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【エッセイ】球児だった頃

 現実か虚構か分からない事柄をつらつら書き殴っている私にも高校時代はあって、当時はもっぱら野球に打ち込んでおり、県下では進学校であった手前、野球部としても文武両道を掲げていたものの、電車に乗って開いたターゲット1900の英単語を3つも覚えぬうちに意識が飛び、小・中と授業中に居眠りなどしたことがなかったのに、高校の授業中はどうあがいても睡魔に勝つことができず、気づけば学年でも下から数番目の学力になっていた。

 和歌山では当時から智辯和歌山が一強で、県下の高校球児が皆、智辯の校歌を歌うことができるのは屈辱の歴史でもある。

 それでも自分たちがその牙城を崩すべく、また自分達にならそれができると信じて邁進していたのは、ひとえに青春であったと言っていいだろう。

 父にこの話をすると
「わしらの時は皆、箕島の校歌歌えたわ」
と時代の移り変わりが分かり二人で笑った。
そんな父の母校は南部高校である。

 高校野球では夏の大会で勝利したチームが校歌を歌う。
皆晴れやかで、緊張と重圧から解き放たれた表情をして歌う。

 だいたいの学校が男性斉唱の校歌に合わせて、高校球児らしく音程の合わないハツラツとした大声で、自分達の存在を示そうとする。

 私達の高校は、校歌が女性斉唱だった。
歌い出しの「みど~り~に~」がすこぶる高い。

 試合中は会話というよりは、ほぼ発声と言って良いような音を喉からひねり出す。仲間への鼓舞とも自身への慰めともつかない音を遠くまで響かせる。試合が終わる頃には全員喉はガラガラで、針のとんだCDのような話し方になる。

 そこに女性斉唱の「みど~り~に~」が来るものだから誰の声も聞こえない。超音波のような、音として聞き取れないほどの空気の揺れだけがそこにある。

 校歌が盛り上がってきた頃の「た~か~き~」の部分になるといよいよ音階も高くなるため、もはやコウモリかクジラ位しか聞き取ることはできない。

  夏の大会では吹奏楽部も応援に駆けつけてくれ、選手を鼓舞してくれる。

 演奏の始まりは一斉に始めるため圧巻であるが、打者が凡退した後の演奏の止め時は指示がないため、必ずいくつかの管楽器が「ピプッ……」と余韻を残しながら終わる。
 その余韻が、ベンチに戻る選手の背中に哀愁を与え、いざ自分が余韻を残される側になると、得も言われぬ恥ずかしさが残る。

 あの「ピプッ……」が自分の凡退したことに対する証明のように、いつまでも耳奥に残っている。

 全ての球児が感じたことのある、あの瞬間だけの孤独を、最近やっと抱きしめられるようになってきた。

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