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ハロー・マイフレンド そうだ。呼吸をしよう

 なんだかよくわからないがほぼ毎日ここになにかを書いている。今年の3月にはじめた習慣だ。さいしょのころは欲があった。「ずいぶん長く文章を書いてきた、可能であればだれかに読んでいただきたい、おもしろいわあ、などとはしゃいでいただきたい」そんなことを考えていた。「書く」行為のうらに「だれか」の目に留まりたいとの、いってみれば下心があった。

このごろは、下心がぼんやりしている。書くことがわりと単純に楽しい。書くことだけではない。読むこと、学ぶことが楽しい。寝ることも食べることも楽しい。ひとと単純なコミュニケーションをとること、あるいは「どうやらこのひととは相容れないものがある」などと思考をやや尖らせること、けれど2分後には思考は軟弱化して「どうでもいいや」に落ち着くこと、下手をするとこの夏の蒸し暑ささえ、要はすべてがわりとシンプルに楽しい。

 弱視である。
弱視とはなにかをうまく説明はできないが、弱視のために幼いころは左の目がよく中央に向かって泳いでいた。寄り目だ。きみが18になれば寄り目は治るよ、豪語した眼科のお医者様は、すばらしい慧眼の持ち主で(慧眼の使い方はこれであっているだろうか?調べるのが億劫なのでこのまま進めるが、やや不安である)彼の発言はズバリ当たった。18で進学のため上京するとわたしの左目は寄らなくなった。
 ちかごろふたたび左目が泳ぎ始めた。卓球で激しく汗をかき、紅潮した顔を鏡で見ると、幼いころの懐かしい寄り目がそこにある。鏡の中の寄り目に「ハロー、マイフレンド」と陽気な声をかけてみた。へんな女だ、よく言われる。自分でもわりとへんな奴だと思っている。


左から右へ、過去と思いは流れあるいはふたたび姿をあらわす。
右から左へ、希望あるいはあきらめが水に洗われる。
 感受性とは「こころの傾向」である。こういうことをわたしは誰に向かって言いたいのか、少なくとも神さまではない。
 正直になることは必ずしも美しくはない。
 わたしは神さまをさほど好いてはいない。

 希望は叶うが苦しい未来
 希望は叶わないが楽しい未来
 希望は叶わず苦しい未来
 ひとはどれも選べない。選べるものは「今」だけだ。少なくとも「今」を視ることは可能だ。どのような「今」であっても、ひとは「今」だけを持っている。
 今、なにをするか。
 わたしは眠る。

 先ほどまでスペインの公共放送を聴いていた。スペイン語のニュースや討論を2年前は私の耳は雑音としてとらえた。1年前に雑音が半分言葉として聴きとれるようになった。半年前にアナウンサーの話の80%を理解できるようになった。
 意識の半分は寝ている、残りの半分で聴く。いい加減なリスニングでも続けるとチカラになるのだ、実感した。だれかに威張りたいので書いておく。
スペイン語の読む聴く書く話す。いちばん苦労するのは「話す」ではあるけれど、これも「間違わずに話したい」とへんに気構えるから脳に要らぬ力が入る、「間違おうが滅茶苦茶だろうがなんでもいいからともかく話す」に慣れると不思議に「話す」が以前より楽になった。

 脳みそから要らぬチカラを抜く。
 肩から要らぬチカラを抜く
 集中する際、呼吸をする。

 今のわたしのこころの課題だ。これは同時にわたしの卓球の課題でもある。
 
 卓球は楽しい。
「いいサーブを継続的に出す」
「ボールをうすく取る」
「ボールを待つ」
 課題はいろいろある。

「呼吸してください」
さいきんコーチによく言われる。

 そうだ。呼吸をしよう。

 じょうずな方は山ほどいる。じょうずな方のプレイを眺めるとぞくぞくする。美しいフォーム、瞬く間を貫くドライブ、うっとり眺める。

 

 

 



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