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多分必然の再会

自分のデスクで仕事をしていると、懐かしい声が私を呼んだ。
驚いて振り向くと、昔お世話になった先輩が笑顔でこちらを見ていた。
別部門へ出張に来ていて、私がこのオフィスにいることを聞きつけ顔を見に来てくれたのだった。

あと数年で一旦定年だと仰る彼女と会うのは5年ぶり。
以前とは違うグレイヘアが年月を感じさせはしたものの、それは健康的で美しく手入れされており、快活な印象はそのままだ。
彼女は昔から「年齢を重ねるのも悪くない、むしろかっこいいことなんじゃないか」と思わせてくれる。

休憩がてらラテを買いに近所まで――、道すがら近況報告をし合った。
相変わらずの「竹を割ったような」の形容がぴったりな気持ちの良いお人柄で、懐かしさも相まってついつい喋り過ぎてしまった。

彼女が出張を終え、帰国してからメッセージをくれた。
そこには私を心配していること、私の力になろうとしてくれていることが社交辞令ではなく具体的に書かれていて、私がいよいよ助けを必要とする時には遠慮なく頼って欲しいということだった。

私は同じオフィスでも他部門とは業務上関わりのない部門にいる。
さらには部門唯一の日本人だ。
そのため、一人の力ではどうにも太刀打ちできないことがままある。
他の部門の日本人赴任者に相談したとしても、理解してもらえなかったり、軽く流されたりすることがほとんど。
環境が異なるのだから仕方のないことだと思っていた。

けれど、たまたま出張にきた彼女は私の話を本当の意味で親身になって受け止めてくれていた。
メッセージの文面からそれが伝わり、ただそれだけのことなのに心がスッとした。

彼女が提案してくれたのは、ある種最終手段に近いものだった。
だが、いざという時に取れる手段の一つを提示してくれたおかげで、逆に自分を奮い立たせることができた。
現状を変えるために、まずは今自分できることを全て試してみようという気持ちが湧いて来たのだ。
そこまでしてダメだったら、もう打つ手はない。
そうなれば、その時。
潔く諦め、持てる手段から一つを選ぼう。

年長者に相談するときに、ご自身の自分語りにすり替えてしまう人がいる。
気づくと相手が話す時間が圧倒的に長くなって、結局こちらが何を困っているのか正しく伝わらないまま判断される。
ひどい時なんて「気にしすぎるな、がんばれ」みたいな適当なこと言って終わり、「一体何の時間だったんだっけ?」となることもある。
それをスルーできないところまで来たから相談しているのに、「気にするな」というのは、はっきり言って野暮だし、全然親身になってないのだろうか。

彼女の対応は終始ちょうど良かった。
少なくとも私にとっては――。
私の話を辛抱強く聞いてくれ、かと言って聞いた内容だけが全てだとも捉えず、自分が取れ得るサポートを示し、必要な時にはいつでも頼ってよいことを伝える。
私はいざという時の”カード”を一つ得ることで精神が安定し、それを使うまでに自分ができることを具体的に考え、とりあえずもがいてみようと奮起した。
これは相談事に限らず、組織や職場環境でもそうだ。
心身が安心・安全が保障されていれば各自がのびのびと実力を発揮でき、結果、組織としての成果を最大化できる。
そういうのを健全な働きやすい職場と言うのだと思う。

5年ぶりの再会だったが、彼女は今も憧れの先輩だった。
そして、自分が一社会人の端くれとして、一つの要素として目指すものが明確になった。
周囲に心身の安心と安全を与えて、自分も皆も本領を発揮できるような環境を作れる人間になっていきたい。

人生とは不思議なもので、必要な時に必要な人と出逢えたり、再会できたりする。
偶然でも必然でも何でもいいけど、彼女がこのタイミングで台湾に来てくれて本当に良かった。

最後までお読みいただきありがとうございます。 また是非遊びにいらしてくださいね! 素敵な一日を・・・