腕時計はだれのもの?

 仕事中に腕時計が壊れた。

 故障ではなく破損だ。ベルトが完全にちぎれてしまった。よくある形の、革製のベルトであればその部分だけ取り替えればいいが、わたしの腕時計はベルトがラバーで、文字盤部分とシームレスで繋がっているので、果たして直してもらえるのかどうかもわからない。がっかりした。修理に出すほど高価いものじゃないけど、とても気に入っていた。

 時計を修理に出すとか、新しく買いに行く元気もなくて、翌日から腕時計ナシの生活に突入した。すぐに時刻が確認できないからさぞ不便だろうなと思っていたら、なんとそうでもなかったのだ。

 オフィスには幾つもの壁掛け時計があるし、スマホにも時計はついている。PCのディスプレイの隅っこにだって小さく時刻は出ているじゃないか。実際は、腕時計がなくたって時刻を確かめるのに困ることなんてない。だからわたしのまわりの人達だって腕時計を着けている人は極端に少ない。

 わたしは、中学入学のお祝いに父から黒い革ベルトの腕時計を贈られてから、腕時計を「切らした」ことがない。時間を確認する必要のない時以外は左腕にあるのが当たり前だった。腕時計をしない人に対して「時間のことはどうでもいいのか」と疑念を抱くほど、自分の中では時計を着けることが「常識」として刷り込まれていたのだ。あまりに長い時間を一緒に過ごしすぎて。

 そのくせ、帰宅後には一番最初に腕時計を外す。不思議なことに、コートを脱ぐより、パンストを脱ぐよりも先に、まず腕を開放したくなるのだ。「当たり前」を捨てて「自由」になりたくなる。

 腕時計を着けるのは義務じゃなくて自由意志だ。わたしは毎日毎日腕時計を「着ける」ことを選んでいた。選んだという意識もなく。でも、よく考えてみると、実際に腕時計で時刻を確認することは極端に少ない。じゃあ何のために着けているんだろう。

 この間、飲み会のあったときその理由がわかった気がした。2次会も終わりごろになって、このまま帰るか、もう一軒行くかみたいな空気になったときに当たり前のように友達にこう聞かれた。

「いま何時?」

 時間を確かめたいなら自分のスマホを見ればいい。加えてわたしの腕時計はいま生憎腕にない。なのになぜ彼女がわたしに時間を聞いたのかって言うと、わたしがいつも腕時計を着けていることを「知って」いたからだ。

 同じことは過去に何度もあった。わたしは彼女に時間を聞かれて初めて腕時計を見る。じゃあこの腕時計はもはやわたしのじゃなくて彼女のものじゃないだろうか。そう思ったらなんだか悔しかった。

 わたしよりもわたしの腕時計を使うなと。

 腕時計を持たない人は持っている人に時間を聞く。だれかが持っている、時間を教えてくれると「思える」人たちだ。一方のわたしは、自分が腕時計をしていないと、誰かが教えてくれるなんて「思えない」人なのだ。

 それは「委ねられる人」と「委ねられない人」の違いだ。

 しばらく腕時計は買わないことにする。当面困りそうにもないし、わたしだって「あっち側」に行きたいのだ。

 

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