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日常

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ただの日記
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#コラム

写真はプリントしたほうがいい

 印画紙にプリントした写真は空いたお菓子の箱に入れてしまっている。近頃じゃ写真はデジカメやスマホで撮ってプリントもしないので、きちんとプリントされた状態で残ってるものは新しくても十年前のもの、まさに「昔」だ。たまに箱を開けて昔を懐かしむのが密かな楽しみだ。  子供のころの家族旅行の写真や学生時代の写真に混じって、父方の婆ちゃんの葬式の写真が出てくる。亡くなったのは今から20年近くも前、わたしが社会に出て働くようになった頃だ。  わたしの地元では、葬儀の際、親族で集合写真を

ゴウガイタイム

 ネットオークションに新元号を報じる号外が出品されていた。号外も金で買う時代が来たのか、と驚愕するとともに、自分はこの方法で手に入れることをしたくないなと思った。  4月1日、新元号の発表をわたしは移動中のスマホで確認した。予定より10分ほど遅れて発表された元号は「令和」。あらかじめ予想なんかはしていなかったけど、「昭和」に用いられた「和」という字が入っていたことは意外だった。  「平成」が新しい元号として発表された30年前、わたしはまだ10代で、改元って言ったってピンと

それでもテレビが大好きだ

「テレビ観ないんだよね。テレビから得るものなんて何もない」と友人が言った。アンニュイな伏し目でスマホを弄りながら。 「へえ。そうなんだ」と平静を装いながらも、なんだか馬鹿にされている気分になってしまう。わたしはテレビが大好きだ。  テレビを観ない人を責めるつもりはない。だってそれは人それぞれだから。でも「テレビから得るものなんて何もない」ということばがどうにも引っかかる。  テレビはくだらないと、観てるだけ無駄だと、そう言いたいのだろうか。彼女の言ったことの真意はわから

腕時計はだれのもの?

 仕事中に腕時計が壊れた。  故障ではなく破損だ。ベルトが完全にちぎれてしまった。よくある形の、革製のベルトであればその部分だけ取り替えればいいが、わたしの腕時計はベルトがラバーで、文字盤部分とシームレスで繋がっているので、果たして直してもらえるのかどうかもわからない。がっかりした。修理に出すほど高価いものじゃないけど、とても気に入っていた。  時計を修理に出すとか、新しく買いに行く元気もなくて、翌日から腕時計ナシの生活に突入した。すぐに時刻が確認できないからさぞ不便だろ

新春初イライラ

 スープをよそい、焼けたソーセージを皿にのせて、ビン詰めのザワークラウトに手をのばす。これを付け合わせにしてソーセージを食べるのだ。  ビンはすぐには開かないだろうけど、まあ頑張ればなんとかなるでしょ。  まず、普通に手で開けてみる。開かない。まあこれは想定内。ならばとゴム手をひっぱってきて再度挑戦。意外と滑ってうまく行かない。困ったな。  もう一度素手で力一杯捻ってみる。開かない。その横で、どんどんスープが冷めていく。  Google先生に聞いてみる。いくつかの方法

わたしのことを知らない人と話したい

 わたしはいわゆる「人見知り」ではないと思っている。知らない人に話しかけることにはあまり抵抗がない。  わたしが問題なのは、ある人と「見知った」あとである。たぶん、いつもいつも、関係を「築こう」としていないのだ。だからわたしには、友達だと自信を持って言える人がほぼいない。  友達ってなんのために作るのだろうと考えることがある。一緒にどこかへ行くため?助けてもらうため?ならわたしは今のところ、友達を欲する理由というのがほぼない。どこへでもひとりで出掛けていくし、助けてもらう

ゴミの分別が出来ないヤツはママんとこに帰れ

 燃えるゴミ回収の日、ゴミ出ししようとマンション下のダストボックスを開けると、ゴミ満載で自分のは入れる隙間がなかったので、仕方なく部屋に持ち帰って次の回収日を待った。  そして次の回収日、ダストボックスを開けると前回同様パンパンで、でもこれ以上ゴミを置いておくわけにも行かず、ムリムリ突っ込んだ。  その日の帰宅時、まさかと思ってダストボックスを覗くと、やっぱりゴミがいっぱい入ってた。そのゴミをよくよく見てみると、明らかにルール違反のゴミが多かった。きちんと分別されていない

怒ることも褒めることも人前ではNO THANK YOU

 わたしじゃない別の人が目の前で怒られているという状況がとても耐えられない。どうしていいのかわからなくなる。  怒る人はほぼ感情的になって怒鳴り散らしてるから、敢えて「叱る」じゃなくて「怒る」という表現にしたんだけど、わたしはその矛先が自分に向いてるんじゃなくても怯え、一方で怒られている人の味方をしたくなってしまう。  これはやっかいな感情で、わたしは、誰かが目の前で怒られていると、ビクビクしながらイライラもしてしまうのだ。忙しいことこの上ない。怒られているのが自分じゃな

スローな自分を甘やかす技術

 なんだか元気がない。  会社には真面目に通っているが、職務上、毎日毎日「やり遂げた」感がまったくなくて、休日である土日のうち、土曜日はひたすら寝て過ごし、なんとか洗濯と掃除だけする。日曜日は何かを書こうとか、どこかに出かけようとか考えてはいるんだけど、結局たいしたことはできない。  知らないうちにナマケモノになってしまったような気分。  わたしは根っこが真面目なので「なんにもできなかった」ことに激しい嫌悪を抱いてしまう。誰だって出勤日(仕事をしなくちゃいけない日)はあ

転ぶ

 あっ、と思ったときにはもう遅かった。自分が地上数センチのところを飛んで、このままでは膝から行く、という様がスローモーションで再生される。  いい社会人が、中学校のすぐそばで派手に転んでしまったのだ。痛いと言うより恥ずかしい。このあとどうすればいいのか、うずくまったままものすごいスピードで考える。考えたって転んだ事実は変わらないのに。  今はまさに登校の時間帯で、まわりには中学生がいっぱいいるはずだ。とにかくもう恥ずかしくて顔を上げられない。でも、わたしだって出勤中で、こ

電話もメールもしないんですね

彼氏彼女に連絡するとき「電話する」とか「メールする」とかって単語を使うマンガを描いてる作者は40歳超えてる 新入社員が会社にある固定電話の使い方がわからず電話に出ない  こんなような内容のツイートをたまたま見て、ついにそんな時代になったかと背筋も凍る想いだ。  わたしは「他人と連絡を取る手段」が移り変わるのを目の当たりにしてきた世代だ。学生の頃までは手紙や電話で、会えない時の意思疎通を図ったものだが、それがだんだんポケベルやケータイ、PHSのショートメッセージやメールと

じょっぴんかる

 今や誰も使わないのではないかと思うけど、北海道には「じょっぴんかる」という方言がある。「鍵をかける」という意味だ。  ところで、みんなの家、じょっぴんかる? 今わたしは札幌に一人暮らしで、在宅中も鍵はかけてる。札幌っていったらキングオブホッカイドウってくらいの都会な訳で、そうすると人が多い分物騒だって思うんだよね。正直わたしは鍵をかけてたって怖い。  でもさ、実家は北海道でも田舎のほうで、在宅中には鍵をかけないわけよ。なんともユルい。確かに外に出てもそんな人も歩いてない

困惑タクシー

 25時。会社の戸締りをして国道沿いに立つ。地下鉄はとっくに終了している時刻で、帰宅する方法は徒歩かタクシーしかない。しかたなく1台のタクシーを止める。 「どちらまで?」と聞かれ、自宅の住所を伝える。するとドライバーはこうわたしに聞くのだ。 「どのルートで行きますか?」  これがあるからタクシーは苦手だ。わたしは道を説明できないのでそんなこと聞かれても困ってしまう。  どうして彼らは、乗せた客が道を知っているものだと思っているのか。むしろ、道を知らないからプロにまかせ

米を研ぐ

 忙しくなって、余裕がなくなって。そういう時期になるとできなくなることがある。  おしゃれできないとか読書できないとか、挙げればキリがないけれど、その中でも一番「ああ、いまわたし余裕ないな」って感じるのはごはんを作れないこと。  下手で時間がかかっても、自分でごはんを作ることはわたしにとっては癒しになっていて、生活の中でとても大事なことがらになっているのに、魚を焼く余裕すらないときはどうしたって救われない。  今は便利な世の中だから、自分でごはん作らなくたって、スーパー