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窒息しない水中に喘ぐ

 大人になってから知り合った友だちとスペインを旅する話をした。彼女とマドリッド、グラナダ、セビーリャ、バレンシア、サン・セバスティアンその他の都市をできたらバスでたずねてみたい。なんとなくそう思っていた。今夜それがごく自然に口から出て、いっしょに行けたらいいねがいっしょに行こうよになった。

 スペインの内情は本当のところほとんど知らない。マドリッドの新聞
エル・パイスあるいはスペインの国営放送、SNS等で情報を追ってはいるが、情報は頭の中をぐるぐるするだけだ。ずいぶん昔に一度だけアンダルシアとヴァレンシア、マドリッド、バルセロナを訪れた。当時の記憶以外のスペイン、つまりスペインの99%を私はまったく知らない。コロナ前のスペインもコロナ後のスペインもその情景も空気の匂いも水の手触りもスーパーマーケットの食品陳列方法も本当に知らない。
 でもなぜだろう。大学でスペイン語を専攻したのは事実だが、実社会をこの言語で生きたことはない。それなのにエスパーニャという言葉の響きからは離れらないまま年を重ねた。

 旅をすることで得られるものを考えてみた。
 失うものは、いつでも失う。わたしは長い時間をかけてようやく喪失の感覚を手放そうとしている。これからは得られるもののことだけを考えよう。
 旅をする。
 ネットや写真集でしか見たことのない、絵画のようにあるいは絵画以上に神秘的かつ人工的な景色を実際に現実として目にする。
 その土地特有の食べ物を口にして、歯で噛み、舌で舐め丸め、喉で飲み込み、甘い苦いしょっぱい辛い酸っぱい以外の言葉を探す。臭いももちろんあるだろう。
 母国語ではない言葉で肌の色も目の色も髪の色もまったく異なるひとたちと話をしてみる。だから挨拶はとても大事。どうも、こんにちは、ありがとう、どうぞ、ごめんなさい、また明日、さようなら。ごくわずかの言葉を懐に異国を歩くことは十分可能だ。実際は体調を崩したときのために、気分が悪い、熱がある、医者を呼んで。この程度の言葉は覚えておいた方がいい。
 現地の交通手段で旅をする。このところの日本は海外からの客の目には観光天国に映るらしい。コンビニ・駅・アスファルトの路上・公園・花見・富士山・渋谷・温泉・裏通り・居酒屋・アニメ・築地・清水寺・鮨・お好み焼き・ラーメン・納豆。私たちの国のさまざまな景色を味わおうと、多くの外国人がはるばるといくぶんカジュアルすぎる服装で訪れる。彼らが認識する新鮮を私たち日本人はもしかしたら知らない、あるいは忘れてしまった。慣れと固有の常識は私たちの感覚を少しずつ鈍化する。逆に日本人が海外を車や列車やバスで旅してまわれば、現地の人たちの心にはすでに見えない輝きを、アジアの先進国日本に暮らす私たちの目が、鋭く暴く可能性だってないとは言えない。先進国という言葉はほんとうは適当ではない。けれど先進国であるとの思い込みを失ってはいけないと考える。
 音楽・詩・レストラン・映画館・劇場・美術館。
 国立公園・終わらない緑・止まらない風あるいは烈風・どしゃ降り。太陽と犬。

 少しスペイン語から離れる。
 どしゃ降りを英語はraining cats and dogsと書くと習った。鋭利な雨が道や屋根に隙間なく突き刺さる様を、cats and dogsと最初に言い表したのは誰だろう?
 誰だ?秘密を漏らしたのは?
 これを英語はWho spill the beans?と書くとも聞いた。物置小屋の豆がざあっと雪崩のようにくずれ落ちる様を思い描くと、たとえば秘密のセクシャルな関係が外部に知れ渡るときの情けない様とどこか合致しているようで微笑ましい。
 極端に不器用な様子を英語はall thumbsなどという。ぜんぶ親指と直訳すれば、なるほどねとうなづくしかない。
 単語の意味と意味が互いをうまく受け止めると、なんとも素敵な詩になるとわかる。英語の慣用句の本質は詩なのだ、勝手にそう判断すれば複雑な英文を丹念に読みほどこうとの気力も沸く。言葉がふたつ折り合えば、すなわちそれが文学なのだなどと気障な主張も、今夜は隠さずに眺めていたい。

 外国語の楽しみ方は無限だ。コミュニケーションの手段であることはもちろんだが、紙でもネット上でもなんでもいい、辞書と類語辞典を手に未知の認識に潜る愉快はひとりでも、否、ひとりであるからこそ自在に満喫できる。地球の歴史、宗教あるいは文学、言語学、人類学、経済。さらに科学そのものが素人の前に、花園のように、熱帯雨林のように、魔境の図書館の如く、妖しくその片鱗を見せようとしている。この誘惑を追わない手はない。母国語のみでは届かない感受性・理性を外国語学習を通じて手に入れよう。本来ならこのようなベーシックな欲求は大学時代に燃焼させておくべきだった。ひらたく言えば、勉強はしておいた方がいいの一言につきるのだが、勉強せずに来る日も来る日も煩悩や孤独感にさいなまれた日々があったからこそ、老齢の現在、ひとりよがりの情熱を学問に向けたいとの最後の欲を所持していられるのかもしれない。

 いくつになっても夢から醒めない。
 いくつになっても現実から逃れようともがく。
 窒息しない水中に生きている。
 
 外国語も旅もギャンブルもクスリも夜の喘ぎも。
 一瞬の快楽であるからこそ、人間はそれから離れられない。


 

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