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映画『東京オリンピック』

以前もシアターで観たことはあるけれど、2020年東京オリンピック開会の一週間前に設定されていたであろうNHK BSプレミアムの放送で再び。

大河ドラマ『いだてん』の再放送が直前まで編成されていて、その流れで映画を放送、2020大会の開会式という流れを目論んでいたのだろうな、と思いつつ、それが壊れてしまった後もそのままに放送したのは、実は編成した担当が、『いだてん』やこの映画で描かれた真のテーマを逆に浮かび上がらせようとしたんじゃないか、と若干深読みしつつ面白く再見した。

『いだてん』は、政治や外交、戦争に振り回されるなかで、出る人、支える人、観る人が、いかに人間の尊厳と希望と努力という、本来のオリンピックの精神に立ち戻っていこうとするかを、時に笑い、泣きを交え、歓喜と静かな感動に誘導していくドラマだったけれど、この市川崑監督の傑作映画は、その答え合わせをするかのように同じ視点が、そこここに隠れている。

答え合わせという意味では、SNSでも「これドラマのあのシーンだよね、裏ではこうだったんだよね」という話題で盛り上がっていたけれど、そのシームレスな共有感覚は、脚本の宮藤官九郎がこの市川作品を結構ベースにして(実際にドラマにオフカットも使っていたし、なによりも三谷幸喜演じる市川崑が出てきたりもしてる)んじゃないかな、と思ったり。

あまりにも有名な「芸術か、記録か」論争でもよく言われているように、この映画『東京オリンピック』の本質は、誰もがクライマックスと認めるアベベ・ビキラの躍動する筋肉、ストイックかつ精悍な横顔をずっと追い続けるショットに代表されるように、競技記録はまったく興味なさげ。すべてそそくさと触れる(そもそも全競技を同視点では追ってないし、射撃とか普通クローズアップされないような競技にえらく尺を取っていたり)程度で、映し出されるのは、勝者の喜ぶ顔だけでもなく、終了後に放心する表情、敗者が何も言えず倒れ込み担ぎ出される姿、無邪気に応援する観客の一喜一憂、号砲に耳をふさぐ子ども、観客席に殺到する人の足元、競技場や表彰台に選手がそっと置く人形やレモン、競技前の緊張の時間に選手が吹く口笛、鳩に驚いたり興味深げに近づく参加者、選手村で旺盛に食事にかぶりつく口元…。

(個人的には、大松監督が金メダル取ったあと、喜ぶでもなく硬い表情のまま座り込むシーンや、整然とした開会式での平静な表情と歓喜と混乱の閉会式でにこりと笑う昭和天皇を対比させた編集が、割と印象に残っている)

国や民衆の期待を一身に受けて参加したはずのそれぞれの選手は、しかし競技を行う一瞬やそれから解放されたときには、尊厳を持つ「一個人」であって、オリンピックという「創られた平和の空間」のなかで輝くそのありのままの「人」の姿は、国籍、人種、性別問わずまったく同じで差異はない。この映画ではその本質を、繰り返しスクリーンに映し続けている。

それが、冷戦下で国際紛争がシリアスであった時代背景のなかであっても、閉会式でるつぼのように選手が交じり合った笑顔の溢れる感動的なシーンに昇華されていく。組織委の都合で事前にシナリオを作らなければならなくてびっくりした、という監督のコメントもあったけれど(ただ別にその通りに撮った訳ではない)、逆にその骨格があったからこそ、作品のテーマがぶれなかったということもあるのだろう(実際にリーフェンシュタール(『オリンピア』)のような競技自体の再撮はしてないとのこと。富士山前の聖火とか、体操のベラ・チャスラフスカのイメージ映像とかは再撮だけど)

4年ごとの夢の祭典は、そのバックにある国際間の紛争は現代も改善せず、国威発揚のゆがんだ政治家の意図もそのままに、アマチュアリズムも捨て、その夢をビジネスとして金に換える「商業主義」が追加された。2020年の延期の中で振り返った1964年の大会の記憶は、その「人」を大切にしない今の世の中を、時を超えて浮かび上がらせている気もして、次世代に語り継がれる「創作」という、これもまた人のみが持つ優れた特質の本質と存在理由を、鮮やかに証明したのだと思っている。

1965年/170分/日本 総監督:市川崑/脚本:市川、和田夏十、白坂依志夫、谷川俊太郎/撮影:林田重男、宮川一夫、中村謹司、田中正/音楽監督:黛敏郎/ナレーター:三國一朗/配給・東宝 


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