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火葬場 信仰とアゲハ蝶 

 その家の壁には長い掛け軸がぶらさがっていた。掛け軸にはくろぐろと念仏が書かれていたが、嫁は念仏を唱えたことはない。難しい漢字ばかりでとても読めないからだ。
 義理の父と母はこの嫁が気味悪くて仕方がなかった。なにしろ、嫁の足はいつでも地面から二センチほど浮いているように見えるからだ。外に働きに出ることもなく、かといって家の仕事をするでもない。趣味を持つでもなく、ただ家の中で浮いている。滅多に笑わず、何かに怯えているかのようにときどき震える。
 夫は嫁を大切に扱った。どこかで面白い話を仕入れてはそれを嫁に語って聞かせ、誕生日や結婚記念日には花束やハイヒールや水玉柄のワンピースを買ってやった。嫁は夫にありがとうといい、花束は三日もたたぬうちに嫁の手で処分され、ハイヒールはほこりをかぶり、ワンピースは壁の飾りとなった。

 たくさんの月日がすぎ、しかし義理の父と母にはこの嫁が何を考えているのか、なぜいつも床から二センチ浮いているように見えるのか、なぜ何もしないのか、何に怯えているのか、まったくわからなかった。
 義理の父と母は何度か嫁と話し合おうとした。まんじゅうを用意し、上等の茶で嫁をもてなし、生活の基本を嫁に教えようとした。庭の芝生に水をまくこと、晴れた日は2階の窓を開け、布団を干し、台所の床はいつでも清潔に保つこと。
 嫁は目はとろんとしていた。とろけた視線の奥に潜む強情を義理の父は見た。この嫁はおそらく誰に対しても、絶対に、従うつもりはない。義理の父は心底この嫁が嫌になった。
 ある日、義理の母が亡くなった。葬式で、義理の父とその長男である夫と義理の姉たち、親戚の女たちが泣いていた。嫁の目に涙はなかった。棺に色とりどりの花を詰める際、ひとりひとりが死者のために短い手紙を書き、棺の花に添えた。嫁は小さなカードに「ご苦労様でした」と書き、白い百合といっしょに棺に入れた。
 翌日か翌々日、大きな仏壇がやってきた。仏壇に続いて若いお坊さまが現れて、念仏を唱え始めた。ひとりに一冊ずつ、念仏の本が配られ、お坊さまのあとについて、最初は小さく、しだいに波を打つように騒々しく、かれらは念仏を唱えた。嫁は念仏を唱えようとはしなかった。読めない漢字が多いのと、お坊さまのぎらぎら下品に輝く袈裟が気に入らなかったからである。大金を包んだ袋をお坊さまに渡す習慣も嫁にはいかにも作為的な嘘っぱちにしか見えなかった。ぜんぶが嘘だ。なにもかもが気に入らない。
 義理の父が唐突に叫んだ。
「あんたはなぜいつも浮いている」
「あんたは、なんで働こうとしない」
「あんたは、どうして普通のことができない。普通の女の人があたりまえに出来ることをなぜあんたはしないのだ」
「どうして機嫌よく笑わない」
「どうして念仏を唱えない」
「あんたがなにもしようとしないことを親戚中が嗤っている。せめて俺の息子にもっと尽くせ」
 嫁は無力ではあったが、さほど愚かでもなかった。少なくとも義理の父が抱える憎しみを察することくらいは彼女にも可能だった。自分に対する義理の父の憎しみが親戚のひとたちに伝染する速度を嫁は計った。一同からの視線が悪意と軽蔑に満ちていることを嫁は見事に受け入れ、その上で嫁ははじめて義理の父に対し大声で逆らった。怒鳴ると全身がおのずとびくびくした。放つ言葉はあたりの空気を不均衡に歪めた。
「お義父さん、わたしは毎日毎晩、あの方の言葉を待っています」
「お義父さん、わたしはあの方がすぐそばにいることを知っています」
「お義父さん、わたしは念仏を唱えることはできません」
「お義父さん、わたしは、他のひとがあたりまえのように出来ることが出来ません」
「お義父さん、わたしが笑わないのは、わたしが笑うと醜いからです。醜いからです、お義父さん」
 義父の手のひらが嫁の頬を打った。抵抗する嫁の右の肘が義父の銀縁の眼鏡を弾き飛ばし、眼鏡は床に落ちた。床に落ちた眼鏡を嫁の足が何度も何度も踏みつけた。嫁の足が眼鏡をぎりぎり壊している。嫁の足が銀縁の眼鏡を蹂躙している。義父ははじめて嫁の足がしっかりと畳を踏むのを見た。
 その瞬間、嫁は宙に浮いてはいなかった。畳の上に、あるいは眼鏡の上にしっかと立っている。

 夫は激高する嫁の体を両腕で抱きしめ、父に謝りなさいと何度も何度も言ってきかせた。しかし嫁は固く顔をこわばらせ、決して謝ろうとはしなかった。
 一年後、義父が息をひきとった。死の床で、義父はわずかに泣いた。たいせつな長男に「ありがとう」をいい、運命に身を任せ静かにこの世を去った。嫁は病室の隅、パイプ椅子に座り、古い置物のようにじっと固まっていた。何もしようとはしなかった。

 火葬場は町はずれの丘に建っていた。火葬場の周辺は隙間なくもくもくと緑で埋もれていた。緑の奥に小さな公園。嫁はひとりきり、公園のベンチに腰をかけ、夫が火葬場から戻るのを待っていた。三十分待った。一時間待った、二時間待った。夕暮れまで待った。
 嫁はあの方の言葉を聞いていた。あの方の姿を見ていた。あの方の衣に触れていた。あの方の指先に触れていた。嫁はたしかにあの方に包まれていた。嫁はあの方に笑顔を求めた。あの方は果たして笑うのだろうか。イエスは果たして?嫁の頬には涙があった。終わらない涙と過ぎ去らない愛を同時に嫁は得た。
 一羽のアゲハ蝶が現れて、嫁の体をくるりと舞った。水色の線が入った黒いアゲハだ。嫁はベンチから立ち上がり、アゲハ蝶のあとを踊るように追っていった。

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