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人生のネタバレ化を乗り越えて

コナンでも古畑任三郎でもなんでもいいんですけど、小説や映画ってだいたい事の真相が物語の8割進んだくらいで明らかになってきて、それを目の当たりにするとオーディエンスは「そろそろクライマックスが近いな」と感じる。そんで、同時に、「ああ、終わっちゃうなあ」とさみしさを感じる。それがまだわからないときは、この楽しい時間がまだまだ続く気がして、あるいは物語の分岐がまだ無限の可能性を有していて、どう妄想しても、何を考えても今は許容される、そんな、夏休みの初日みたいな、気楽な楽しさがあって。それが、時間の経過とともに、どんどん角度が狭まっていって、「犯人はお前だー!」の瞬間に、1点に決まっちゃうような。決まるって、そういう意味では、本質的にさみしさをはらんでいる。それが、映画ドラマのように向こうから勝手に決まってくれれば、まだ受け入れる苦しみだけで済むけど、自分が決める側になった場合は、さみしい状態を自分で決定づけるんだから、もっとつらいですよね。「いや… 信じたくない… 信じたくないけどどう考えても…」って、途中で親友が犯人だと気づいちゃった探偵のような。

「決めるのが苦手な人」は、優柔不断だったり怖がりだったり考えすぎもあるけど、「決めるのが寂しい」というのもある気がする。ほかの可能性を手放すさみしさ。話が進んでいってしまうさみしさ。犯人が徐々に絞られていくとその小説も終わりに近づいてるんだなと感じてしまうあの感覚。決めるってさみしいんだ。その感情を自覚したうえで、決めることと向き合ったほうが少なくとも自分は、決められるなあと最近ふと気づいた。

逆に言えば、「すでに決まり切ってしまっていると思われているモノゴト」に対して、人は諦念や、もっと行くと無関心になることで、妙なさみしさから心を回避させてるわけで、そこに、「いや、まだそうと決まったわけじゃない」と思える人が、未来の新しい決定を掘り起こせる人なのかもしれない。しかも、世の中はどんどん、情報の増大によって「ネタバレ化」している。ドラマや漫画、映画だけにとどまらず、やったことのないことに向けられた自分の心の中の小さなか弱き好奇心が、「あー、それ、だいたいこんな感じだよ」と、外部からもたらされるネタバレによって、既視感とともに抹殺される。情報はどんどん増えているのに、それが好奇心の養分になるどころか、栄養過多で根腐れするような、人生のネタバレ化が。だから、そんな、一見もう社会においてはネタバレになっているとみんなが思っている、決まっていると思っていることで人が心を割かないようにしていることに、さみしさを乗り越えて向き合える人。そういう、ある種の、めんどくさい人が、かっこいいのかもしれないなあ。

それにほんとうは、どんどん真相がわからない時代になっていくだろうから、安易な「ネタバレもどき」に人生ゆだねるなんて、もったいない。ネタバレの向こう側に、さみしさを乗り越えて、決めていければと、最近思う。

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