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驚かないという柔軟性

ほぼ日本語がわからない中で突然、フツーの日本の小学校二年生に転入したフランス生まれフランス語育ちの我が家の双子。

私は学校が始まる前から色々と心配をしていた。

まず彼らは日本語ではほぼ何もコミュニケーションが取れない。トイレはどこですかだって聞けない!

話しかけても理解できないから反応ができない。となるとお友達ができないんじゃないか。

それに学校生活の何から何までフランスとはやり方が違う。

登下校は子供だけでするということから始まり、給食は教室で食べるし、食べる時間はフランスに比べて極端に短い。ちゃんと食べきれるのだろうか。掃除当番だってある。ちゃんと雑巾絞れるだろうか。音楽室とか図工室なんてフランスにはなかった。体育の時はお着替えをしなきゃいけない。上履きやら外履きやら体育館靴やら区別はつくのだろうか。

とにかくちょっと考えただけでとんでもなく大変だろうなと感じる。

一週間くらいして、恐る恐る、どんなことを思っているのだろうかと質問をしてみた。

「日本の学校に行ってみて驚いたことは何?」

すると、二人揃って、「なんもないよ!」というのだ。

え。何にもないってどういうこと?と思わず聞き返してしまった。

どう考えても違うことだらけで毎日驚きのオンパレードだろう、と思っていた私は拍子抜けてしまった。

よくよく聞いてみると、フランスの学校との違いはもちろんあるけども、だからと言ってそれが「驚き」には繋がっていないということのようだった。

そこで考えてしまった。そもそも「驚く」というのは、何かが「普通」だというスタンダードの軸を持っているからだ。自分の中のスタンダードから極端にずれていたり、違っている事柄に触れるとそれが「驚き」になる。

子供のようにこのスタンダードの軸がとても緩やかでしかもフレキシブルな場合、新しいことも「そんなもんか」とあっという間に受け入れてしまうということなのかもしれない。

大人の私の場合、何か全く知らない環境に身を置くことになったら・・・

予測できる時間があれば、とにかくあれこれと想像してみる(心配してみる)→自分のフツーと新しい環境のフツーを比較して「驚く」→世の中には別のスタンダードが存在するということを頭で理解する(しようとする)→受け入れる。

もっと簡単にいうと、予測→比較→理解→受容、こんな感じだろうか。

ところが子供達を見ていると、予測も比較も理解もすっ飛ばして受容にいく。これが純粋な柔軟性ということなんだろう。

ある程度予測(というか心配)ができるようになると、新しい冒険のハードルも高く感じて無理なことはしなくなる。例えば、語学に関して言えば、若ければ若いほど習得が早いし、大人になってから新しい語学をやったところでネイティブには絶対に敵わない、という事実を知っている。だから大人の私たちは予測という段階でいろんなことへの挑戦を諦めたり、途中で踏みとどまってしまうことも多いのではないだろうか。また、それに加えて、分別のある行動を取らなきゃいけないということもあって、新しいことへの動きはいよいよ鈍ってしまう。

そして慣れない環境や文化に置かれると私たちはまず、相手と自分はこんなふうに違う、と「違い探し」をすることから入ってしまう。同じこと探しではなく。違いが大事ではないというわけではないけれど、とにかくこうやって相手と自分は違うということを明確に意識することから入ることが往々にしてある。

一方、子供であれば語学でもなんでも習得するスピードも早いし、人間関係に関してはこのくらいの年齢ならば、乱暴な話、鬼ごっこができれば友達はできるという単純さもある。だから、違いを意識して驚いて・・・なんてしている暇はないのだ。

驚くということは新しいことの発見の出発点だし、決してそれを否定したいわけではないのだが、子供たちの世界では必ずしも「驚き」から何かが始まるわけではないのだろう。こうして子供たちの「冒険」というのは大人にとってのそれよりもはるかにアクセスしやすいところに転がっている。驚かないっていうのも一つの力なのかもしれない。

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そこで、そもそも親の私たちがなんでまたよりによってフランスでフランス語で育った子供たちを何もわからない日本のフツーの近所にある公立の小学校に入れたかったのかを思い出した。

二人は日仏家庭の子供なので、二つの言語をしっかりと習得して、バイリンガルになってくれたらという思いがあるのももちろんだが、もっと大きな意味では、自分の中に比較対象を持つことで、柔軟な考え方ができる大人になって欲しいから、だった。

どういうことかというと。良い悪いも含めて、今いるところが全てではない、他の場所には他のやり方がある、と知っているということ。簡単なことのように聞こえるが、そういった考え方を実感としてしっかり自分のものにするのはなかなか難しいことだったりする。だから子供たちには柔軟な時期に、自分たちのスタンダードを作る過程で、知っている場所での生活(フランスのとある静かなフツーの郊外の町の生活)が全てではないことを実感して欲しかった。自分が知っているものが全てだとか、それが一番だとか、他は「変だ」なんて切り捨てる前に、ちょっと待てよ、と一つ考えられるような柔軟な考え方ができる大人に育って欲しいという願いがある。世の中には本当にいろんな生活がある。そして私たちのレベルで彼らに与えられる経験は少ししかないし、これで合ってるのかどうかも正解はわからない。でもわずかであっても何かが彼らの中に残ってくれたら、と思っているのだ。

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