見出し画像

ザ・日本人 応仁の乱へ そして戦国乱世へ

1392年 花の御所の隣に相国寺を建立。
1394年12月 足利義満(37歳)、将軍職を譲り第4代・征夷大将軍・足利義持(9歳)就任。足利義満、太政大臣に就任。
1394年 一休宗純(6歳:臨済宗)、出家して安国寺に入る。「有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」
1397年4月16日 北山第(金閣)上棟。
1399年11月 応永の乱:大内義弘が室町幕府に対して起こした反乱。大内義弘は周防・長門等6国の守護を兼ね朝鮮貿易で巨富を得、多くの戦功をたてて強盛を誇り、足利義満と対抗。鎌倉公方・足利満兼と呼応し、領国和泉の堺で挙兵、足利義満は自ら征討し大内義弘は敗死。明徳の乱と共に足利義満の守護大名抑圧策の一つで、これにより幕府の権力は確立した。
1404年 日明貿易:明国の倭寇禁圧要求と室町幕府の貿易の利益追求が背景。1401年足利義満の朝貢使派遣で始まり04年より朝貢勘合船形式となる。足利義持の時一時中断したが足利義教が再開、1547年に終わる。輸出品は金・屏風・刀剣・硫黄・銅等、輸入品は銅銭・磁器・生糸・絹織物等。明文化移植に貢献。
1408年5月6日 足利義満(51歳)没。第4代将軍・足利義持(23歳)が事実上、将軍に就任。足利義持、足利義満の政策路線を全否定した政策を実施。幕府を花の御所から三条坊門殿に移す。
1411年 足利義持、朝貢貿易を嫌い日明貿易中止。
1415年 欧州大航海時代:ポルトガルが北西アフリカのセウタを攻略。これより、キリスト布教を通じてアフリカ・アジア・新大陸の植民地化が始まる。終わりの年は、露人の探検家セミョン・デジニョフがチュクチ半島のデジニョフ岬に到達した1648年。
1416年10月2日 上杉禅秀の乱:前関東管領の上杉禅秀が鎌倉公方の足利持氏邸急襲。足利持氏は駿河国に逃れ上杉禅秀が鎌倉を制圧。
1417年1月10日 上杉禅秀、幕府軍に敢え無く敗北、一族・従者と供に自害。足利持氏、再び鎌倉公方に復活。足利義持の弟・足利義嗣が捉えられ上杉禅秀をそそのかした嫌疑で殺害。
1419年6月 応永の外寇:倭寇の襲撃に悩む李氏朝鮮が報復として倭寇の根拠地とされた対馬を襲撃。自国民を救出し10日程で撤退。
1419年 足利義持、足利義満が造営した北山第を金閣寺を残し解体。
1422年9月7日 京都五条川原で飢饉病死者追善の施餓鬼を行なう。
1423年3月18日 足利義持(38歳)、息子に将軍職を譲り、第5代将軍・足利義量(17歳)が就任。
1425年 足利義量(19歳)没。政務は足利義持が担う。後、足利義持、病で倒れ後継者を足利義持の息子4人の中からくじ引きで選ぶ事となる。
1428年1月18日 足利義持没。翌日、くじ引きが行なわれ義円が還俗して第6代・将軍・足利義教(35歳)就任。
1428年8月 正長の土一揆:凶作や病の流行で社会不安が高まり近江で農民が徳政を求め高利貸しを営む酒屋・土倉等を襲う一揆が発生。農民初の一揆。
1429年 琉球王国誕生:琉球は北・中・南の三山に分立抗争。尚巴志により南山を滅ぼして琉球を統一。明に朝貢し、日本や東南アジアとの交易で繁栄。
1431年8月 大和永享の乱:大和平田荘の段銭未進を理由に衆徒・筒井順永が同荘荘官・箸尾某を攻撃し、翌年9月、箸尾に与同した維通は筒井城を攻め竜田社を焼き打ち。これを契機に室町幕府は越智・箸尾討伐軍を起こし以後数年間大和盆地は戦場となった。
1438年 永享の乱:鎌倉公方・足利持氏、幕府と対立、幕府軍が勝利し足利持氏、和平を申入れるが拒否され自害。鎌倉公方、一時、断絶。足利義教、全国平定。
1441年6月24日 嘉吉の乱:播磨・備前・美作の守護・赤松満祐が、第6代・将軍・足利義教を暗殺し、領国の播磨で幕府方討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の騒乱。赤松満祐の子の赤松教康は、結城合戦の祝勝の宴として松囃子(赤松囃子・赤松氏伝統の演能)を献上したいと称して西洞院二条にある邸へ足利義教を招いた。「嘉吉記」等によると『鴨の子が沢山できたので、泳ぐさまを御覧下さい』と招いたと云う。この宴に相伴した大名は管領・細川持之・畠山持永・山名持豊・一色教親・細川持常・大内持世・京極高数・山名熙貴・細川持春・赤松貞村で、足利義教の介入によって家督を相続した者達であった。他に公家の正親町三条実雅らも随行している。一同が猿楽を観賞していた時、にわかに馬が放たれ、屋敷の門が一斉に閉じられる大きな物音が。癇性な足利義教は『何事であるか!』と叫ぶが、傍らに座していた正親町三条実雅は『雷鳴でありましょう』と呑気に答える。その直後、障子が開け放たれるや甲冑を着た武者達が宴の座敷に乱入、赤松氏随一の剛の者、安積行秀が播磨国の千種鉄で鍛えた業物を抜くや足利義教の首をはねてしまった。
1441年9月3日 嘉吉の一揆:第7代・将軍候補・足利義勝に徳政を求め民衆が蜂起。この頃、京都周辺に土一揆蜂起。
1442年11月 重臣会議により推されて足利義教の息子・足利義勝(9歳)第7代・将軍に就任。
1443年7月 足利義勝(10歳)没。足利義勝の弟、足利義政(8歳)、第8代・将軍候補になる。
1443年9月23日 禁闕(きんけつ)の変:第102代・後花園天皇の内裏が襲撃放火され三種の神器の剣・勾玉が奪われる。後南朝と呼ばれる南朝復活を目論む勢力により実行。後、剣は清水寺で発見、勾玉は後南朝勢力に奪われたまま。
1449年4月 足利義政(14歳)、元服し第8代・征夷大将軍に就く。幼少の将軍が続き且つ将軍不在期間もあり細川・山名の有力守護が台頭。
1450年6月2日 細川勝元、龍安寺を創建し寺領を寄進。
1454年8月21日 畠山氏のお家騒動:足利義正は畠山持国・畠山義就(よしひろ)を支持し畠山弥三郎討伐の命令を出すものの、後、畠山持国が隠居し畠山弥三郎の勝利が確定すると畠山弥三郎に家督相続を認める。この優柔不断が応仁の乱へと繋がる。
1454年11月2日 足利義政、突然諸大名を召集し山名宗全を討つ命令を下すも中止となり、山名宗全、隠居となる。この機に足利義政、畠山義就を京に呼び戻し、畠山弥三郎、大和に落ちる。足利義政の一連の行動は、細川・山名に対する反撃と云えるが、畠山氏の内紛を一層複雑にして行く事となる。
1454年12月 享徳の乱:鎌倉公方・足利成氏、関東管領・上杉憲忠を暗殺、足利成氏と上杉氏の対立が起り足利成氏優勢で戦いが進む。この戦いが30年続く事になる。幕府が上杉方に付くと鎌倉公方・足利成氏は鎌倉を捨て古河(茨城県古川市)に拠点を移し古河公方と名乗る。鎌倉は以後荒廃し漁村化と化す。
1455年7月 畠山義就、畠山弥三郎討伐の為大和に侵攻。
1455年8月27日 足利義政(20歳)、日野富子(16歳)を正室に迎える。
1457年4月 太田道灌、武蔵国江戸城を築く。
1457年5月 コシャマインの戦い:北海道渡島半島で首長コシャマインに率いられたアイヌ諸部族が和人の圧迫に対して起こした戦い。和人によるアイヌ少年殺害を機に蜂起、多くの和人の館を占領したが、まもなく鎮圧され、以後、和人の支配が強化された。
1457年12月 長禄の変:足利義教暗殺で没落した赤松氏、再興を望んで後南朝を打ち倒し勾玉を取返せば再興も叶うと考え後南朝から勾玉を奪還し後南朝の首謀者らを殺害。
1458年6月 足利義政、細川勝元の働きかけで宗全を赦免。山名宗全は赤松氏再興を了承させられ細川勝元に対し不信感の端緒となる。
1458年8月30日 京に勾玉が移送される。土御門内裏で保管。赤松政則、幕府への出仕が認められ備前国等に土地を認められ再興を果たす。
1459年 長禄・寛正の大飢饉:~1461年。西日本で干ばつ・台風による洪水・長雨・イナゴの異常発生等で3年連続の凶作。京都では82千人が餓死。
1460年9月9日 畠山政長(畠山弥三郎の弟)、畠山義就追討の為奈良に至る。
1460年9月16日 足利義政、畠山義就・政長の双方の顔を立てる畠山家家督相続の仲裁案を双方に云い渡す。
1460年9月20日 畠山義就、仲裁案に不満を露骨に表わし京にある家臣の家を焼き払って河内に下る。足利義政、その行為に怒り諸大名と畿内有力武士に畠山義就討伐を命じる。
1460年9月28日 山名持豊、畠山義就追討の為軍を河内に進める。
1464年12月2日 足利義政の弟・義尋(27歳)、還俗し義視(よしみ)と改名。足利義視を後継者となす。
1465年11月23日 足利義尚(よしひさ)誕生。足利義政の実子。日野富子が足利義視排除に動く。(新説では日野富子と足利義視は対立していなく、足利義視は足利義尚が元服するまでの中継ぎを了承していた、とも。)
1466年8月25日 畠山義就、大和・河内で畠山政長と戦う。
1466年9月5日 文政の政変:『足利義視に謀叛の疑いあり』との讒言を信じた足利義政が足利義視殺害を図り、足利義視は細川勝元に頼る。細川邸に入った足利義視を細川勝元・山名宗全が足利義視を事実上の将軍として成務を行なう暫定政権誕生。
1466年9月6日 山名・細川ら諸大名の抗議により、伊勢貞親・斯波義敏らは失脚。細川勝元邸に入った足利義視が事実上の将軍として政務を行ない、山名宗全・細川勝元の2大大名が「大明頭」として足利義視を支える暫定政権が成立。
1466年9月11日 足利義政は足利義視に害意のない事を誓い、細川勝元ら諸大名は足利義政に忠誠を誓う。足利義政、政務に復帰。諸大名を説き伏せて足利義政の復帰を主導したのは細川勝元、足利義視を将軍にしようとした山名宗全の思惑が外れる。
1466年10月 大和・河内で畠山義就対畠山政長が衝突。翌月、中立を守っていた大乗院の仲介により和睦。
1466年12月14日 馬借一揆:近江国坂本の馬借が一揆、京都を襲撃。
1466年12月26日 山名宗全の呼びかけに応じて畠山義就、足利義政の許可を得ないままに上洛。畠山義就の背後に山名宗全・斯波義廉、畠山政長の背後に赤松政則・六角正高、細川勝元・京極持清が支援、無断で上洛した畠山義就に怒る足利義政が畠山政長の背後につく。
1467年1月1日 管領・畠山政長が将軍御所に参り垸飯(おうばん)を足利義政に献じる。畠山政長が垸飯を勤めたと云う事は足利義政が畠山政長を信任していた事を意味する。垸飯とは家臣が主君に食膳を供してもてなす儀式の事で毎年元旦に家臣筆頭頭である管領が将軍に垸飯を奉った。
1467年1月2日 足利義政は畠山政長の屋敷への御成を中止し、将軍御所で畠山義就と対面。御成の中止は畠山政長にとって大打撃となる。
1467年1月5日 足利義政は本来、畠山政長宅に「御成」する筈が、畠山義就の所(本宅は畠山政長に抑えられている為山名宗全宅)に「御成」する。諸大名も同行し、加わらなかったのは畠山政長・細川勝元・京極持清だけであった。
1467年1月6日 足利義政、畠山政長を管領職から罷免、屋敷を畠山義就に引渡す様命じる。
1467年1月15日 畠山政長らは将軍御所に押しかけ強引に畠山義就討伐命令を引き出そうとしたが、山名宗全に事前に知れ山名宗全ら警備の名目で御所を占拠。
1467年1月18日 御霊合戦:畠山政長らは御所を囲む形で陣を張る。そこへ畠山義就の軍勢が攻め込み御霊神社で衝突、畠山政長敗北、細川勝元の屋敷に逃げ込む。
1467年5月20日 細川勝元、山名宗全、その与党を京都に招集。
1467年5月26日 応仁の乱:細川側武田信賢・細川成之が一色義直の屋敷を襲い火をかけ、いよいよ東軍と西軍が激突。1478年までの約11年間に渡って継続した内乱。室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大。1493年の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。十数年に渡る戦乱は和睦の結果、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。
1467年5月28日 足利義政、細川勝元と山名宗全の両名に『一先ず戦いを止めて指示を待て!』と命じる。
1467年5月 細川勝元側が播磨・越前・伊賀等各地で軍事行動を起こす。
1467年6月3日 足利義政、細川勝元に将軍旗を与える。足利義政としては足利義視の細川側の圧力と足利義視の説得に負け、中立性が失われた。従って、調停する存在が消滅。
1467年6月28日 安芸・石見・備前・但馬・備後・播磨の軍勢が丹波を経由して京都に入る。
1467年8月23日 大内政弘、摂津国で東軍を破り入京。足利義視、西軍の報復を恐れ伊勢に出奔。後花園上皇、第103代・後土御門天皇を将軍御所に移す。
1467年9月13日 西軍、室町第・細川勝元第を攻撃、畠山義就は禁中を占拠。
1467年10月2日~4日 西軍は足利義政の講和案を無視して東軍に猛攻を加える。将軍御所の東に位置する相国寺は焼け落ち将軍御所も半焼。この後、戦線膠着。
1467年10月3日 足利義政の要請を受け後花園法皇は山名宗全治罰の院宣を下す。
1467年12月 一休和尚、戦乱を避けて地方に下る。
1467年 雪舟、大内氏の便船で入明、画法を学び1469年帰朝。幼少に相国寺に入り春林周籐についたと云われる。ここで禅僧としての修行を積むかたわら、画を周文に学んだと考えられる。
1468年3月21日 東軍側・骨皮道賢、伏見稲荷を拠点として3百人の足軽を集めていた為、西軍、稲荷山を包囲し稲荷山社は焼失。骨皮道賢惨殺。
1468年3月 室町幕府侍所の骨皮道賢により東軍は足軽を動員し下京を焼き払わせた。兵力・兵粮を阻害する為の作戦。
1468年8月 関白一条兼良、女中・家来らを連れ奈良に下る。この頃、大乱の影響で朝廷も開店休業状態。多くの公家が奈良に疎開する状態。奈良へ疎開した公家達は、連日、連歌会・猿楽・林間(風呂饗応)・酒宴等で楽しむ。
1468年9月22日 足利義政、足利義視に上洛を促し、足利義視、上洛。足利義視、足利義政に諫書(かんしょ:忠告文)を送るも足利義政の不興を買う事となる。
1468年10月16日 足利義政、伊勢貞親を政務に復帰。伊勢貞親の再登用で終戦工作が進むと思われた。伊勢貞親は足利義尚を次期将軍と合作していた事から足利義視を敵視。
1468年11月13日 足利義視、危険を感じ比叡山に逃れる。
1468年11月23日 足利義視、比叡山から帰京し、翌日、大内政弘ら西軍諸将が馳せ参じ足利義視を将軍と仰ぐ。事実上、2人の将軍が併存。西幕府誕生。
        足利義政の求めに応じ後花園上皇が足利義視を罰する院宣を出すも占拠に影響なし。朝廷権力の低下。
1468年12月5日 足利義政の奏上により朝廷は足利義視及び同調した公家達の官位を剥奪。更に足利義視治罰の院宣が発給され足利義視は朝敵となる。
1469年1月 足利義政、足利義尚を家督後継者とする。
1469年11月 南朝皇子の末裔達が混乱に乗じて大和国吉野・紀伊国熊野で蜂起。
1470年2月30日 奈良に逃れている一条兼良は、高司房平・政平父子・一条院教玄・経覚・尋尊等を招いて終日大酒と云うドンチャン騒ぎを行なう。この様な事が日常的に行なわれていた。
1471年5月21日 足利義政・細川勝元、朝倉孝景に『後日、越前守護職を与える』と云う内諾を与えて東軍に引き抜く。朝倉孝景の寝返りが戦局の転換点となる。
1471年7月 京で疱瘡が大流行。
1471年8月 南朝後胤、京都西陣近くの安山院と云う尼寺に入る。この寺の住持は山名宗全の実妹。
1471年 蓮如(57歳)、越前国吉崎(福井県あわら市)に下向して北陸地方の真宗(一向宗)の布教を開始。
1472年1月1日 山名宗全と細川勝元との間で和睦交渉が始まる。
1472年4月 細川勝元、隠居し勝元の正室である山名宗全の養女が産んだ細川政元が跡継ぎとなる。山名宗全への手打ちのメッセージであった。
1472年8月 山名宗全、隠居し家督を孫の山名正豊に譲る。
1473年3月18日 山名宗全(70歳)没。
1473年5月11日 細川勝元(44歳)没。
1473年12月19日 足利義政、息子の足利義尚(よしひさ:9歳)に将軍職を譲る。しかし、幕府の長は足利義政が掌握。足利義尚、第9代・征夷大将軍に就く。
1474年2月 東西両陣営の講和交渉が行なわれる。東軍では赤松政則が不同意、西軍では畠山義就が反対。
1474年4月3日 山名正豊・細川政元の会談が実現し和睦が成立。しかし、西軍の大内政弘・畠山義就らが和議に応じず、東軍の畠山政長・赤松政則も臨戦態勢を解かなかった。結局、細川・山名の単独和睦となる。山名一族が東幕府に降伏し東軍側となる。
1474年4月15日 山名正豊の子息である俊豊(としとよ)が将軍・足利義尚に拝謁し東幕府への帰参が認められた。
1474年 一休宗純、第103代・後土御門天皇の勅命で応仁の乱で焼失した大徳寺の住職を命じられ復興に尽力。
1476年9月14日 足利義政、大内政弘に御内書を送り終戦への協力を求め受諾を得る。大内政弘、本国が心配になってきた模様。
1476年12月 足利義視、大内政弘の進言に基づき足利義政に対して釈明し許しを乞い、足利義政はこれを受け入れる。釈明内容は『西軍への参加は謀叛の意思によるものではなく、伊勢貞親に命を狙われていた為』。
1477年9月21日 畠山義就、京都の陣を引き払い行く先は畠山政長の重臣である遊佐長直が守る河内若江城。東軍諸将はこれを追撃しなかった。足利義政が止めたものと思われる。足利義政にとっては京都から畠山義就を出す事で幕引きを図ろうとした。
1477年11月3日 大内政弘、東幕府に降伏。大内政弘、所々の知行を安堵される。
1477年11月11日 応仁の乱終結:大内政弘、京都の陣を引き払い周防への帰途につく。西軍の諸大名は自陣を焼き払ってそれぞれの本国に下った。この際、御所が類焼。足利義視、土岐成頼と共に美濃に下る。
1479年 第103代・後土御門天皇、内裏に帰還。
1480年 日野富子(41歳)が京の七口に関所を設け関銭を横領しているとして怒り、京で土一揆発生。民衆が徳政と関所の廃止を求め関所を破壊する一揆。幕府は弾圧で鎮圧。
1481年1月1日 足利義政、隠居を言い出し、同年10月、京都北郊の長谷の聖護院に隠棲。
1481年11月21日 一休宗純(88歳)没。第100代・後小松天皇の子とされる。6歳で出家、定住する事なく各地を放浪。盲目の情勢旅芸人と暮らし酬恩庵(一休寺)で没。
1482年12月 畠山義就の勢力が畠山政長を圧倒していた為、足利義尚・日野富子が畠山政長を見限って畠山義就に乗り換える事態となる。
1482年 足利義政、東山山荘(後の慈照寺“銀閣寺”)の造営開始。
    1454年12月に起きた享徳の乱、和睦が成立し終結。
1483年8月23日 足利義政の執奏により、後土御門天皇が畠山義就治罰の綸旨を発給し畠山義就は朝敵となる。しかし状況は好転せず。
1484年9月 足利義政、畠山政長の山城守護職を解任、山城を御料国(幕府直轄地)とする。
1486年12月 山城の国人(地元武士一団)が国一揆を結成(惣国)し畠山義就・幕府に圧力をかけ、結果、畠山義就軍、山城から撤退。後日、足利義政・足利義尚の両人が畠山義就の赦免を決定。住民自治が成立し8年間続く。
1486年 扇谷(おうぎがやつ)上杉の家臣・太田道灌が主君の上杉定正により暗殺。
1487年 山内上杉と扇谷上杉の争いが起きる。20年ほど続く。
1488年 加賀の一向一揆:加賀国の守護富樫政親が一向宗が広まる事に恐れ弾圧を加えると一向宗の門徒が農民を動員し守護を倒す。富樫政親自害。以後、100年に渡り支配。
1489年3月26日 足利義尚(25歳)没。死因は酒の飲み過ぎ。当面、足利義政が政務を行なう。後任は足利清晃か足利義材(よしき)に分裂。足利義政、足利義尚の菩提を弔う為銀閣寺の裏手の山に「大」の字を型取り一斉に点火させた。現在も行なわれる「大文字の送り火」の始まりとされる。
1490年1月7日 足利義政(56歳)没。後任は、日野富子が押す足利義視の子息・足利義材(後に義稙)となり足利義視が幕府の実権を握る。足利義稙、第10代・征夷大将軍に就く。
1491年1月7日 足利義視(53歳)没。足利義稙、後ろ盾を失う。
1491年8月 足利義稙、六角氏を『幕府に従わない』と云う理由で征伐に出陣。
1491年12月12日 畠山義就(54歳)没。
1491年 伊勢宗瑞(後の北条早雲)、足利正知の子・茶々丸を伊豆の堀越に攻めて自殺させ伊豆一国を奪う。下克上の最たる事件。
1492年10月 米大陸発見:伊コロンブスがスペイン国王の支援を受けて印に向かう西回りの最短コースを探索しバハマ諸島サンサルバトル島に到達。コロンブスはマルコ・ポーロが記述した「東方見聞録」が愛読書、依って、黄金の国「ジャポン」を目指したのでは、と云う見解もある。1493年3月スペインに帰国。
1493年2月25日 足利義稙(義材(よしき))将軍、河内の畠山討伐に向け京都を出発。
1493年4月22日 明応の政変:管領・細川政元と日野富子が起こした室町幕府に於ける将軍の擁廃立事件。将軍は足利義稙から足利清晃(後の義遐(よしとお)その後の義澄)へと代えられ、以後将軍家は義稙流と義澄流に二分された。将軍が家臣に追放された事で足利将軍家の権威失墜。守護大名が自らの領地支配に集中し後に地方勢力拡大へと繋がる。(鈴木良一氏が提唱して以降日本史学界に於いては戦国時代の始期をこの事件に求める説がある。)
1493年5月 足利義稙、捕えられ京の龍安寺に幽閉。その後、夕食に毒が盛られ、薬で一命を取留める事件発生。日野富子の指図と思われる。
1493年6月 足利義稙、暴風雨に紛れて京を脱出し越中へ脱走。事実上の将軍追放。越中から京奪還の協力要請を出し再起を図る。
1493年 伊勢宗瑞(後の北条早雲)、韮山城を攻め落とし伊豆の国支配。伊勢宗瑞、韮山城を整備、居城とし小田原城を狙う。
1494年6月7日 トルデシリャス条約:欧州からアジアへ向かう海洋をポルトガルとスペインの二国間で分割した条約。世界を探索と植民地化の為に両国の間で地球を二分した。ローマ法王も認める。
1494年12月27日 細川政元に擁立された足利義澄(14歳)、第11代・征夷大将軍に任命。
1495年9月 北条早雲が相模の小田原城・大森藤頼を奇襲し城を奪う。相模国の西部を支配。
1496年5月 日野富子(57歳)没。
1498年5月10日 ヴァスコ・ダ・ガマ、アフリカを南下、印のコジコーデ(カリカット)に到着。
1498年8月 明応の巨大地震:遠州灘沖を震源とする巨大地震発生。犠牲者は数万人。鎌倉大仏殿が大津波で流失。
1500年6月 約30年ぶりに京都では祇園祭が復活。
1500年9月28日 第103代・後土御門天皇(59歳)没。財政難で葬儀出来ず。
1500年10月25日 第104代・後柏原天皇、皇位継承が決定。即位の儀式は財政難で21年後に実施。天皇家は日々の食事にも困窮。餅を扱っていた川端道喜が見かねて「御朝物」と呼ばれる朝食を毎日献上。









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?