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梶井基次郎の「闇の絵巻」

「闇の絵巻」

梶井基次郎に伊豆の湯ヶ島を舞台にした「闇の絵巻」という短編小説がある。主人公の「私」は「下流にあった一軒の旅館から、上流の旅館まで帰って来る」間に、山深い闇の道を歩いてくる。
今でこそ温泉街として知られているが、昔の湯ヶ島には旅館が4、5軒くらいしかなかった。梶井基次郎は、落合楼に逗留していた川端康成を訪ねていたという。他にも梶井の遺稿「温泉」という短文を読むと、真夜中に温泉浴場へ通っていたことがわかる。

宇野千代が書いた「梶井基次郎の笑ひ声」(ちくま文庫『梶井基次郎全集』所収)では、これらとは違った見解が述べられている。それよれば、湯ヶ島時代、梶井は27歳、宇野は29歳の若さだった。
梶井は宇野のいる湯本館へ、夜の食後の散歩と称して、毎晩のように通っていたという。梶井はまわりの人に決して自分の感情を見せることがなく、病気のことも隠していた。


存在の不安?

梶井基次郎には、時に山を歩いて、数日間姿を消したりする奇行があったという。その後、宇野千代が亡くなる直前の梶井に会ったとき、梶井は「もし死ぬようなことがあったら、僕の手を握ってくれますか」と宇野に言ったともいう。
これらのことから類推すれば、「闇の絵巻」はよく存在の不安と結びつけられるのだが、むしろこの短編を恋する者の苦悩の彷徨として読むことが可能なのではないか。

梶井基次郎の短編小説「闇の絵巻」は、普通、存在の不安と結び付けられて読解されることが多い。しかし、29歳のときに書いたこの小説を、恋する者の苦悩の彷徨として読むことは可能だろうか。
主人公の「私」は不安や恐怖の感情でいっぱいになり、「その一歩」が踏み出せずにいる。その一歩を踏み出すためには、悪魔を呼ぶか、「絶望への情熱」がなくてはならない、とまで言う。
しかし、彼は恋の告白に踏み切ることができずに、反対に、闇を愛するようになってしまう。主人公は闇と一体になると安息を感じるという。遠い電燈を眺めて感傷にふけるという行為は、恋する者のそれでなかったら一体何なのか。


分身の問題

主人公が闇のなかに自分の分身らしい者を見て、それが闇へと消える姿に心を動かされるシーンがある。これは、普通、梶井基次郎に近づいていた死の象徴と関連づけて考えられるだろう。
しかし、よく読んでみると、「誰かがここに立っていれば」自分もあのように闇へと消える姿に見えると書いている。
つまり、自己を見ている「誰か」の視点が想定されているのである。それをある特定の女性だと考えることは、下司の勘ぐりであろうか。

宇野千代の「梶井基次郎の笑ひ声」という小文によれば、梶井は自己の感情を表に出さない人間だった。そんな彼であるからこそ、秘めた恋心を誰にも悟られないように、「闇の絵巻」という象徴的な散文詩がかけたのかもしれない。


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