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人間関係の数と密度に関して

とあるブロガーが社交性は演技力だと言った。なるほどなと思った。

辞書で「社交性」について調べてみると、
1、人とのつきあいを好む性質。また、人とうまくつきあっていける性質。
2、社会を形作ろうとする人間の特性。社会性
とある。

人によって程度の差はあるだろうけど、はじめての人と会うことやコミュニケーションをとることは緊張があるし、人見知りが発動することもあるだろう。

自分とは違う、他人と接するというのは、空気を読んだり、相手の出方を見たりと面倒なこともある。
その面倒さを受け入れながら接するのが最低限の礼儀だったりする。

社交性に関して、わりと真剣に考えた時期があった。

もともと、このようにして文章を書いたり、小説を書くような人間だからこそ、ひとりで思惟することが好きだし、ひとりの時間も好きだ。というか、ひとりの時間もある程度確保されていないと息苦しくなってしまう。
現在の仕事(会社員)とこれからやりたい仕事(作家)」に
なんとなく私が今やっている仕事とちょっとだけ学生時代やってたことにふれているのだが、ある程度の社交性がないと務まらない。

昔から、苦労して人間関係を築く面倒さに向き合いながら、友達の数を増やすことにあまり関心はなかった。趣味も読書、部活動も美術部とか、ひとりで完結するものが多い。スポーツも得意ではないから、他人と協力してチームをつくってということもあまりやってこなかった。
人との接触で何かを生み出すというより、自分の世界に没頭することに夢中だった。
しかし、言われたことをきちんとする、まじめな性格なのと、ある程度の責任感があったせいか、ちょこちょこリーダーやら、部長などの役回りは回ってきた。
そんな役まわりから、リードすること自体もそうだし、人と人の間に入ってなにかトラブルがあって解決をはかるとなると、いつも面倒だなあと思っていたりもした。

どちらかというと内向的な私が、社交性を身に着けようと奮闘するようになるのは、大学生になってからだった。
イベントをつくるサークルをやっていて、いつものごとく、まじめな性格が功を奏して(?)、代表になったのだ。
私の通っていた大学のキャンパスはメインキャンパスとは違うサブのキャンパスで、兵庫県の少し田舎にあって、近くに交流できる大学などもほとんどなかった。わりと閉鎖された環境だった。イベントをつくって何かを発信するサークルなのに、閉鎖的環境というのは致命的だった。視野が狭いと思った。サークルを率いる立場として、内向的で視野が狭いままなのもだめだという問題意識を持っていた。積極的に他人と繋がらなければならないのではないかと思った。
当時はやり始めていたTwitterを見て、同じように学生サークルや団体で活躍している人のまねをしようと、いろんな外のイベントに行ったり、そこでつながった学生から誘われたイベントや交流会に行ったりしていた。
「はじめまして」からはじまり、自分が何をやっていて、何に興味を持っていて、将来何をやりたいとか、そんな話をしていきながら人とつながっていった。
人と出会う数は多かった。SNSでつながる人間も増えたし、連絡先も増えた。いろんな価値観の人間とも出会った。普段の自分だったら、友達にはならないだろうなというタイプの人間にも出会った。
それはそれで刺激的だったし、新しい人と出会うこと、そこで今まで自分の慣れ親しんだものではない態度で人と接していくことに充実感も感じてはいた。殻をやぶろうとしているようで、新しい自分になれているようで、満足もした。
はじめましてからのおどおどは少しずつなくなり、堂々としていることができた。場の空気を読みながら、親しげに話しかけたり、話をきいたりすることができるようなった。
社交性って身に着けられるもんなんだって実感した。

そう、「身に着けるもの」。
冒頭の社交性は演技力という言葉につながる。
身に着けるもの、演技力、それらは後天的に備えるものであって本質ではない。

SNSでつながる人間や、連絡先の数が増えた。つながりは増えた。世界は広がったように見えた。確かに。
増えたつながり分だけ、人間関係は濃密になったのだろうか? 
否、逆に希薄に感じるようになった。
演技力の社交性で親しくなった人間がいたとしても、本音をどこまで語れるか。しょせんは演技でしかない部分でつながった人間に本音や本心を差し出せるかどうか。困ったときに頼ろうと思う人間はそこに何人いるのか、もし困っている人間がいるとしたら、助けたいって思える人間はそこに何人いるのか。
何人の人間とつなかがったかという数に固執することはいかに馬鹿らしいか。
それよりも大切なのは、数が少なくても、どこまで信頼関係を築けたか。ではないか。

ひとりがもっている人と繋がれるエネルギーって限界があって、数がふえれば増えること、ひとりに割くエネルギーは減っていく。
逆に数は少なければ、その分丁寧にコミュニケーションを割くことができるのではないか。

社交性を否定するつもりはない。
社交性は人と人とを取り持つ潤滑剤でもある。
社交性で広がる世界や視野もある。
ただ、自分が疲れたり、無理をしているように感じるのであれば、見直してみてもいいのではないか。

しょせんは演技力、演技するのが疲れたら、内にこもるのもまた一興。
内にこもるのにも飽きて、外の世界が見たくなったら再び社交性を身に着けて、出かけるのもまた一興。

社交性に関して、私の生活を振り返ると、仕事(ビジネス)には社交性を存分に活かしている。繊細で傷つきやすい本質を差し出さなくても、人当たりをよく演出しておけば、話がまかり通るのがわかりやすい。
とはいえ、本質は内向的内省的なゆえ、吐き出せなかったモヤモヤや、飲み込んできた言葉達は、このようにしてエッセイや小説として吐き出されているのである。

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