ピアニストからエンジニアに転職して10年たった人の話
先日こんなポストをしてしまったので、この節目の機会に「ピアニストからエンジニアに転職して10年たった人の話」を綴ることにします。
2014年、まさに10年前の25歳になった頃にターニングポイントとなった転職を果たして、早10年。今年で35歳となります。
音楽しか知らなかった私がIT業界に飛び込んで奮闘した、この濃すぎる10年を振り返るのだから、とてつもなく長い駄文になること間違いありません。どうしても私のことに興味があるって方だけ先にお進みください笑
ちなみに、今回は以下記事の続編です。学生時代や3年目までの詳しい話はこちらをご参照ください。
明言していなかったピアニストの過去
まず初めに、Xの中でも書いたことではありますが、実は今まで意図的に明言せずここまで来ていたことがありました。
それは、新卒で入社した会社は、「ピアニストとして演奏活動することを前提とした特別枠」の「契約社員」での採用だった、ということです。
いわゆるスポーツ選手のスポンサー企業所属、みたいに考えるとわかりやすいでしょうか?(厳密には違うのだけど)
大学時代にはコンクールで(東日本大会レベルだけど)入賞したり、卒業後には千葉県の新人演奏会の演奏者として選んでいただいたりと、それなりに演奏家としてやっていこう!と意気込んでいた当時の私には、ぴったりの枠だ!と思い受けたポジションでした。
しかし、それゆえ職務経歴としては初期「契約社員」だったことになり、入社後苦しめられることになります。
どうして同じ仕事をやっているのに自分だけ契約社員なんだ、とか、そもそも忙しすぎて演奏活動できないんだけど、とか、周りの正社員同期と給与を比較して勝手に落ち込んだり、コンプレックスに思っていたこともありました。
そんな背景から、その後仕事で結果を出していったこともあり1年足らずで正社員に登用してもらったのですが、これが自分の行動として正しかったのかは今もわかりません。
このために私は、演奏家としての活動を諦めてしまったのだから、本末転倒にも思います。(実は原因はこれだけではなく、雪の日に転倒して左手首を複雑骨折して演奏できなくなったという追い討ちもあります笑)
だけど当時の私には、契約社員の給与で(手取り13万とかだったので…)大学院や留学を目指すこともできなければ、ほとんど休みのないサービス業の傍で練習してコンクールに入賞するようなバイタリティもなかったわけです。
要するに私は、プライドが高い上に、金銭的な理由や時間がなく完璧にできない自分を言い訳に音楽をやめてしまった人間なのです。
(なんか急にしくじり先生の冒頭みたいになってる?笑)
だからこそ、本音を言えば、IT業界へ転職を決めた理由は「お金を稼いで金銭的な心配をなくして」「土日休みで練習時間を確保して」いつかきっと音楽界に戻ってくる!という決意ゆえの行動でした。
でも、これまでこの頃のことを曖昧にしていたのは、エンジニアとしてのキャリアを歩む上で、「音大卒」や「契約社員」がむしろ不利になる経歴ではないか、と感じていたためです。
IT業界への入社とジレンマ
前回も書いた通り、私はどうにかこうにかエンジニアとして中小SIer系の企業に入社しキャリアをスタートしました。
しかし、もちろん注目されるのはそのバックグラウンドです。入社するなり「音大出身なんでしょ?」と好奇の目で見られたり、ピアノがあるところへ行けば「何か弾いてよ!」と言われたり、しまいにはカラオケで「何か歌って」と要求されたりするのです。(ピアノと歌のスキルは別なので、普通に音痴なのに笑)
もちろん相手には悪気はないし、私自身このバックグラウンドのおかげで注目していただいたり、距離を縮められた方も多くいたので感謝もたくさんしています。
だけど、私はエンジニアとして成長したかったし、ちゃんと技術のわかる人だ、と認識されたかったので、むしろ「音大卒」の肩書きが邪魔に思うこともありました。
「自分の出身が理系だったらもっと説得力あるのかな…」と悩んだことも1度や2度ではありません。
もちろん音大に行ったことは何一つ後悔したことはないですが、一時期はXのプロフィールからも消していたくらい、IT業界の中では音大卒を隠したい気持ちがあったのは事実です。
これまでにメディアの取材で「なぜエンジニアになったのか」と聞かれるたびに、ウッと答えに詰まることもありました。きっかけは「演奏活動のお金を稼ぐため」であったにも関わらず、適当にそれっぽい回答をしてきていたかもしれませんね。
IT業界10年の略歴と今
そんなスタートではありましたが、私は私なりに10年の間、かなり工夫して未知なる地で踏ん張ってきたと思います。
パソコンの電源ボタンの位置すらわからなくて戸惑っていた10年前からしたら、自分でも今の私を見て驚くのではないでしょうか。
長い歴史の中で、少なくとも1ミリくらいは、IT業界に何かしら貢献すらできているかもしれませんし、あの時の私にIT業界を選択したことに対して「グッジョブ!」と伝えたいです。
エンジニアとしての成長(2018年〜)
3年目までのことは前回書いたとおりですが、あれからIT企業1社目には丸4年お世話になりました。
自社サービスの開発を経験したことで、よりtoC向けのサービスにも関わりたいと思った私は、友人が起業した会社の1人目エンジニア兼執行役員として入社することになります。
前職では社員の9割がエンジニアという組織にいた環境から、エンジニアは誰もいない、使えるITツールは何もない、な状態から自分1人で開発部隊を構築していくのは非常に大変で、とてつもなく面白い経験でした。
スタートアップゆえ資金確保のための受託制作もディレクションしつつ、自社サービスとなるコワーキングスペースの利用システムを0から1人で開発しました。
前職の最後はマネジメントが多くなっていた私でしたが、この時は初めて触るプログラミング言語(※)を使い3週間でサービスを立ち上げました。深夜にリリースして徹夜の翌朝、ユーザーに使ってもらえた時には「自分にもまだ新しい挑戦ができる」という自信にも繋がったことを覚えています。
※元々はJava(主にSpring FW)使いですがこの時はRuby on Railsを使いました
▼当時のブログ
起業とビジネスチャンスの到来(2019年〜)
エンジニアとして6年目になる頃には、より自分が持っていた課題感を解決できる仕組みがほしい、と息巻いてIT企業1社目のエンジニア3人で手を組みPeerQuestを起業しました。
今や5期目も終盤となるPeerQuestで経験してきたことは毎年どんどん幅広くなっています。
受託、SES的なシステム開発から、Web制作関連、技術顧問、IT企画支援、開発内製化支援に伴うアジャイルコーチや研修など、やれることは片っ端からやったのではないかと思います。
起業1年目の終わりには、「プロジェクトマネージャー」や「プロダクトマネージャー」の抱える孤独に課題を見出し、小さいながらも自社サービス(PM向けメディアやコミュニティ)を立ち上げることもしてきました。
その後のPM不足などの市場ともマッチし、立ち上げた「開発PM勉強会」には名だたる企業がスポンサーしてくれたり、同じ課題を持ったたくさんのPMが登壇してくれたりと賑わいを見せていました。
また、これらの活動をきっかけに「PM Club」という2つ目の創業にも関わることとなります。
これらは私が「PM」の課題に目を向けていなかったら実現していなかった出会いでもありますし、視野広くIT業界に関わり人脈を広げていってよかったなと思っています。
(なんだか毎回領域選択のタイミングがグッジョブなのよ自分!)
そして、システム開発屋としてのプライド(2023年〜)
しかし、そうこうしているうちに、私は数年ちょっと心の昂り(たかぶり)を忘れて停滞していたように思います。
これはコロナ禍による閉塞感も関わっているかもしれません。
PeerQuestを起業してすぐのコロナ禍、会社としては音楽関連のこともやりたい気持ちがありましたが、当然コロナ禍で大打撃を受けていた音楽業界、演奏活動関連には関われる余地もなく、自分でも数年コロナ鬱気味だったのではないかと振り返るほど、なんかうまくいってはいるけど、やる気が出ない、演奏活動ができる見込みもなく、何のために仕事をしているんだったか?と思う日もありました。
その間に身体に持病が見つかり手術をしたり、夫と結婚して一時的に九州に移り住んだりと、今までしなかったことができたので、それはそれで良い期間だったとは思います。
だけれどどこか物足りない、ピアノの舞台で感じられていたあのアドレナリンを感じられない、と悶々とする日々を過ごしていました。
ですが、そんな時期を乗り越え、最近になってようやく、IT業界の中での自分の立ち位置にも希望を見出せるようになりました。
それは、自分のITキャリア出自でもある「システム開発屋」「エンジニア」としてのプライドです。
ここ数年は、「PM向けのサービス」にコミットを振り切ってきたことで、「PMとして」の顔や考えをどこにいっても求められる機会が増えていました。
しかし、私は圧倒的に「エンジニアしてたらいつのまにかPMっぽいこともしちゃってた」側の人間で、生粋の「PM思考」(ビジネス的観点も含む)を持ち合わせているのかというと違う気もしています。
だからあらゆる場面で、(PMとしては優先順位をこう考えたほうが良いんだろうけど、エンジニア的にはここは外せないぞ)のような技術者としての葛藤が常に頭の中に渦巻いていたのかもしれません。
このことに気がつけた時、これを自分の強みと捉えられるようになりました。
例えば家を建てるにしても、家そのもの全体がプロダクトとして初めて価値になることは理解しつつも、私は、外観からは見えないであろう土台・基礎や柱の仕組みと信頼性をより大切にしたいんです。
もちろんWebのシステムであれば建築物ほどの初期担保を必要としない前提ではありますが、その安全性の大切さも事業スピードの必要性も、どちらも理解した上でバランスをとれることこそが、自分が誇れる役割なんだ、と今は感じています。
つまり、いくら簡単にプロダクトをリリースできるようになったWebという世界とはいえ、セキュリティも保守性もないようなサービスを私は提供できないわけです。ユーザーに価値提供するどころか、脅威を提供してるようなものですものね。
(だってどんなに素晴らしい家に見えるプロダクトが完成されても、実は柱は適当にやっちゃったんだよね、って思ってたら自信持って引き渡せないでしょう?笑)
ここではこれ以上の自論は展開しませんが、こんなふうにして、10年経った今でも、もがき続けながらIT業界で頑張っています。
それくらい、このテクノロジーの世界に見出す面白さも大きいということです。
ピアノとの再会
IT業界で10年も頑張ってる、それはわかった、じゃあ最初の演奏活動っていう目的はどうなったん?と思われる方もいるかもしれません。
ご安心ください。
2024年(正確には2023年末)、私は本当に本当についに、念願叶って、ピアノと再会することになりました。
これは誰よりもまず、私を理解し協力してくれた夫に感謝しなければいけませんが、ずっと倉庫に預けていた私のグランドピアノを自宅に置けるように、防音室つきの家に引っ越してきたのです。
自分が、ピアノを前にしてこんなにも高揚感をもつとは思いませんでした。
もしかしたらもう情熱を失ってしまって、弾きたい気持ちが湧かないんじゃないかという不安さえありました。
でもそれは杞憂に終わります。
私はまさに水を得た魚のように心が躍って、何時間でもピアノを触ってしまう日々に戻ることができたんです。
二兎を追うものは一兎も得られない?
私は、この10年で、この時のために「時間で働くのではなく価値を提供する」という仕組みを着実に積み上げてきました。
100時間働いたから100万円もらう、ではなくて1時間で100万円分の価値を提供すれば、残りの99時間はピアノの練習をできる、ということだから。(これは極端な話だけど)
そして改めて感じていることは、「チャンスはいつだって動けば巡ってくる」ということ。
今更ピアノを再開したって、もうピアニストになるのは無理なのでは?なんて外野は思うかもしれません。
それでも、私が勇気を出してピアノを再開したよと言えば、今でも声をかけてくれる人が、演奏会に呼んでくれる人が、少なからずいるのです。
お客様の前で演奏をすれば、素敵な曲ですねって声をかけてくれる人や、あろうことか「サインもらえますか」なんて方も出てくるのです。(サインはないのでフルネームを書きました笑)
これがもし、自分の中だけに秘めていて誰にも頼ることもしない妄想に留めるのであれば、確かに演奏活動は無理かもしれないです。
でも、私はIT業界だろうと音楽業界だろうと、いつだって周りの方に助けられていると思うし、これからも声を上げて助けていただくのだと思います。心から感謝しています。
だから、父がいつも言っていた、「迷ったらより大変そうなほうを選べ」
その言葉に従い、今わたしは二兎を追うことを決めたんです。
今後また新たなチャンスが訪れた時、自分が何を選択するかはまだわからないけれどね。
以上が、ピアニストからエンジニアに転職して10年経って、ピアニストとしても再起を目指している話、でした。
これからは自分で自分のパトロンになり、演奏活動でも、IT業界の盛り立て役としても奮起していきます。
二足の草鞋、上等でしょう。
いただいた応援の気持ちは、私が良いなって思ったコンテンツへの応援の気持ちとして次に繋げます☆+*