に座して官を奪われたがやがて復し、783年、中納言に進み、翌々年中納言従三位、春宮大夫、陸奥 按察使鎮守府将軍で没した。没後も暗殺事件に連座して遺骸のまま追罰される等、名門出身の政治家としては不遇であった。
785年9月24日 藤原種継(49歳)暗殺事件:藤原種継、長岡京遷都を主導し造長岡宮使として工事を推進。反対派の大伴継人らに暗殺。桓武天皇の実弟、皇太子早良親王が暗殺に係わったとして淡路島へ流刑、その途中で自ら断食し死去。その後、早良親王の祟りから桓武天皇の近親者が次々と死去。その為,長岡京の廃都と平安京への遷都が決定。
785年 比叡山延暦寺創建:大津市坂本比叡山にある天台宗総本山。山門・叡山・北嶺とも。最澄が入山して一乗止観院を創建、入唐帰朝後、天台法華宗の寺とした。最澄没後の823年、嵯峨天皇より延暦寺の寺号下賜。
788年12月7日 第一次蝦夷征討:征夷大将軍・紀古佐美に胆沢遠征の命が下る。板東諸国歩騎52,800余人。桓武天皇『板東の安危、此の一挙にあり。将軍宜しく之を勉むべし』と厳勅を下す。
789年3月9日 蝦夷征討軍として5万の大軍勢が、蝦夷が立てこもる胆沢(岩手県北上平野)へ向けて多賀城を発つ。これに立ち向かったのが蝦夷のリーダー阿弖流為(あてるい)。5万の軍が衣川まで軍を進めたが阿弖流為の率いる蝦夷軍が勝利。
789年3月28日 征東将軍紀古佐美、衣川を渡り「営」を3カ所に置く。
789年5月12日 桓武天皇、直ちに軍事作戦が実施されるものと期待したが、その後一向に報告が来ないので征東将軍に勅を発する。
789年5月 胆沢の合戦:阿弖流為の拠点である巣伏村(すぶしむら)で阿弖流為側はゲリラ戦で応戦し朝廷側の精鋭部隊を撃破。阿弖流為軍は13年間に渡り戦う事となる。
789年6月2日 紀古佐美、桓武天皇の勅命を無視して軍を解散。
789年9月 紀古佐美、陸奥国から帰り節刀を返上。
790年3月 征夷に備え諸国に革甲2,000領を3年以内に作らせる。征夷の為、東海・東山道諸国に軍粮の糒14万斛を準備させる。
790年 皇太子安殿親王が病に倒れる。安殿親王の病を占ったところ「早良親王の祟り」と出る。788年、桓武天皇夫人・藤原旅子(30歳)没。789年桓武天皇の母死去、790年、皇后・藤原乙牟呂(31歳)没。
791年 空海(18歳)、仏道修行を始める。
793年1月 桓武天皇、長岡京の廃都と平安京への遷都を決定。山背国宇太村に新京造営を決定。
793年2月 征夷副使・坂上田村麻呂、陸奥国に向けて出発。
794年2月1日 征夷大将軍・大伴弟麻呂、桓武天皇から節刀を授与され陸奥に出発。
794年6月13日 第二次蝦夷征討:征夷副将軍・坂上田村麻呂、10万の大軍勢が多賀城を発ち蝦夷征討。一応、朝廷側は勝利したと云う報告がなされ、それに合わせて平安京の遷都が宣言される。阿弖流為は健在で実質的には戦線は膠着状態。
794年10月12日 桓武天皇、新京に行幸し遷都の詔発布。
794年10月22日 新京に遷都。桓武天皇、新京に移る。
794年10月28日 征夷大将軍・大伴弟麻呂から戦勝報告が桓武天皇に届く。「首457級を斬り、虜150人を捕え、馬85疋を獲、落(村落)75処を焼く」と云った内容。
794年11月 桓武天皇、山背国を山城国に改称、新京を平安京と命名。以後、平安京は千年に渡る都となる。
794年 蝦夷に対して大規模な移配が行なわれる。蝦夷は貧困と社会的差別の中で抵抗し続ける。
795年1月29日 征夷大将軍・大伴弟麻呂(64歳)、平安京朱雀大路を凱旋し桓武天皇に節刀を返す。
796年11月 伊治城(宮城県栗原市)に相模・武蔵・上総・常陸・上野・下野・出羽・越後等の国から9千人もの民が伊治城に遷し置かれ郡内の各地に分任させられる。
796年 平安京に東寺、西寺が建立。
797年11月5日 坂上田村麻呂(40歳)、征夷大将軍に任命。
797年 続日本紀成立:697年から編年体の正史。六国史の一つ。 40巻。度々編集担当者が変った為、編集上の不手ぎわがあり重複記事があったり原史料をむやみに引用しすぎる欠点がある。前半の20巻は菅野真道ら、後半の20巻は藤原継縄 (727~796) らによって完成。『日本書紀』と違い支那に国威を誇示しようとする意図がない為、詔勅等を正規の漢文に直さず宣命体のまま載せる等、文飾や誇張記事が少い。
   空海(24歳)、仏教に付いて書物を書く。
800年3月14日 富士山延暦大噴火:〜802年にかけて噴火。

※蝦夷とは?
出展:亘理図書館貸出図書「古代蝦夷を考える 著者 高橋 富雄」
 「日本書紀」景行二十七年二月条
『東夷の中、日高見国あり。その国人、男女並に椎結(かみをあげ)、身を文(もとろ)げて、人となり勇み悍(たけ)し。是をすべて蝦夷という。また、土地沃壌(こ)えて曠(ひろ)し。撃ちて取るべし。』
「日本書紀」景行四十年七月条
『その東夷、識性暴強、凌犯を宗と為す。村に長なく、邑(むら)に首なし。各、封堺を貪りて並に相盗略す。また、山に邪心あり。郊(の)に姦鬼あり。衢(ちまた)に遮り径(みち)に塞(ふたが)りて、多くの人を苦ましむ。その東夷の中に、蝦夷是れ尤(もっと)も強し。男女交居し、父子別なし。冬は則ち穴に宿(ね)、夏は則ち樔(す)に住む。毛を衣(き)、血を飲みて、昆弟(あにおとうと)相疑い、山に登ること飛禽(とり)の如く、草を行くこと走獣の如し。恩を承(う)けては則ち忘れ、怨を見ては必ず報ゆ。是を以て箭(や)を頭髻(たまふさ)に蔵(おさ)め、刀を衣の中に佩(は)けり。或は党類を聚(あつ)めて辺界(ほとり)を犯し、或は農桑を伺い以て人民を略む。撃てば則ち草に隠れ、追えば則ち山に入る。』
「常陸風土記」
『古老曰う。昔、国巣(くず:俗語につちぐもといい又やつかはぎという)・山の佐伯・野の佐伯あり。普く土窟(いわや)を掘り置きて常に穴に居(す)み、人の来るあれば窟に入り竄(かく)れ、其の人去れば、更(ま)た郊(の)に出でて遊びき。狼の如き性にして梟(ふくろう)の如き情あり。鼠(ひそ)かに窺(うかが)いて掠(かす)め盗み、招き慰めらゆることなく、いよいよ風俗を阻(へだ)てき。 (中略) 或いは曰う、山の佐伯・野の佐伯、みずから賊の長となり、徒衆を引き率(い)て、国中を横行し、大いに劫殺をなす。』

801年2月14日 第三次蝦夷征討:征夷大将軍・坂上田村麻呂に節刀が授けられ、4万の軍勢を引き連れ蝦夷征討に京を出発。
801年9月27日 坂上田村麻呂から戦勝報告がなされる。
801年10月28日 坂上田村麻呂、入京し桓武天皇に節刀を返す。
801年11月7日 桓武天皇、坂上田村麻呂に従三位を授ける。
801年 蝦夷に対して大規模な移配が行なわれる。蝦夷は貧困と社会的差別の中で抵抗し続ける。
802年1月9日 坂上田村麻呂、胆沢城造営の為、陸奥国に派遣される。
802年1月 胆沢城造営:坂上田村麻呂により造営。岩手県奥州市水沢区。鎮守府が置かれ約150年間程機能した。城は一辺675mの外郭築地と城内中央に一辺90mの大垣からなる政庁域で構成。駿府・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・下野等の国の浪人4千人を胆沢城に配した。そこには、胆沢郡の郷名としては白川郷・下野郷・上総郷、江刺郡の郷名としては信濃郷・甲斐郷の名があり各地に移民村が置かれた。
802年4月15日 阿弖流為、五百余人を率いて降る。阿弖流為側は大半の戦士を失い土地は荒廃、食糧難と云う事態を生み疲弊の度を増していた。
802年7月10日 坂上田村麻呂、降伏の蝦夷首長二人を伴い入京、阿弖流為らは坂上田村麻呂の助命を請うも8月13日に河内国(枚方市)にて処刑。
803年 志波城造営:坂上田村麻呂により現在の盛岡市に築く。
804年7月 最澄(38歳)・空海(31歳)ら遣唐使船で入唐。(805年に最澄、806年に空海帰国)
805年10月19日 坂上田村麻呂、清水寺を建立。
805年11月13日 陸奥国では部内海道伝馬の制を廃止。
805年12月7日 徳政相論:桓武天皇の面前で藤原緒嗣と菅野真道(百済系渡来人の子孫)の二人が天下の徳政について論じる。藤原緒嗣は『現在天下の苦しみの大体は軍事(蝦夷との戦い)と造作(平安京の造営)であり、この二つを停める事が人民を案ずる事になる』と主張、菅野真道は強硬に異議を唱えたが、天皇が藤原緒嗣の論を是とする裁断を下し、数万規模の大軍を投入しての直轄支配領域を拡大する政策は放棄され、現在の岩手県北部・秋田県北部・青森県域は平安時代まで蝦夷の世界であり続ける事となる。
806年3月17日 桓武天皇(70歳)没。第51代・平城天皇(33歳)即位。因みに、桓武天皇の子孫が臣籍降下により「桓武平氏」等が生まれ、そこから平将門・平清盛が誕生。
806年10月 空海、20年の留学期間を切上げ、修行を終えて帰国。太宰府で足止めとなるが唐から持ち帰ったもの等の報告書「請来目録」を纏めて弁明。
806年 最澄、天台宗を開宗。
809年12月4日 平城天皇、809年4月病気の為に皇位を同母弟・神野親王に譲り平城宮に居を移す。第52代・嵯峨天皇(24歳)即位。
810年9月6日 薬子の変(平城太上天皇の変):平城宮で健康を回復した平城上皇は、東宮時代に、その後、宮に入り寵愛していた藤原薬子(藤原種継の娘)とその兄・藤原仲成らと共に重祚を企て、藤原仲成と共に再度実権を握ろうとして起こした事件。嵯峨天皇の廃立、平城上皇の重祚、平城京遷都を企てたが未然に発覚、藤原仲成は処刑、藤原薬子は自殺。その後、平安京の治安維持組織「検非違使」を設置。藤原四家の権力争いに終止符、藤原北家が主導権を握る。
811年5月23日 坂上田村麻呂(54歳)没。
 811年3~12月 陸奥出羽按察使・文室綿麻呂、爾薩体(にさつたい)村(岩手県二戸市)、弊伊(へい)村(岩手県宮古市)に対して最後の征討を行なう。
811年12月11日 征夷将軍・文室綿麻呂、陸奥国の鎮平3,800人を1千人まで削減し、38年間に及ぶ征夷の時代が終わった事を高らかに宣言する。これにより伊治城・中山柵等が廃止されたと推定される。
811年 蝦夷に対して大規模な移配が行なわれる。蝦夷は貧困と社会的差別の中で抵抗し続ける。
812年4月22日 陸奥国、海道十駅を廃止。勿来の関も機能停止。
812年11月 最澄、空海に弟子入。その後、二人は関係悪化し816年に断絶。
814年5月 嵯峨天皇、8人の子供(皇子4人、皇女4人)に対し臣籍降下を行なう。最終的に50人の子供の内、32人が臣籍降下。「嵯峨源氏」誕生。
815年 陸奥国で鎮兵が全廃され番上(交代勤務)の健士と兵士からなる軍制が発足。軍事上の緊張緩和と民衆の負担軽減策。しかし、陸奥の奥郡では移民系住民と蝦夷系住民の対立による争乱が発生。
816年6月 空海、高野山を国家の為に、また修行者の道場とする為に開きたいと嵯峨天皇に上奏し7月8日に勅許を得る。
822年6月4日 最澄(57歳)没。
823年1月嵯峨天皇、空海に東寺を与え、真言宗の僧50人が常駐し密教の拠点となる。
823年4月 嵯峨天皇(37歳)、弟に譲位。第53代・淳和天皇(36歳)即位。
830年1月3日 出羽国秋田大地震発生。
830年4月25日 淳和天皇、自らの不徳のせいで出羽国に大地震が起きたと表明。被災者に税免除、公民・夷狄の区別なく食料の給付、住居の再建、圧死者の埋葬等を詔で命じる。
830年4月26日 淳和天皇、太宰府管内・陸奥・出羽国で疫病による死者が多いので五幾内・七道諸国の国分寺で金剛般若経を3日間転読させ、殺生を禁止させる様命じる。
832年 空海、東寺を離れ高野山に隠棲。
835年3月21日 空海(62歳)、高野山で没。921年醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られる。弘法:仏教の教えを世に広める、大師:朝廷が高僧に贈る称号。
842年7月17日 承和の変:東宮坊帯刀 (たてわき) 伴健岑 (こわみね:大伴氏) と但馬権守・橘逸勢 (はやなり:橘氏) らが阿保親王の密告により謀反の疑いで突然逮捕。確証のないまま橘逸勢は伊豆配流となり途中遠江で没。伴健岑は隠岐に流され恒貞親王は責を問われて皇太子を廃される。翌8月道康親王 (のちの文徳天皇) が皇太子となり藤原氏による摂関政治が展開。
858年 第55代・文徳天皇(32歳)没。第56代・清和天皇(9歳)即位。藤原良房、事実上の摂政に就き成務を取り仕切る。(正式に摂政に任命されるのは866年)

















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