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謙信s信玄。究極の名人戦全貌【前半】正義の天才vs野望の策士!

戦いは常に強いものが勝つ。
勝つこと。
それは決して偶然ではない


■武田信玄という人物

徳川豊臣といった成り上がりの戦国大名とは違い、守護大名の家系だが、家督を受け継いだときの領土は甲斐一国。今の山梨県。
もっとも弱い信濃攻略(長野)に着手した。美濃や上野国を支配下におさめて、美濃を横切るなり東海道経由で洛中へ侵攻し天下を取る作戦。
織田信長も信玄は恐れ切っていた。
武田の騎馬隊である。
川中島の後のことになるが強さを示す歴史を。

〇信玄の強さを示す逸話。徳川家康の人生最大のピンチは武田信玄との戦いだった。
いわゆる三方ヶ原の戦い

家康は同盟の信長が奇襲で横綱今川義元を破り勇躍戦国の強豪として名乗りを上げたことに感嘆していた。武田信玄を破れば、自分もそれになれる。
一と月はかかる城攻めを三日平均で落としながら快進撃て西進していた信玄。家康の城を包囲した。信玄は家康をバカにするように酒宴と食事。織田からは信玄の西進を止めるように言われていた。

ところが信玄は城攻めはせずに無視をするかのように西に向かいだした。
バカに仕切った態度に家康は奮起して全軍に城を出て信玄隊殲滅の号令を発した。

罠だった。

するりと進軍した家康はいつのまにか周囲を完全に包囲されていた。おびき出されたのである。

戦国最強の騎馬隊に粉々に粉砕され、家康は城に逃げる途中に知らず大小とも排泄していたという。この完敗が家康を以上に神経質な人にしたといわれている。
この時の自分のみじめさを忘れまいとした家康はその時の様子を画に残させて折に触れ自戒のために見たという。
。。。


そもそも信玄が豪快なのはその戦歴であり、人物像は極めて繊細。疑い深く用心深いとされる。

父の信虎は国を治めていたが暴君として家臣団に追放されていた。その中心が信玄である。
人柄に陰影が伴うのもわかる。
そして信長のような独裁者ではなく、家臣団尊重。なにせ父は追放されたのである。これもイメージとは違うかもしれませんね。

■上杉謙信

省いて書くと、寺で育てられた。
上杉謙信の掲げる旗の文字は「毘」
毘沙門天である

悪を成敗するときに最強の力を発揮するといわれる。
はたして実際にそうなのかはともかく、幼少からそういわれて訓育された。
ほか、いくさの模擬の今でいうゲームのような将棋のようなものが好きで飽きることなく熱中していたといわれる。

謙信にとって、不正義を行うことは自らの力をそぐことになると思ったのだろうか?

たぶんそうでしょう。

そして、正義は我にあると思ったときは、無敵の神仏が援軍してくれると?

たぶんそうであろう。

自信満々であったはず。謙信のその自信が全軍に伝染して、確信に満ちた必勝の信念は良い影響を与えたことであろう。



謙信の強さ 対織田軍 手取川の戦い

信玄は己の野心のために織田同盟軍の徳川を殲滅した。

謙信は、室町幕府の守護職、関東管領職を見込まれて与えられたため、治安について感じやすかった。

そんな謙信にとり信長などは荒くれた外道でしかなく、前々から成敗の必要を感じていたのである。

ついにその日はきた。

織田側の能登の畠山氏。堅牢な城で名高い七尾城をまずは簡単に落とした。

原因は疫病の蔓延。そなえて多くの人を城に引き入れたところ下水関係が不衛生になったといわれる。

謙信に言わせればもしかしたら神仏の守護の証明なのかも。

つぎに織田の第一家臣、柴田勝家である。
信長の妹の配偶者でもあり、その死に際しては介錯もなく自らの腹部を何度もかいて死なれたという。

謙信vs勝家

織田軍接近を知った謙信は、直ちに七尾城を出撃、手取川付近にあった松任城(加賀郡)に入った。対して、柴田勝家は全軍が手取川の渡河を終えた所で初めて七尾城落城と謙信軍の松任城入城を知り、即座に撤退を下命したが、その途上、謙信直率の上杉軍に追撃された。結果、織田軍は1000人余りの戦死傷者、さらに増水した手取川で多数の溺死者を出す大敗を喫した。

七尾城に帰陣し普請に着した。この時、城に登った謙信は、眺望は噂に聞いたとおりの名地で、加賀・能登・越中の扇の要にあり、要害は海と一体となっていて、島々のありさまは絵に写すことの出来ない景色であると書き記している。次いで奥能登の松波城を陥落させ、能登をほぼ平定した。『満願寺所蔵松波義親肖像賛』には、天正5年9月25日、能登珠洲郡の松波城将の松波義親、上杉謙信と戦ひて死す、という記述がある。

またもタイミングが味方して完璧すぎることになった。

ちなみに信長が圧倒的存在になるのはこの二人の死後である。

義の武将謙信

信玄の甲斐は海に面していないため塩がなくなったことがあった

謙信はそれを聞き日本海の塩を送った

※敵に塩をおくる の由来


信玄は言ったとされる「謙信殿らしいことだ」

はたして二人が激突した川中島の戦いはどんなものになったのか?

信玄は最後尾から采配。謙信はタイミング次第で自ら先頭で切り込む!

②へ続く

まもなくアップします

川中島<頼山陽>


鞭声粛粛 夜河を過る
曉に見る千兵の 大牙を擁するを

遺恨なり十年 一剣を磨き
流星光底 長蛇を逸す


べんせいしゅくしゅく よるかわをわたる

あかつきにみるせんぺいの たいがをようするを

いこんなりじゅうねん いっけんをみがき
りゅうせいこうてい ちょうだをいっす

詩の意味

 (上杉謙信の軍は)鞭の音もたてないように静かに、夜に乗じて川を渡った。明け方、武田信玄方は、上杉の数千の大軍が大将の旗を立てて、突然面前に現れたのを見て、大いに驚いた。
 しかし、まことに残念なことには、この十数年来、一剣を磨きに磨いてきたのに、打ち下ろす刃(やいば)がキラッと光る一瞬のうちに、あの憎い信玄を打ちもらしてしまった。


宿敵の両軍ついに勝敗は決まらず

 本題は「不識庵機山を撃つの図に題す」と言います。
 世は戦国時代。両雄は川中島で天下制覇を目指して激突しました。謙信の刃を鉄扇で防いだ信玄はまんまとこの危機を脱しました。長年にわたって勝利に備えたにもかかわらず大敵を逃した謙信の悔しい呻きが聞こえてきそうです。日本戦史に残る名場面です。

語句の意味

  • 粛粛 もの静かなさま

  • 大牙 上杉軍の大将の旗印

  • 遺恨 残念な

  • 流星光底 流星の飛ぶ如く剣を抜いて切り下げた時の光

  • 長蛇 目指す大敵 ここでは信玄を指す




アップいたしました

自信作




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