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金木犀薫る庭で

少しひんやりした風にまじって薫る秋の気配。
金木犀が咲き始める。
「あ、金木犀」
1年間その花のことをすっかり忘れているのに風とほのかな芳香に人は破顔する。
「そんな季節なんだね」
そんな当たり前の光景に少しばかりの羨望を感じてしまう。
10年以上前に遡る。
その年の3月に初めて報道があった新型のインフルエンザはブラジルで発生した。あれよという間に世界中に広がり10月には我が子の学級閉鎖という事態になってしまった。
その日グッタリした息子を救急病院に連れていくとクラスの面々に待合室で遭遇。人がものすごいことになっていた。「コレは学級閉鎖だね」と顔見知りの保護者さんと話をした。息子は熱に弱く幼いころからすぐ高熱になり、うなされる。特効薬と当時言われたタミフルはせん妄状態での異常行動を指摘されていた。この日から息子を隔離。受験の大事な時でしかも娘はバレエの発表会が迫っていた。神経を使い自身もタミフルを服用し看病した。幸い家族は誰も発症しなかった。
半年後。
「お母さん、なんか匂いがしないの。鼻が詰まってるのかな?」
「え?どうしたの?鼻が詰まってるの?大丈夫?風邪?鼻を通してご覧」
「息は出来るけど」
心配性なのに不安なことがあるとそんなことはないとすぐ否定してしまう。
「お母さんも子供の頃あんまり鼻がきかなかったし遺伝かな?病院行く?」
「病院まではいいけど」
これが春先のことだった。
気にはしていたけれど私も小学生の頃は鼻があんまりきかなかったし大丈夫、と自分にいいきかせていた。夏が来て娘は告白した。
「学校で私だけ雑巾の匂いが分からなかった」
私は顔色を変えた。「もう、病院行こう!それはもうおかしいよ」
いつもの耳鼻科にかけこんだ。
おっとりした先生だが腕はいい。
私「先生、匂いが分からないって言うんです。」
先生が険しい顔になった。
先生「いつから?」
私「春先になんか分からないかもって…」
先生「ああ、そうか…匂いはね、2週間以内じゃないと無理なんだよね」
悲鳴に近い声を上げてしまった「ええ!やだ!ごめん!ごめんね、先生それじゃうちの子はもうだめなんですか?」
私の動揺に娘も先生も看護師さんもオロオロした。
先生「いや、ちょっと落ち着いて」先生は娘に向き直って「どんな匂いが分からない?」
娘「学校で雑巾の匂いがわからなかった」
先生「うーんお母さん、風邪とか引いた?」
私「いえ、うちの子は割りと病気に平気で」
先生「インフルエンザとかは」
私「兄が豚インフルに罹りましたけどこの子は大丈夫でした」
先生「ああそれかな?去年か、罹ってないようでも罹患しててということもあるから若しかすると罹ってたかな?それで嗅覚がやられることもあるから。トイレの臭いは分かるかな?」
娘「トイレはわかるとおもいます」
娘がちゃんと受け答えしている間に情けないことに私は取り乱して「ごめん、ごめんねぇ」動揺して泣き始めた。娘が必死に「大丈夫お母さんトイレの臭いはわかるから大丈夫だよ、全く臭わないけじゃないから」どちらが親だか分からない。
先生「まァ原因はハッキリと言えないけど豚インフルエンザなら去年か、とにかく点鼻薬処方してみるからやってみて」
私「治らないんですか、ダメなんですか」
先生「まァやってみて」
親として全然ダメダメ。まず不安な娘が側にいるのに「もうダメなんですか」はない。情けない。
それなのに娘はずっと私の心配をしていた。
「お母さん大丈夫だよ。臭い匂いは分かるんだから神経が死んだわけじゃないから大丈夫、ね」
娘は小学生。動揺しているのはいい歳をした母親。私はずっとごめん、ごめんと繰り返していた。
点鼻薬はきいたのかきかないのかよくわからなかった。嗅覚神経は1度ダメになるともう再生しないらしい。段階がありどこまで大丈夫か調べる検査があるが受けなかった。強烈な臭いなどは分かるようだがほのかな香りなどは全く分からないようだった。
あの時、タミフルを飲ませていればよかったのか抗生物質を飲ませていればウイルスが神経を犯さなかったのか、ああしていたらこうしていたら、そればかりが私の頭の中でぐるぐるしていた。
残念だがタミフルを小学生の症状のない娘には処方されないであろうし抗生物質もしかり、つまり何も出来なかったし誰が悪い訳でもない。春先でも手遅れで、小学生の娘が自分の嗅覚の状態を即座に意識出来たはずもない。インフルエンザの騒ぎのときにはなんの症状もなかったのだから。
2週間の点鼻薬、それ以上何も出来ない。
少し戻ったような気がする、とは言ったけれどそれまでで完全に匂いが戻ることはなかった。それ以来私が暗い顔をするので匂いの話はタブーになった。匂いがわからなければ料理の味も分からなくなる。まだ起こっていない出来事まで心配してしまう、ドンと構えることは出来ない情けない親なのだ。
その年の金木犀の香り、娘は気が付かなかった。
数年後、懇意にしているアロマセラピストがイギリス留学から戻ってきた。私は即座に予約を入れ娘の症状を相談した。
娘は本格的にバレエをやっている。アロマセラピストの彼女に小さい頃から娘をみてもらってケアしている。問診によるとバレエダンサーには嗅覚がきかない人が多いらしい。足の指先に嗅覚神経に関わる神経があるとのこと、インフルエンザかもしれないしそれが関係しているかもしれない、どちらかはわからないとのことだったが縋るような気持ちで施術してもらった。
その際にアロマの香りがした、と娘が報告してくれた。鼻先に持っていけば匂うらしい。希望をもてた。娘はやっぱり嬉しそうだった。
私のために平気そうな顔をしているのは分かってはいたけれどやはり香りを感じられて嬉しそうな娘に胸が痛んだ。
バレエの舞台は花が贈り物。しかし娘に贈られたその美しい花の香りを愉しむことは出来ない。
「別に花とかうれしくないもん。お菓子の方がいいや」とうそぶく。
娘が幼い頃散歩の途中だったか「お母さん、なんかすごくいい匂いがするね。なあに?」
と聞いてきた。
「ああ、金木犀だよ。このお花だよ、すごくいい匂いでしょ」
「すごくいい匂い、私、このお花の香り大好き」
それ以来金木犀の季節にほのかに香り立つとすぐ報告しに来た。
「お母さん!金木犀の薫りがした」
満面の笑顔で駆け寄ってくる。私も嬉しくなって手を広げて娘を抱き上げる。
「ほんとだ薫り出したね、秋だなぁ」
「うん!金木犀が咲くと秋だなあって」
二人でくすくすと笑い合うのが恒例だった。毎年の楽しみだった。
娘は匂いの話になると大袈裟に人参の匂いだ、とかカレーの匂いだ、と言ってくれる。
私に心配するな、と暗に伝えているのだ。
高校生の頃、金木犀の巨木がある場所にうっかりその季節に行ってしまった。むせかえるくらいに薫っていた。もしかしてこれくらいなら分かるかもと恐る恐る聞いてみた。
「ねぇ、金木犀匂う?」娘は少し怒ったような顔をして「匂わない」
「そう…」
ガッカリした私に「別にいいよ」と素っ気なくいった。
今はそこまで不便なことは無いけれどほのかな薫りはやはりだめなようだ。
この季節になるとどうしても浮き立つような気にはなれない。
何か出来たのではないか、これは一生思い続ける。
金木犀は私と娘にとっては少し辛い思い出の花。
この件に関して「別にいいよ」のままの娘。
金木犀の季節。芳香に感嘆する人達に羨望の入り混じった複雑な思いを抱いてしまう。いつの日かほのかな香りを愉しむ娘を取り戻し最新技術でも医学の進歩でもないんでもいい、叶うならばあの日のように2人でくすくすと笑い合いたい。
金木犀の薫る庭で。



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ちょっと寂しいみんなに😢