米を研ぐ

 忙しくなって、余裕がなくなって。そういう時期になるとできなくなることがある。

 おしゃれできないとか読書できないとか、挙げればキリがないけれど、その中でも一番「ああ、いまわたし余裕ないな」って感じるのはごはんを作れないこと。

 下手で時間がかかっても、自分でごはんを作ることはわたしにとっては癒しになっていて、生活の中でとても大事なことがらになっているのに、魚を焼く余裕すらないときはどうしたって救われない。

 今は便利な世の中だから、自分でごはん作らなくたって、スーパーやコンビニに行けば、いつだってお総菜やお弁当が買える。でも、それでは味気ないのだ。万人に向けて作られたものは、自分の好みには合わないかもしれないし、例え気に入ったものがあっても、毎日同じものを摂るのではつまらない。

 自分の味の好みは、自分が一番よく知っているので、上手とは言えなくても、わたしは自分で作ったものを食べたいのだ。例え失敗したとしても、自分で手をかけたものだから「作って食べる」という行為そのものにわたしは癒されている。

 料理をするということは時間のかかるものだ。買い物に行き、何を作るか考えながら食材を選ぶ。帰って手順を考えてから、切ったり焼いたり煮たりする。出来上がったら食べて、食器のあと片つけをする。最初から最後まで通しでやると、立派にひと仕事だ。終わったあとは充足感がある。

 数年前から仕事が忙しくなり、料理をする余裕は見事に削がれてしまった。だけどもせめてごはんだけは炊こうと思い、米を研ぐ。玄米食に切り替えたのち「芽の出ていない玄米には毒素がある」というのをどこかで読んでからは、研いだ玄米を数日水につけ、芽が出るのを待つ。自家製の発芽玄米だ。

 その情報が合ってるか間違っているかということはたいして重要ではなく、この忙しいさなか、わざわざ手のかかることをやるというのがやはり癒しになった。

 なんと我が家では米を研いでから炊けるまで数日かかってしまうわけだ。仕事に例えれば「なんと効率の悪い!」といったところだろうが、その工程で米をじっくり観察していると、だんだん米に愛着がわいてきて、時間がかかっても続けたいなと思えるほどの習慣になった。

 玄米を研いで、一日ほど水に浸けておく。そのあと水を切って、空気にふれさせるようにまた一日置く。そうすると、水分をいっぱい吸った米粒からぴょこんと芽が出てくるのだ。(全ての市販米がなるわけでもないらしいのだが、わたしの購入している米はちゃんと芽が出る)

 それを見ると「報われた」という気持ちになる。仕事じゃ手間をかけても報われることがなくてモヤモヤするのに、米は手間をかけた分、きちんと報われるのだ。それを目で見ることができるのだから、とても救われる。

 毎日毎日同じことの繰り返しで、自分が役に立っているのか、仕事はきちんと形になっているのか、忙しすぎて人として大事ななにかを失ってはいないか、そういったことで焦りの気持ちを抱くときほど、わたしは一旦スローダウンして、玄米に手をかけたいと思った。ちょっとでも変化し、進んでいるのだということをきちんと認識したいのかもしれない。

 忙しいときほど、手間のかかることをしてみるのはいい気分転換になる。何をやるかは人それぞれだけど、ぐるぐる回るローラーの上で走り続けるより、たまにそこから降りてみるというのはいい方法じゃないだろうか。自分のこの頑張りは空回りではないと信じるためにも、手間をかけていれば報われること、結果が出ることを、人はひとつでも持ったほうがいい。

 昨日米を研いで、今日は水に浸している。明日には芽が出るだろうか。

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